ブルックナー:交響曲第六番イ長調

あと千回のクラシック音楽リスニング(36

ブルックナー:交響曲第六番イ長調

〜 ブルックナーの落ちこぼれの交響曲?いや、”谷間に咲いた百合”のシンフォニー

 

アントン・ブルックナー:交響曲第六番イ長調
ギュンター・ヴァント指揮ミュヘン・フィルハーモニー管弦楽団
Profil PH16060/7

この第六交響曲、ブルックナーの交響曲の中では人気がない作品の代表であろう。初期の作品ならともかく、あの傑作第五交響曲を書き上げた後の作品なのだ。何故こんなに人気がないのか。
この作曲家の大傑作第七、八、九交響曲への橋渡し的な位置にある作品なのである。それら3作品が大ブレイクした作品なので、貧相な作品に見えてしまうのか。それにしても、それ相応のステータスを有するべきではないのか。これではまるで“落ちこぼれの交響曲”である。
しかし、私はこの作品の擁護側に回りたい。なかなかいい交響曲じゃあないですか、と。
それにしても、その人気のなさは何故か、私なりに考えてみた。

第五交響曲から期待されていたほどの進展がない。大きさにしても、深さにしても。むしろ後退の印象を受ける。第五の終楽章の巨大なフーガに続く作品なので、期待が大きかった分、落胆も大きかった。
全体の印象がこじんまりしている。ブルックナーらしくもなくフレーズがフラグメント的、息の長さが足りない。
印象的な旋律とかアクセント的な、というかチャーム・ポイントが少ない。
後期の三大交響曲作曲前の一休み的存在という印象を与える。
よくマーラーとブルックナーの交響曲を比較してこう言われる、「見なさい、あの秀峰がブルックナー、そして道端に咲き乱れているこの草花がマーラーですよ」と。私はマーラーの交響曲は「海鮮丼」と評した。これは褒め過ぎかもしれない。高級インスタント食品の方が合っているかもしれない。肉とか魚は腐る一歩手前が最高に美味しい、と言われている。含まれる、美味しさを支配するアミノ酸が変化したり増えたりするのだ。マーラーはその発酵に準ずる段階まで待つ時間がない。何せ忙しいのに、大曲ばかりこさえたのである。「時間がない」作曲家だった。そして、生来のせっかちな性分。
先日、音楽とオーディオの大先生がこう宣われた。「マーラーは嫌い!長いから」と一刀両断。胸がすくような表現である。作家・百田尚樹は2万枚のCDを所有するという大の音楽好き、彼の3冊の音楽書にはなぜマーラーを採り上げないのか、そのエクスキュースがある。しかし、ブルックナーは1曲取り上げている。第八交響曲である。そのタイトルには「滑稽な変人が書いた巨大な交響曲」とある。作家的命名なのではあるが、「滑稽な変人」とはブルックナーが可哀そうである。この表現はブラームスの「哀れな、ちょっとおかしい人物」というブルックナー評をもじったものと思われる。
まあ、百田氏とか、そういう方達のマーラー嫌いは分かるような気もする。一方、ブルックナーは嫌いどころか、「ブルックナーはダメ」という拒否反応とか「逃げ」の方達も多い。前記したように、とくに女性は拒否反応を示すことが多いという。どこが悪いのか? 私はブルックナーに同情したくなる。
ブルックナーは生まれた時代が不幸にも悪かったのかもしれない。とくにウィーンの音楽界のボスであった音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの存在。ハンスリックはユダヤ系、敬虔なカトリック信者のブルックナーとは根本的に非親和性だったのかもしれない。
ハンスリックがとった主義はアンチ・ワーグナー、親ブラームスで、ワーグナーの提灯持ちのようなブルックナーは音楽作品以前と酷評された。いくら批判されても「屁の河童」みたいなワーグナーに比べて、くよくよと悩むブルックナー。また、ブラームスのような超保守派(でも表立っては出てこないが、急進的な側面もある)の存在も大きかったに違いない。ブラームスはブラームスで新しい音楽を開拓できないというコンプレックスがあったに違いないのだが。
自分を支援してくれているパトロン夫妻の奥さんと恋愛関係に陥り、やはり自分の強力な支持者の指揮者の奥さんを奪い取るような怪物ワーグナーと比べる術もないが、娶るどころか少女に恋するようなロリコン作曲家ブルックナー。どうしようもないか。
話がずれてしまった。ブルックナーの第六交響曲である。
それで、ブルックナーの第六交響曲はそのベートーヴェンのその「田園」交響曲と似た趣があり、ブルックナーの「田園交響曲」と呼ぶ人も多い。
ベートーヴェンの好きな作品というテーマで、第六「田園交響曲」を選ぶと、マニアからは上から目線で蔑まれる。だが、この交響曲は演奏でも難しいはずである。一応、「嵐」とか盛り上げる音響的な山場はあるにはあるが、その後のフィナーレの感動の「感謝の気持ちの表出」など並みの指揮者では至難の業であろう。
ベートーヴェン「田園」との共通点であるが、実際、作曲当時、ブルックナーは夏季休暇に鉄道でスイスに出かけ、アルプス山脈の眺めを楽しんだという。そういう背景もあって、この第六交響曲には作曲者の大自然を愛好する気持ちがのびのびと表現されているようだ。
とは言うものの、全体を貫くリズム動機や劇性は「エロイカ」や第七との相似を指摘する人も多い。私はとくに第二楽章「アダージョ」の「厳粛な響き」を愛する。
この作品の初演は第二、第三楽章のみであるが、1883年2月11日、ウィーン楽友協会ホールでヴィルヘルム・ヤーンの指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。ブルックナーの初演は大体失敗で指揮者、オーケストラからも冷遇されていたが、この作品は好評とまでは行かないが一応の成功をみたらしい。それがこの作品の性格を象徴しているのかもしれない。
この初演の当日、ブルックナー自身相当興奮していたようで、彼らしく左右不揃いの靴を履いて初演の会場に弟子達と共に姿を現したらしい。そして弟子には宿敵ハンスリックを見張るよう指示していたという。
こういう場面は小説「不機嫌な姫とブルックナー団」(高原英理)など読むと、生まれ変わってその現場に行き、ブルックナーを応援したくなる。
ところで、私にはある作品が傑作か否か判断する一つの基準がある。巨匠フルトヴェングラーが取り上げたかどうかである。巨匠はブルックナーは好みの作曲家だったようで生涯に240回取り上げている。振った回数が最も多かったのは第四番「ロマンティック」、次いで第七、第八、第五の順であった。それでは第六はどうか、本テーマの第六も振ってはいるのだが、わずか7回に過ぎない。しかし、これは作品の質とは関係ない。例えばイギリスへの演奏旅行で後期の作品はこの国の聴衆はブルックナーを理解するのは無理と判断し、ブルックナーを広める戦略として最も親しみやすい第四を何回も振ったようである。
カラヤンはこの作品を振っても受けないと判断したのであろう、生涯全く取り上げていない。録音も全集用に1回きりである。この指揮者の計算高さが伺える。
私はこの作品はまだ親しんでない段階で、どれでもいいやとハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送交響楽団の廉価盤CD(ドイツ・シャルプラッテン)を購入した。これは快速パフォーマンスで、目立たない作品なのであざといアプローチをするというのではなく、その逆のアプローチでなかなか魅力的な演奏である。よって、今でもよく取り出す。
ウィーン・フィル絡みで手に入れたCDもある。ホルスト・シュタイン指揮1972年録音盤で、まだゾフィエンザールでDECCAのスタッフによって録音された。ウィーンナー・ホルンの響きがとりわけ魅力的である。そう、まだローラント・ベルガーとかギュンター・へーグナーとか、ウィーン・フィルの名物ホルニストが吹いていた時代なのである。
シュタインはこの交響曲を得意としていたらしく(いかにもシュタインらしい)、私が1974年、定期演奏会をムジークフェライン大ホールで聴いた折、後ろの列の知的な婦人にカール・ベーム指揮シューベルト「グレイト」の印象を聞いたのだが、「断然素晴らしかったのはこれです」と指差したのがワルター・クリーンをソロとするブラームスの第一ピアノ協奏曲とブルックナーの第二交響曲の組み合わせのプログラムであった。いい演奏だったに違いない、ワーグナーだけでなくブルックナーもシュタインのレパートリーだったのだ。聞くだけで涎が出そうな情報だった、今想像すると。
ヨッフム指揮ドレスデン・シュタッツカペレの演奏も素晴らしい。録音もこの作品の雄大に響くよう、うまく録られており、この作品が偉大な傑作の様相を呈する。
最近、よく取り出すのはギュンター・ヴァント指揮ミュヘン・フィルによるProfil盤(1999年録音)である。さすがに貫禄の指揮で、ミュンヘン・フィルとのコラボもとてもよい。少し角が取れた印象で、造形優先みたいな厳しさは感じず、スポンテーニアスな雰囲気にも欠けていない。これにはミュンヘン・フィルのサウンドが大いに寄与していたに違いない。何よりこのディスク、終演後沈黙が長く続くのだが、その後凄い拍手が湧き起こる。コンサートかくあるべし!