ノブヤンのひとりごと 10(音楽教師としての備忘録 1/7)
私は音楽の教師として37年間、そのあとの再任用(再雇用)で更に5年間中学校に勤務し、3年前の65歳で任期を満了しました。 途中50代を前にして、脳の腫瘍を摘出するという大手術を経験しながらも、教師という仕事の任務を無事に完了できたことは、家族を含め、周りのいろいろな人の支えがあったからこそと、思い返すたびに感謝の気持ちでいっぱいになります。
現在は新規採用教員の指導員として、非常勤ですが時々中学校現場に足を運び、次の世代の若い先生の成長を見守る立場でこれまでの恩返しができればと思っています。
また、ネット上で偶然見つけた「NPO法人龍ヶ崎ゲヴァントハウス」のホームページでは、その活動場所が私の自宅から車で簡単に行ける場所であることが分かり、一昨年の10月に初参加しました。 メンバーの皆さんが私とほぼ同年代という居心地の良さと、クラシック音楽を純粋に愛する皆さんの気持ちが、教員の時には忘れかけていた素朴な音楽鑑賞の気持ちを思い出させてくれて、その心地良い空気感に、昨年度から正規のメンバーに仲間入りをさせてもらいました。
メンバーになった2020年の4〜5月、「ひとりごと」を9編ほど載せていただきましたが、改めて音楽教師としての自分の過去を振り返り、簡単な備忘録として述べてみたいと思います。
〜吹奏楽コンクールで演奏した名曲〜
昨年のひとりごとの第3話では、中学校教員1年目の吹奏楽コンクールの思い出を載せました。 吹奏楽部の顧問となり、コンクールの自由曲で演奏したのは、私が赴任した時には既に決まっていた「ショスタコーヴィチの交響曲5番の第4楽章」でした。44年前のこととは言え、新米教師としての青春の思い出のような経験は、今でも強烈に記憶に残っています。
そして翌年からコンクールで演奏する自由曲の選曲は、「レコードで聴いた音楽を現実の音にする」という理想に燃え、顧問である私が独断で決めてきました。 2年目の自由曲に選んだのは、R.ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」最後のシーンからの「魔の炎の音楽」です。
私は小学校の時からオーケストラ音楽に心惹かれ、吹奏楽とは全く無縁の生活が大学卒業まで続いていました。 それが教員になってからいきなり楽器を始めて間もない中学生を相手に、45名の人数制限がある吹奏楽コンクールで「ワーグナーの楽劇」の指揮をする……、今思えば無謀な賭けのようですが、その時は「ワーグナーの壮大な音楽をやってやろう!」とただただ夢中になっていました。
愛聴していたのは、オーマンディ指揮&フィラデルフィア管弦楽団のレコードです(写真1)。 ワーグナーの音楽は、中学生の頃から、アンドレ・クリュイタンス指揮の17cm盤のレコードで「ニュルンベルグのマイスタージンガー・前奏曲」と「さまよえるオランダ人・序曲」(写真2)をよく聴いてはいましたが、この2枚組LPを買ってからは、「魔の炎の音楽」でのワーグナーの壮大でドラマチックな音楽に更なる感銘を受けていました。
次のコンクールでは絶対にこれをやろう! と決めていたものの、実は大きな問題が立ちはだかっていました。それは吹奏楽用に編曲された楽譜が存在していなかったことです。 東京・銀座にあるヤマハや山野楽器の楽譜売り場に足を運んでみても、「そんなものはありませんね!」の一言です。 ならば、自分で編曲をするしかないと決め、今度はワルキューレのフルスコア(写真3)とボーカルスコア(写真4…オーケストラの部分をピアノに置き換えた、歌手や合唱団向けの楽譜)、そして段数の多い5線紙を買い込んで早速始めました。
しかしやってみて苦労したのは、オーケストラでは主流を占める弦楽器群が、吹奏楽ではコントラバスを除いて全く使われないことです。 たとえば、レコードでは管楽器の音の陰に隠れて、あまり気づかなかったバイオリンパートが、霧のように細かく分散和音を弾いている響きを、果たして吹奏楽ではどうやって置き換えればいいのだろうか………(写真5)。
初めて臨んだオーケストラから吹奏楽への編曲、暗中模索と試行錯誤が続くなか、少しずつ出来たところを練習で試しに演奏しては書き直し、書き直しては合奏をして響きの確認……、生徒たちには「今年はオレの編曲で行くぞ!」と自信満々な態度でスタートしてみたところで、楽譜がいつまでも仕上がらず、出来たところまでの合奏をやってみては、♯や♭を書き間違えての訳が分からない混濁した響き(オレがコンダクターだ!というギャグをとばす余裕はゼロ)…コンクールが近づいても楽譜が仕上がらず、焦る私に対する諦めの表情と冷たい視線の生徒たち……当然コンクールの結果は昨年より更にひどく、壮大ではなく誇大妄想なワーグナーで終わってしまいました……。
この時が私の吹奏楽部顧問として最も辛い場面でした。 私の編曲をした楽譜(写真6)も、結局は完全には仕上がらず、コンクールでは見切り発車的な演奏で終わり、生徒たちにはただただ謝ることしか出来ません。 が、自分の中では「すぐ手に入る楽譜の曲目へ変更」という安易な妥協はせず、必要に迫られて編曲をしたことが、楽譜と実際の音を結びつける大きな経験となり、その後に続く吹奏楽の世界に少しだけ入り込めた実感がありました。
結果としては、1年目よりも辛い2年目のコンクールでしたが、この年の3年生が引退すると、私と一緒にこの中学校へ入学してきた2年生たちが最上学年となり、新たに決まった新部長のT君が「先生、来年に向けて頑張りましょう!」と声をかけてくれたことが、私を力強く支えてくれました。
私にも教員としての余裕が出てきたのか、期末試験の音楽で高得点をとった男子生徒に廊下ですれ違えば「オーッ、今日もいい男だね〜!」とか、音楽の授業で指名しては「さ〜すが○○君、君は天才だ! 君の才能を吹奏楽部で使わなければ、世界が泣くぞ!!」と、人数が足りなかったチューバへ引きづりこむ作戦に成功したり……この生徒たちも、今や還暦に近づきつつある白髪混じりのオッサンたちです。
嗚呼、昭和は遠くなりにけり………