ノブヤンのひとりごと 2(第9の日本初演地は、なぜ徳島県鳴門市? )

私は一昨年の10月、母親の一周忌のため岐阜市の実家まで車で帰郷しました。 そのついでに、大阪にいる教え子と愛媛の松山にいる大学時代の同級生を訪ね、一人車中泊の旅行に行ってきました。 途中、かねてより念願であった第9の日本初演の地『徳島県鳴門市坂東(ばんどう)』の訪問が、今でも印象深い思い出になっています。

「第9の日本初演の地が東京ではなく、なぜ徳島県の鳴門なのか……?」

カーナビに案内されて、ようやくたどり着いた「鳴門市ドイツ館(写真1)」。 この資料館に入って初めて知る事実に、私は深い感動を覚えました……。

時は第一次世界大戦中、中国の青島で日本軍の俘虜(ふりょ=捕虜)となったドイツ兵が、この坂東にあった広い敷地の俘虜収容所に送り込まれました。 自分が今立っているこの「鳴門市ドイツ館」から少し離れた場所にある「収容所跡地」が、現在「ドイツ村公園」として整備され、当時を偲ばせる遺跡が、あちらこちらに何点か残されています。
戦時下での収容所というと、私には、第二次世界大戦中ヒトラーがユダヤ人に対して行なったアウシュヴィッツでの非道な出来事が浮かびます。 また、スピルバーグ監督が映画「シンドラーのリスト」で描いた非人道的な壮絶なシーンも浮かびます。 「収容所」という響きには、眼をそむけたくなるようなイメージが、私には条件反射的に浮かびます。
しかしここ「坂東俘虜収容所」は、それとは全く正反対のものでした! そして、もっともっと世界にその名が知られ、尊敬されるべき一人の日本人の存在が、ここにはありました。 その人は、この収容所の所長であった『松江豊寿(まつえとよひさ) 1872(明治5年)〜1956(昭和31年)』です。 後年は出身地である福島県の会津若松に戻り、若松市長にもなった会津若松の偉人です。
浅学な私は「松江豊寿」の名前を存じ上げていませんでした。 しかし資料館での展示物を見ているうちに、今までの自分の無知が恥ずかしくなり、ただただ頭が下がる思いで胸がいっぱいになりました。
松江所長は部下たちに対し、「たとえ捕虜であっても、ドイツ兵たちは我々と同じように、自分の祖国のために戦ってきた人たちである。 敬意をもって事にあたれ!」と言っては収容所内の環境作りに努めました。兵士といっても職業軍人ではなく、もともとが鍛冶職人やパン職人、印刷工だった人たちです。 男手として戦争に駆り出されるのは、洋の東西を問わずどこの国も同じ、松江所長は1000人ほどいた捕虜たちが自活出来るようにいろいろな店を作り、集会所を作り、新聞を発行させ、広い収容所を秩序ある小さな町にしていきました。 必要な道具・工具・機械なども松江所長の命令で揃えられたのでしょう。
そして捕虜の中にはプロの音楽家たちもいたようです。 楽器の演奏家だったり、歌手だったり、指揮者だったり、やがて楽器が徐々に揃って演奏会を開くまでになっていきました。 展示物の資料によると、収容所内には4つのオーケストラがあり、2つの男声合唱団までもあったようです。 演奏会も数多く開催され、それを案内するポスターも収容所内の印刷所で印刷されていました。 また収容所の外に出ては地元の鳴門市民との交流もあり、日本人に音楽を教える教室もありました。
こういう中でオーケストラの演奏技術も高まり、いよいよ1918年(大正7年)6月1日に日本初というよりも、アジア初のベートーヴェン第9の演奏会が行われました。 オーケストラは45名、合唱団は80名の合計125名、海軍の軍楽隊長だった「ヘルマン・ハンゼン」が指揮をつとめ、ここに偉大な歴史が記されたのです!
その後本国のドイツに帰った捕虜たちは、敵国日本の地で受けた人道的で温かい扱いの話を子や孫たちに伝え、それを伝え聞いた2世・3世たちが感謝の気持ちを忘れず、この鳴門の人たちと今でも交流が続いている事実は、本当に世界に誇るべきものでしょう!

【アーレメンシェン ヴェルデン ブリューデル(独語)】=【オールメン ビカム ブラザー(英語)】=【すべての人たちは、みな兄弟になる(日本語訳)】

軍人でありながら深い教養と高潔な志をもった『松江豊寿』なる人物は、はたしてどんな環境に生まれ育ってきたのでしょうか?

写真1    鳴門市ドイツ館の全景

写真2    収容所製パン所跡

写真3    収容所給水施設跡

写真4     第9初演の地記念プレート

写真5    初演100年後記念演奏会の看板