ノブヤンのひとりごと 12(音楽教師としての備忘録 3/7)
〜男子部員のチームワークを作った柏の名店『ホワイト餃子』〜
千葉県の柏にある餃子の専門店「ホワイト餃子」(写真1)は、テレビで取り上げられることも多く、多くの方がご存じだと思いますが、もともと本店は千葉県の野田市(写真2)にあり、そこから暖簾分けをしたような形で全国に系列店(写真3)が展開している餃子の人気店です。
今から遡ること44年前、縁もゆかりも無い柏の地で就職をした私は、当然自炊生活でしたが、ある時先輩の先生に「晩めしを食べに行くぞ」と連れて行かれたのが「ホワイト餃子」でした。 出てきた餃子は、焼き餃子といっても油で揚げた一口サイズの丸い形をしており、中華料理店の餃子とは似ても似つかぬものでしたが、一口食べたらとてもおいしくて、胃袋には次から次へと入っていきました。 これが私にとって「ホワイト餃子」(写真4、5)との最初の出会いでした!
私は大学時代も自炊生活でしたが、学生と社会人ではまるで状況が違います。放課後吹奏楽部の面倒を見た後の疲れた状態では、家で晩ご飯を作る気力などとても無く、いつも帰宅途中にある定食屋かそば屋、中華料理店に寄っては日替わり外食で済ませていました。 そして給料の残りが少なくなってくると、スーパーに寄ってはおかずを買って帰るといった食生活でした。
そんなある日の1年生の音楽の授業が終わった時、一人の女子生徒が私のところに来て、「先生、きのう○○スーパーで納豆買ってたでしょう? 私見てたよ!」と言いに来ました。 若かった私は「オレが納豆を買っちゃいけないという法律でもあんのか?!」と言い返しましたが、学区内に住んでいるとこんなことはよくありました。 おいしかった「イカフライ定食」で通った定食屋も、授業で教えている生徒の家であることがわかり、食べ終わった後は、その生徒の父親であるマスターと話し込んだり、銭湯に行けば見覚えのある生徒と顔を合わせ、タオルで下半身を隠しながら避けるようにして洗い場をウロウロしたり………。
銭湯の思い出として、タオル事件が忘れられません。 いつものように銭湯に行き、脱衣所で服を脱ぎ始めたら、タオルが無いことに気づきました。 着替え用の下着は持って来たものの、もう後戻りが出来ない状況になっていた私は、とっさに脱いだばかりのパンツ(白のブリーフが幸いした!)をタオルのように思わせながら手に持ち、サッサッと洗い場の鏡の前のイスに腰掛け、そのブリーフを風呂桶に隠しました。 そして、まずシャンプーで頭を洗います。次は体を洗うため、ブリーフの前開きの部分が隣から分からないようにして石けんをつけますが、これがまた泡が全然出てこない!(はいていた場所が場所だけに、やはり……)。 それでもブリーフと悟られないように、何度もすすいでは石けんをつけますが、やはり泡は出ません……「クソー、何でだよー?!」と、やけくそになってそのままいつものように顔から首・肩・手・体・足と平静を装ってこすりますが、白い泡は全く出ず、こすっている姿はブリーフによる『アカスリ』状態……。 こんなところを生徒に見られてはヤバイぞ!と、とにかくこの日は銭湯から逃げるように退却しましたが、家に帰った時、そのブリーフがとてもきれいに洗濯された状態になっていて、いいこともあるんだと一人納得して寝ました。
さて独身生活の私は、吹奏楽部3年のチューバを吹いているS君を時々誘っては、一緒に晩ご飯を食べに行きました。 このS君は、私の所に一番最初に遊びに来た記念すべき生徒で、その後もずっとつき合いのある大切な人物でしたが、今から10年ほど前の平成23年4月、肺の難病で他界しました。 私と同じように中学校の音楽教師で吹奏楽部の顧問をしていましたから、コンクール会場で顔を合わせることもありました。 そんなS君ですが、生きていれば今年が還暦、そして定年退職を迎えるはずでした……時々無性に、もう一度会って昔の話がしたくなります………。
ところで新米教師として4月から教員生活が始まった私は、引っ越しのタイミングを逸したため、当初は大学時代の住まいがある東京・町田から、小田急線〜【新宿】〜中央線〜【秋葉原】〜山手線〜【上野】〜常磐線〜【柏】と乗り継ぐ超長距離の通勤と、いきなり受け持つ1年生の担任という慣れぬ激務に毎日が疲労困憊状態でした。 当時の1クラスの定員は45人の時代でしたが(現在は35人)、私の中学校では教室が足りず、1クラスに46〜47人もいました。 とにかく教頭先生に紹介された不動産屋に行き、何も考えずに中学校に近くて安いところで決めた建物が、後に生徒たちにとっては伝説となる私の住み家(生徒たちは「小屋」と称していた!)となり、4月の半ばになってからようやく引っ越しが完了しました。 そして、ここから歩いて数分の距離の所に住んでいるS君が、真っ先に一人で私の「小屋」に遊びに来たのです。
私はS君を通して中学校のことや吹奏楽部のこと、コンクールのこと、そして柏市のいろいろな情報を教えてもらい、その見返りとして晩ご飯をごちそうしては話の続きを聞くのでした。 私としても、晩ご飯は一人で食べるより二人の方が楽しく、私から強引に誘うことも多かったです。 そして私が「ホワイト餃子」を知ってからは、ここが二人の行きつけの店へとなっていきました。
そのうちに、女子部員に比べて圧倒的に少数派の男子部員たちを誘っては、ホワイト餃子2階の座敷に集まり、水の入ったコップで乾杯の後、食べた餃子の個数を競う食事会となっていきました。 特に給料日になると私も気持ちが大きくなり、男子部員たちも察してその日の夜は「ホワイト餃子」直行です。 昔の給料は今と違い、給料袋に現金が入っての支給でしたから、現ナマを持つ私は大スポンサーとして君臨し、この時はいつも以上に気前がよくなります。
テーブルに届いた熱々の餃子で口の中をヤケドしながらも、食べ盛りの男子部員たちは20個食べた、30個食べた、40個食べたと叫び合っての競争!そして「食べた数で次の部長を決めるぞー!」と私がけしかけると、更にヒートアップします。 残すことは許されず、吐きそうになるまで腹一杯食べても部員たちはタダですから、きっと夢のような時間だったと思います。
そして翌日の朝練習が、また大変でした。 金管楽器を吹いている男子部員たちが「先生、楽器が餃子臭くてたまりません!」と言うので、私はすかさず「バカヤロー、練習中に餃子の話をするな!女子に聞かれたらマズイだろー、黙って練習しろ!!」となるのでした。
大学出たての教員としてもらう給料は、当時の手取りで月に11〜12万円程度ではなかったかな?と記憶していますが、家賃と光熱費を払った残りの給料のかなりの部分が、部員たちとの食事代で消えていきました。 どこから見てもキレイとはいえない「小屋」に住んでいた私は、特に贅沢な暮らしをする気持ちも無く、生徒たちとのワイワイガヤガヤと食べる晩ご飯の方が楽しみでした。 しかしそんな中でも、時にはステレオのアンプやスピーカーを新しくしたいとか、レコードといった少し金額のはる物がほしい時もありましたが、6月と12月のボーナスまで我慢をすれば何とかなるだろうと、特段不自由は感じませんでした。
また私の小屋では、「すき焼き」もやりました。 もちろん男子部員たちだけですが、お母さんから持っていけと言われて持ってきた野菜に私が用意した肉で、夜の8時〜9時頃までの宴会……そんなある時、炊飯器のフタを開けた生徒から「ギャー!」という悲鳴が上がります。 みんなが「どうした?」と集まると、炊飯器の中が、黒や白やオレンジや青の見事なまでの色鮮やかな「カビ」の培養実験場と化している現場を見ては、今度はみんなが「ギャー!!……」、私は「ゴメンゴメン、このご飯はいつ炊いたのか覚えてないんだ………」。
また、冷蔵庫を開けた生徒が、「先生、スイカがあるよ!」と言うので、私が「冷蔵庫から出して、ちょっと振ってみな?!」と言います。 かなり前に買っておいた「小玉スイカ」ですが、毎日疲れて帰ってきてはスイカを食べる気力も無く、そのままになっていました。 両手で持ち上げてスイカを振ると、中から「チャプチャプ」という液体状態の音がします。 私が「食べていいぞ!」と親切に言ってあげますが、「いや、いいです……」と恐怖に満ちた表情で、スイカを丁寧に冷蔵庫に戻していました………。
吹奏楽部の顧問として、人数の多い女子部員たちをまとめるためにも、この少数の男子部員たちの存在が大きな助けとなりました。 ホワイト餃子の合い言葉は「ホワイト」……私が部長に「今日ホワイトに行くか?」と打診すると、「行きましょう!」との答え、極秘のうちに男子部員には伝令が飛び、夜7時の現地集合となるのでした。 その日に塾があっても、母親を説得してはみんなが集まってきました。 高い月謝を払って塾に行かせている親御さんには、本当に申し訳なかったと私は懺悔をするところですが、吹奏楽部の同窓会で当時の思い出に話が盛り上がる時、それは私にとっても宝物のような教師としての青春の思い出でもあり、この生徒たちとの出会いには心から感謝をするところです。
「ホワイトデー」がしょっちゅうあった我が吹奏楽部!!