"kazu"のひとりごと

哲学的な交響曲 享楽的なオペラ (ただ、とめどない雑感)

一曲の偉大な交響曲を聴き終えた後には、何か啓示を与えられた様な気持ちになる事が度々ある。この世にある何か特別な事柄を教えられたと感じる。市民社会の発展と共に深く大きくなって行った交響曲はもはや単なる楽しみの為だけではないものを宿す様になって行った。精神の在り様を露わにする何か、あるいは形而上学的な何か、もしかしたら神に近づく何か、どういえば適切か判然としないがそうした何かを内包するのが交響曲なのだと捉えられる様になっていったのだ。市民社会と言うものは人間の生きる意味を問う社会でもあり、交響曲も意味を問い、今でもそうなのだと思える。
一つの素晴らしいオペラを聴き終えた後には、楽しめた故の喜びや時には胸焦がすような感動を与えられたと感じる。オペラによるお芝居は現実を忘れさせしばしば、この世の憂さを晴らしてくれる。誰もが自分自身がアルフレートになりヴィオレッタになり己の不幸に涙する。その時人々は与えられた運命を呪い、又は嘆き、あるいは喜び、涙するが、精神の在り様やらこの世の存在意義やら弁証法に思いを致す様なそんな事は多分しないだろうし、そんな事は恐らくないだろう。
交響曲は音楽による論考書でありオペラは音楽による小説なのだ。哲学書にも砕けて分かりやすいものがあり、小説にも考え込ませる様な作品がある。ニーチェのツァラトウストラなどは分かりにくいが、分かりやすい・・・。トルストイの小説は分かりやすいが、分かりにくい・・・。
交響曲は思享するものであり、オペラは享楽につかるものではないだろうか。だからこの両者には同じクラシック音楽と言う共通項を、時代的に共通の背景を持ちながら相容れないものと思われるのだ。いや、時代的に共通の背景は持ち合わせていなかったか。片やルネサンスの時代から打ち続く権力と娯楽の刹那的な享楽であり、片や市民社会の生真面目な思考の営みを表すものだ。
オペラは私達を惑わせ、交響曲は私達を戸惑わせる。オペラは私達を思考停止の崖に陥れ、交響曲は私達を思考の渦の中に巻き込み溺れさせる。
それにも拘わらず私達は今日も歌劇場へのファサードの階段を上り、コンサートホールの扉を開ける。相容れないものであるにもわらず私達はいずれをも愛でる。限りなく愚かであり、限りなく節操がない。歌劇場の階段を上る度に私は愚かな自身を呪い、コンサートホールの扉を開ける度に私は後悔に苛まれる。どこに己の真実があるのかと自らに問い、答など永遠に出ない事に罪悪感さえ覚える。
いったいロッシーニとベートーヴェンのどこに違いがあるのかと、シューマンとヴェルディのどこに違いがあるのかと、他者から見たら愚かとしか言いようのない問いに自らがはまり思い悩む。それでも歌劇場やコンサートホールに通うのをやめられない。
交響曲とオペラの違いは何か決定的な格差や区別があるのではなく、ただ、己の内にある問いかけに答えられるか否かによるのではないだろうかと、とめどなく思う。