チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 Op. 64(加筆版)

あと千回のクラシック音盤リスニング(7) 

〜アバドのチャイコフスキー、アバドとニューヨーク〜 

チャイコフスキー交響曲第5番ホ短調 Op. 64

クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Sony SK 66276)

チャイコフスキーの交響曲となると本場もののムラヴィンスキー、もっとグローバルな名演となるとカラヤンという図式になるのであろう。

しかし、数あるチャイコフスキーの交響曲の録音で、私が愛してやまないのはアバド盤である。 いや断トツにその存在感を示している録音なのである。 例えば、ウイーン・フィルを振った交響曲第四番などアバドの凄さを端的に示す格好の1枚ではないか。 フィナーレなどウイーン・フィルのブラスの威力もあり、スタジオ録音でありながら、飛ぶ鳥をも撃ち落とすようなアバドの勢いがライブ風の集中力を生んでいる。 同曲で非正規盤のロンドン交響楽団(LSO)を振ったライブ盤も素晴らしい。 これはアバドのLSO就任披露コンサートの録音らしい。 つまり、マーラーの第一と並んで彼のパーティー・ピース(十八番)なのである。 フィナーレのコーダ近くのブラスの咆哮も迫力は十二分ながらメロウなサウンドで、いかにもアバドの指揮である。

さて、最初のチャイコフスキーでのアバド体験は第六交響曲「悲愴」のLPであった。 これはアバドというよりウイーン・フィルに重きがあったような気がする。

そして1980〜81年の滞米生活はマーラーとブルックナー開眼の年であったが、同時にアバド開眼の年でもあった。 コンサートではシカゴでのマーラーの第一、そしてFM放送ではこのニューヨーク・フィルとのチャイコフスキー第五交響曲が最も記憶に残っている。

FMでのライブ録音の放送は前プロがポリーニの独奏でベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番、メインがチャイコフスキー第五交響曲であった。 変わったプログラムといえばそうともいえる。

折から、その放送の日はさる日本の大学の先生3名がミネソタでの国際シンポジウムの後、拙宅に来訪されている時で、マディソンの街を案内する予定と重なっていた。 巨大なショッピング・モールを案内中、やはり録音が気になり、そこでしばらくの間、モールを見学していただくことにして、急いで自宅に戻り、録音ボタンを押してとって返した記憶がある。

一段落して、この録音を聴いて、またさらにアバドの凄さを認識した。 クライマックスがヴェルディ調になっているかもしれないが、内燃するエネルギーがもの凄く、我が宝となっている。 とくにフィナーレのコーダが近づくにつれての息もつかせぬ高揚感(しかも足をしっかり地に着けた安定感)、全体の荒れ狂う雰囲気!あのシカゴでのマーラーの第一を髣髴とさせるパフォーマンスであった。

さらに、録音テープはアバド指揮ニューヨーク・フィルのクレジットに始まり、再びジャスト、そのクレジットで終わる。 ”The Symphony No.5 by Tchaikovsky under the direction of Claudio Abbado”とアナウンスされた途端終わる。 神ってるとしか言いようがない。 片面45分のTDKのテープ様々である。

当時のニューヨーク・フィルの音楽監督はズービン・メータ、アバドとはウイーン以来の盟友の間柄、さすればニューヨーク・フィルにも頻繁に登場していたかというと事実は逆なのである。 また、ニューヨーク・フィルがメータと来日した折、コンマスのディクトローがニューヨーク・フィルで評価されている指揮者を挙げていたが、その凄い数の指揮者の中にアバドは含まれていなかった。 どうして?

今一つ解せないデータがある。 私は1981年メトロポリタン歌劇場を訪れた。 たった1度のメト詣である。 その折、バーゲンで売られていた1968年からのプログラム集(Metropolitan Opera Annals/製本された立派な本)を購入した。 そして、そこでも不思議な記録が残されているのである。 アバドは生涯で一度しかメトで振っていない(1968年、演目は「ドン・カルロ」)。 何があったのだろうか。 その折の評も掲載されており(New York daily News)、「With firm but resilient control of orchestra and singers」という内容で、「Abbado is a real find」で結ばれている。 つまり好評裏に終えているのである。

同シーズン、ベームはドルを稼げるので、嬉々として「バラの騎士」と「影のない女」をそこで振っていたはずである。 一方、少し前であるが総支配人ビングはクナッパーツブッシュに「指輪」を振ってもらいたくて、白紙の小切手を渡そうとした(お望みの額のギャラを払いますよ)。 それを受け取ったクナはビングの目の前でそれをちぎって捨てた。 この人間性の差!

アバドとニューヨーク。 アバドは1980年代後半ウイーン国立歌劇場に嫌気が差し、メータの後釜に着くため、ニューヨークでアパート探しを始めていたという。 すると、あろうことかベルリン・フィルからカラヤンの後継者としての打診が来たそうである。

再び、話をチャイコフスキーの第五交響曲に話を戻すと、私は何度か実演で聴いたはずであるが、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルの広島公演しか記憶に残っていない。 期待が大きすぎて、感銘までには至らなかった。 一方、録音では名演多数である。 私はLP時代にはムラヴィンスキー盤、クリップス指揮ウイーン・フィル盤、カラヤン指揮ベルリン・フィルのEMI盤(1971年録音)くらいしか持っていなかったが、最近はCDとしてアバド指揮ベルリン・フィル盤を取り出すことが多い。 荒れ狂う、強烈な印象が残っているニューヨーク・フィルとのライブ録音に比べると、アバドの慎重居士、優等生的な面が出過ぎているかもしれないが、燃焼度も高く、録音もよく満足している。 飽きが来ない名演だと思う。 シカゴ響との録音よりも断然こちらが好みである。

さて、チャイコフスキーの三大交響曲で最高傑作はどれか、第五か第六、どちらであろうか。 ムラヴィンスキーは「交響曲はチャイコフスキーとショスタコーヴィッチの第五交響曲が最高だ」とインタビューで答えている。 しかし、あの国のこと、本音かどうか疑問である。

フルトヴェングラーとチャイコフスキーの関係も興味深い。

我々は録音で残されたSP時代のベルリン・フィルを振った「悲愴」とエジプトでのライブ録音盤、そしてウイーン・フィルを振ったスタジオ録音の第四番しか聴くことができない。 ところが、「悲愴」が最も演奏回数で多いのは確かだが、次いで多いのは第五番なのである(75回と55回、第四は39回)。 にも拘らず正規録音は残されていない。

私のスペキュレーションはこうである。 この交響曲第五番の第一楽章とフィナーレは曲の盛り上げ方があざと過ぎる。 指揮台から落ちる程激しいアクションで指揮していた戦前は効果抜群のシンフォニーだったかもしれないが、戦後の段々客観的、アポロ的方向に向かった巨匠にはそこが鼻に突き出したのではないか。 とは言っても生涯55回というのはフェイヴァリット・ピースであるに違いない。 悪評高いトリノRAI交響楽団との非正規盤しか録音として残っていないのが残念である。

第六番「悲愴」、1938年録音盤、これ私は学生時代GR盤で聴いた記憶がある。 しかし、取りたてて名盤という印象はなかった。 しかし、フルトヴェングラー頌におけるディスコグラフィー担当者マイケル・マーカス氏はフルトヴェングラーの偉大さを証明するレコードとしてこの「悲愴」を挙げている。 聴き直す必要がありそうだ。

「悲愴」は実演では何回か接したが、1974年、ノイマンがウイーン交響楽団を指揮した演奏と数年前、インバルが東京都響を指揮した演奏に感動した。 双方とも指揮者が曲に没入した凄演であった。 前者では第三楽章、段々ボルテージが上がってゆき、クラマックスではムジークフェライン・ザールの木製の椅子が振動し始め、お尻がむずがゆくなった記憶がある。 ノイマンの顔面真っ赤になっての渾身の指揮姿、フィナーレのラメント―ソでは涙が出そうになった。 後者でのマーラー風とも云えるかもしれないが、一種凄絶な演奏でこんな凄い演奏はめったに聴けない、どうしてウイーンやベルリン、シカゴに招ばれないのか解せないと感じたものである。

再びアバドに戻って、アバドとニューヨーク、この「非親和性」の運命。

ニューヨーク・フィルというのは強者どもの集団、ロサンゼルスではあんなに伸び伸びと才能を発揮していた、「飛ぶ鳥をも撃ち落とす勢い」のメータも進化することが出来ず、結局尻すぼみ。 私はメータがウイーン・フィル指揮するマーラー「復活」やロサンゼルス・フィルとの第三交響曲を聴いて、メータは大指揮者に化けるのではと期待していた。 しかし、そうはならなかった。 もう昔のトスカニーニのような専制君主的なオケとの関係はありえないのであるが、アバドも同様で怪物オケの尻に敷かれてしまった感がある。オーケストラはワルター表するところの「百の頭のドラゴン」なのである。

この傾向はどんどん進んでいるようである。アメリカではユニオンの力は想像外で、私の滞米時、(ユニオンがない)州立大学の助教授の報酬は(ユニオンを持つ)メトロ・バスの運転手のそれより低いと言われていた。 独裁的だったセルでさえクリーブランドでの管理は限界に達していたのである。 彼の統治下、最後の1、2年、楽団はコンマスのドルイヤンがセルと楽団ユニオンとの板挟みになって辞するというような危機に瀕していたらしい。 さらに、セル自身もバーンスタインが去った後、ニューヨーク・フィルの音楽顧問に任命されたが、かねてからセルの独裁的姿勢にむかついていた同オケの主席奏者達のボイコットに遭っていたそうだ。 時代が変わったのである。

ここで、さらに謎が深まる。 アバドとバーンスタインとの関係である。 アバドにしてもニューヨーク・フィルとの関係は謎だらけである。

だって、ミトロプーロス・コンクール優勝でニューヨーク・フィルのアシスタント・コンダクターまでやっているのに、アバドのニューヨーク時代の情報はほとんど入ってこない。 バーンスタインの小沢への寵愛と対照的なのである。

ところが、数年前「マーラーを語る」名指揮者29人へのインタビューで、アバドはバーンスタインの「復活」の指揮の下振りをやった経験を語っている。 結構な接触はあったのだ。

振り返ってみると、バーンスタインはスカラ座であの有名なカラス主演の「メディア」を振るためミラノを訪れた際、アバド家を訪れ、クラウディオを観て「指揮者の眼をしている」と言ったそうである。

こうしたヒストリーを纏めると、要するにアバドとニュヨーク・フィルとの関係はバーンスタインとの関係の反映とも言えるかもしれない。

それはそれとして、1981年放送(実際の演奏は1979年3月)、アバドがニューヨーク・フィルを振ったチャイコフスキー第五交響曲はサプライズとも云えるパフォーマンスであることを毎回、聴く度に再認識する。 当時、アバドの内面に何が起こったのか、そこまで掘り起こしたくなる演奏である。

今回のテーマは謎だらけで、ついつい長くなってしまった。 要はイタリア人が振ったロシア音楽などという先入観は捨てていただき(名盤何とか選ではまず登場しない)、アバド指揮ベルリン・フィルのチャイコフスキー第五交響曲に耳を傾けていただきたい。 あのアバドのムソルグスキーへの偏愛やプロコフィエフのレパートリーで彼のロシア音楽の見識の深さが背後に存在するのである。

PS)アバドの指揮歴については、Claudio Abbado資料館(辻野志穂)でつぶさに眺めることができる(https://www.ne.jp/asahi/claudio/abbado/)。私も米国での情報を提供してきた。彼女は東大の優秀な脳科学研究者であったが、アバドの著書の訳もやるという凄い方である。 「Claudio Abbadoの音楽・芸術活動に真摯な関心を寄せる人々のために、この指揮者のこれまでの芸術活動に関する信頼性の高い情報を集積し、その全容を明らかにすることを目的としています」という主旨の通り、素晴らしいアーカイヴである。