ノブヤンのひとりごと 16(音楽教師としての備忘録 7/7)

〜 関東大会出場の原動力となったO君誕生の秘話 〜

関東大会行きに大きく貢献したO君の生みの親ともいうべき、O君を鍛え上げたM先輩の存在について、次に述べてみたいと思います。

M君は私の教員1年目の時の吹奏楽部部長で、トロンボーンを吹いていました。 とにかく音楽をよく研究し、コンクールの自由曲で演奏したショスタコーヴィチの交響曲5番の4楽章、途中の静かな場面に出てくる詰まったチューバのようなホルンの低音が、未熟な演奏でうまくいかないと分かると、「先生、ここはトロンボーンの低音で出します!」と対応して、見事な効果をあげてくれました。 実に頼りになる部長でした。
そんなM君、この中学校から歩いて5〜6分の距離にある、県下でも有数の名門県立高校に進学したある日のこと、私の所に来て「先生、僕はファゴットをやってみたいんです!」と言うのです。 トロンボーンではなく木管楽器の、それもファゴットをやりたい? 私は「音楽大学にでも行きたいのか?」と尋ねると、「それは自分でも分かりません。 ピアノも習ってないし……。」

日本では、プロの音楽家を目指して音楽大学に行くには、受験までにレッスン代として相当なお金がかかることが常識になっている、という話をしてみたものの、M君の親の経済力のことまでは聞けませんでした……また音大に行ったところで、果たして将来音楽家として食べていけるかどうかの保証はどこにもありません……とにかくここでは、夢も希望も無い話となりました。
私自身は、音楽の先生になるために行った大学なので、プロの音楽家を目指すほどの厳しさはありませんでしたが、より高い専門性のプロを目指すとなると、本人よりも、まず親の方が経済的な覚悟を決めて音大受験をさせる話はよく聞く話です。
そんな現実の厳しい話をしてみたものの、M君が優秀な人材であることだけは確かでしたから、もし途中でダメになってもそれはそれでよし! ここは私の出来る範囲で何かしてあげようと思いました。

まずファゴットを習うことについては、ちょうど良いことに、私と同期の教員で国立音楽大学のファゴット科を卒業したS先生が、市内の別の中学校にいることから、連絡をとってお願いしました。 当然自分の楽器を持たないM君は(ファゴットはとても高価な楽器なのです)、S先生の楽器を借りながらの、マンツーマンのレッスンとなりました。
一方私は、自宅でピアノのレッスンを始めることにしました。 私もS先生も本業は中学校の教員ですから、その片手間に行うレッスンは定期的に行うことは出来ません。 2人ともレッスン代をとることなど端(はな)から頭に無く、ただボランティアの精神で、海のものとも山のものともつかない一人の高校生を相手に、まるで3人4脚のアヒルボートで大海に船出するかのようなレッスンが始まりました。
ピアノを教えることが初めての私は、音楽の先生になるために高校2年からピアノを始め、大学では本当に苦労した経験がありましたから、高校1年でこれからピアノを始めようとするM君には、ちょうど良い手本になるのでは? と思いました。私が味わってきた苦労や、それを克服するために考えたノウハウを徹底的にたたき込んでやろうと……。
楽譜が読めて理屈も理解でき、しかも自分の教え子で信頼関係は出来上がっている相手です。 ピアノのレッスンが始まってからは、遠慮無く手取り足取りの密着指導!! さすがに殴る・蹴る・ど突く・ヘッドロック・四の字固めといったハイレベルなレッスンまでには到達できませんでしたが、専門はファゴットですから、ピアノはある程度のところまで弾ければいいだろうと、こちらは気分的に楽でした。

こんなM君は、高校では吹奏楽部に入らず、ひたすらピアノとファゴットの練習をする覚悟を決めたようなので、これからのことについての取り決めをしました。
私の住まいである小屋が、M君の高校からは走っても1分とはかからない場所にあることから、

『学校の授業が終わったら、すぐにここに来てピアノの練習をすること。 練習内容は、レッスンの時に次の課題として与えるから、それを必ずやること。 そして、家に帰ったらファゴットを一生懸命練習しなさいよ』

こうして一連の練習パターンが出来上がりました。

ピアノに関しては、ファゴットと同様M君の家にピアノは無く、高校の音楽室のピアノを借りるといっても、吹奏楽部が練習をしていてはピアノの練習はできません。 ところが私の家に来てピアノの練習をすれば、ここではだれからも文句を言われず、好きなだけ練習ができるのです!!…おまけに、オーケストラのレコード(大学4年間で集めたレコードが200枚ほど)と、人並みの音が出るステレオ装置があって、いつでも何でも聴ける環境となれば!!!……これはもう竜宮城の浦島太郎どころではない、チョーベリーVIP待遇の極みとも言うべき、極上のスゥイートワンルームパラダイスにいるのと同じです!!!! その上M君がいつ来てもいいように、私は入り口の鍵をかけませんでした!!!!!〔後にM君いわく、怪しげで汚い先生の家は、入るのに勇気がいる所だった…と、ホント失礼な!〕

この鍵をかけないことで、M君ではなく、誰かが来ていたような痕跡が時々ありました……一番印象に残っていることは、ある日の夜おそく帰宅した時、真っ暗な私の部屋の布団の上で、前年私のクラスにいたやんちゃな男の子が、ゲロを吐いた状態で熟睡していたことがありました。 私はビックリして「ふざけんなー、この野郎!」といってたたき起こしたのですが、理由を聞いてみると、つきあっていた女の子に振られ、淋しくなってここに来たら、ピアノの上にあったウイスキーが目に入り、やけくそになって飲んだら気持ち悪くなってゲロを吐いたとのこと……。 まったくこちらとしては迷惑千万な話ですが、別の所で問題を起こすよりはいいか、とその生徒を車に乗せ、2人で夜中のコインランドリーに行って、布団のシーツの洗濯に行ったこともありました。

さてM君は、やはり優秀な生徒でした。 私からのピアノの課題もそつなくこなし、ファゴットの方もS先生に聞くと、『リードも自分で作り方をマスターして、凄くうまくなっている。 次は国立音大時代の自分の師匠であるファゴットの「三田平八郎」先生にM君を紹介しようと考えている』とのことでした。
私は三田先生のことは存じ上げていませんでしたが、戦後の日本の音楽界では、ファゴットの草分け的存在の大先生だったそうです。
そして、高校3年になってからは、音大受験を十分ねらえるところまで来ているとのこと!……。 しかも三田先生は東京芸術大学でも教えており、その東京芸大ファゴット科の受験を薦めているという話を聞いては、私もビックリです。

M君は最終的な受験対策として、東京芸大に進んだ高校の先輩から、聴音とピアノのレッスンをうけることにしました。 そのピアノのレッスンでは、「ピアノを弾く基礎がしっかりできている」と褒められた話をM君から聞いた時は、私も大変うれしく思い、ほっとしたことを覚えています。

いよいよ東京芸大の受験……学科試験に関しては、今の高校に入る学力があるから、たぶん問題はないだろうが……あとは実技試験かー……一浪か二浪は覚悟かな?………そして結果は………なんと見事現役で東京芸大に入ってしまいました!!!!

後になって、三田先生からは「芸大のファゴット科を受験した生徒は、全員私がレッスンでみていたが、その中で君は、入試の前から定員の2名に入る力があったよ」と褒められたそうです。 また、三田先生は、受験までの期間レッスン代をあまりとらなかったとのことですが、たぶん本来の勤務の中でいただく給料があり、教え子のS先生から紹介されたM君に対しては、最初は本気でみるつもりは無かったのでは? と私は思いました。
M君は私への合格の報告の中で、「僕は、最も安上がりで芸大に合格できたかもしれませんね?!」と言うから、私は「本当にそうだ、奇跡的な話だよ!でも君の努力があったからね。」

そのM君がまだ高校3年生の時に、O君が中学校に入学してきたのです。 吹奏楽の中では目立たないような存在のファゴットですが、その音色を好むところに、互いに通じるものがあったのかもしれません。 その翌年に、師匠であるM先輩が現役で東京芸大に合格する姿を目の当たりにすれば、それは弟子のO君への大きな刺激となっていったのでしょう。

厳しいM先輩の指導を独り占め出来た後輩のO君、この師弟関係から生まれた弟子が、「魔法使いの弟子」となって花開きました。

その後M君は、東京芸大で教えていたNHK交響楽団首席ファゴット奏者である岡崎耕治先生からの誘いで、エキストラとしてN響の演奏会にも呼ばれ、後に正式団員となって現在に至っています。
一方のO君は、M先輩と同じコースを目指して、先輩と同じ高校に行き、高校から同じように私からピアノのレッスンを受け始めました。 ただM先輩と決定的に違ったのは、O君は高校に入学した時には、すでに優秀なファゴット奏者であったことです。 そして先輩と同じように、東京芸大ファゴット科に現役で合格し、現在は東京都交響楽団の首席ファゴット奏者として活躍しています。
なお2人とも、日本管打楽器コンクール(1986年、1989年)で第1位を受賞し、強固な師弟関係の絆は、今でも固く結ばれています。

M君が送ってきたCD、ベートーヴェンの交響曲7番を管楽器アンサンブルで演奏している