プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」

後千回のクラシック音盤リスニング(24)

プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」

〜涙なしには聴けないプッチーニのエキゾティック・オペラ〜

スコット(S)、ベルゴンツィ(T)、スタジオ(MS)、パネライ(Br)、パルマ(T)他
ジョン・バルビローリ指揮ローマ国立歌劇場管弦楽団・合唱団
EMI:TOCE9135-6

 

20代前半まで、オペラは自分にとって苦手な音楽のジャンルであった。
なぜ絶叫するような歌唱をせねばならないのか、なぜストーリーは荒唐無稽なものばかりなのか。長くて全曲通して聴くのは苦行そのもの。そういう訳で当時持っていたオペラのレコードはモーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」とプッチーニ「トスカ」の二組のみであった。前者はフリッツ・ブッシュ指揮グラインドボーン祝祭管弦楽団ほかの演奏、後者はマリア・カラスの凄さを聴くために買ったレコードであった。二組ともモノーラルの歴史的名盤で、前者に至ってはSP復刻盤であった。
何しろレコードプレーヤーはパイオニアのMM型カートリッジ付きのキット、アンプはビクターの安価なヘッドフォン・アンプ(プリの代用)を語学用として買ってもらったナショナルのテープ・レコーダーのアンプ部(メインの代用)に接続、スピーカーはダイアトーンP610A一発入りの不細工な自作の箱という装置だったので、レコードの音質は不問という状態だったのである。プレーヤーからヘッドフォン・アンプまではステレオ、それ以下はモノーラルという凄い装置で、ステレオのレコードはヘッドフォンで聴いていた。苦労の塊りのようなオーディオであった。
とにかくレコードが聴きたかった。いや、音楽に飢えていて、コンサートも福岡でカイルベルト&バンベルク響とか、遠征して大阪でセル&クリーブランド管も聴いた。アバド&ウィーン・フィルも聴けた。なつかしい思い出である。
さて、ようやく就職が内定した1974年2月、「ヨーロッパ音楽無宿」を試みた。
当時は海外旅行はまだ一般的ではなく、若気の至りもよいところで、就職内定ならと日本交通公社がローンを組んでくれた。暗かった大学院生活よ、さらばという気持ちもあった。
その旅の最大の収穫が「オペラ開眼」であった。実はその旅の最大の目的はカール・ベームを聴くことだったが、ウィーンに着いて最初の夜の「アイーダ」体験で、オペラとはこんなに凄いものかと驚嘆し、以後オペラがメインの旅となってしまった。
ウィーン国立歌劇場での「魔笛」やケルンでの「ドン・ジョヴァンニ」など素晴らしい体験であったが、中でも今回の「蝶々夫人」はとてもユニークなものであった。
その日はウィーンでこれと言ったコンサートもなく、当日券が確実に手に入る国立歌劇場に決め、長蛇の列に加わった。その晩の演目が「蝶々夫人」であった。チケット代は120円ほどであったと思う。
公演が始まっても、一階の奥の立見席は観光客が多く、ざわざわとしていて全く落ち着かない。一番前の列に陣取った人は自分の席の前の手すりにハンケチを巻きつけたりして、陣取りをアピールしていた。オペラは長いので、手すりに寄りかかれる人はよいが、ただ立ちずくめというのも辛い。
さて、幕は上がったものの、舞台も歌手のしぐさも中華風で、違和感そのものである。また、舞台も盛り上がらず、立見席でのざわざわはずっと継続していた。立ちっ放しも限界に近かった。
ところが、我慢できなくなって、もう途中で出ようかと思いかけた頃、あの有名なアリア「ある晴れた日に」が現われた。
会場はこのアリアでシーンとなって、それ以降全員が舞台に惹きつけられた状態が訪れた。そして、第二幕のバタフライの切腹の場面、切迫した最後のアリアにオーケストラの悲劇的なトュッティ、そして幕切れのドラがグワーンと鳴った瞬間、涙がぼろぼろと流れ落ちてきた。音楽を聴いてこのような経験は最初にして最後である。「ラ・ボエーム」にしても、プッチーニの音楽はそのように出来ている。
1981年秋、米国から帰国後 NHK-FMでスカラ座来日公演でのクライバー指揮「ラ・ボエーム」を聴いていた。そして、第二幕の幕切れのシーンが流れてきた。その緊張感とクライバーの鮮やかな棒!終わった瞬間、涙が頬を伝ってくるのを後藤美代子アナウンサーの配役紹介を聴きながら感じていた。
かように、プッチーニのオペラに接すると、私は恥ずかしいくらい涙腺が緩んでくる。レコードの方に移ると、上に挙げたように名盤の誉れ高かったカラスの「トスカ」の旧盤が最初で、デ・サーバタ指揮スカラ座のオケと合唱団。絶叫するからオペラは嫌いだと言いながらカラスの歌唱、とくに幕切れの歌唱は凄い。電気ウナギみたいだが、帯電状態ではないかと思うほどの迫力である。ディ・ステファノのカヴァラドッシ、ゴッビの当たり役スカルピアも熱唱で盛り上がる。でもこのオペラはその後、劇場でも体験したが、有名な割には傑作と言うには何かが足りない気がする。
それはともかく、ステレオLP時代、主だったオペラのレコードは集めたものの、モーツアルトのオペラ以外は取り出すのが億劫になってきた。LP6面全体を聴き通すのはつらかったし、代わりにLDでのコレクションが増えて行った。
CD時代となって、オペラのCDを買いまくったが、それらの中で、モーツアルトのオペラを除いて未だ愛聴しているオペラが二つある。どちらもプッチーニのオペラである。
一つはビーチャムが米国で録音した「ラ・ボエーム」、ビーチャム卿のこのオペラへの愛が伝わってくるような、そんな演奏である。RCAビクター響と表記されているが、実体はメットのオケであろう。ロスアンヘレスが愛すべきミミを歌っており、ビョルリンクのロドルフォ、録音は1956年、ステレオ移行期の録音で、オケか歌唱か、どちらかのみがステレオ録音と言われていたような。
もう一つが今回のテーマ、バルビローリがローマ国立歌劇場オケを振った「蝶々夫人」である。これはこの指揮者のマーラーと同様に抒情的で、指揮者の曲に対する「愛」が滲み出た素晴らしい演奏である。
イギリス人の血は一滴も流れていないにもかかわらず、英国人より英国人らしい気質を持っていたと言われるバルビローリ。
自分が振ったオーケストラの音を「バーガンディ(ブルゴーニュ)・サウンド」と表してほしいと言ったように、ワインを愛し、ビールとシガレットを愛でた彼の人生が反映されたような、そんな演奏なのである。
しかし、「The art of conducting」(LD)に登場するバルビローリはオケをしごきまくって、イメージが壊れるほどに短気、しかし、音楽に対する彼の真摯さ故ということになるのであろう。
歌に溢れ、「愛」が溢れるバルビローリの指揮のもと、レナータ・スコットの蝶々夫人が初々しい。
カラヤンとは異なり、バルビローリのリードは一聴して、迫力のあるような音楽の作り方ではない。
あのマーラーの交響曲第五番や六番、いやそれ以上に第九の流れの平行移動みたいなスポンテーニアスな美しい響きに溢れた、バルビローリ卿のこのオペラに対する愛情が満ち満ちた演奏に聴こえる。抒情的でありながら、スケール感も不足はしていない。
コリン・デービスについても同じことを書いたが、英国人指揮者に対する我が国での低評価、バルビローリについても同様のことが言えるであろう。何せ、ベルリン・フィルの定期でマーラーの第九を振り、楽団側からぜひ録音をという提言があった。ある指揮者はご本尊のワルターより立派だったと回想している。バルビローリの指揮、推して知るべし、なのである。1970年、大阪万博の年、この英国の巨匠(こんな呼び方をしたら否定されたであろうが)は来日予定で、大阪ではマーラーの第一交響曲を振る予定だった。
さて、プッチーニのこの二つのオペラ、レコード芸術としては圧倒的にカラヤン&ベルリン・フィル(ラ・ボエーム)とウイーン・フィル(蝶々夫人)盤が頂点に位置するであろう。豪華絢爛、立派と言うか、どのような角度から評価しても万全、何より後者ではウイーン・フィルの表現力が素晴らしい。しかもルーティン・ワークではすぐ緩めになってしまうこのオケの弱点をカバーしつつ、スケール大きく、全体として大悲劇に仕立て上げるカラヤンの手腕、凄いものがある。しかし、一方で、「どうだ!」みたいなカラヤンの顔を髣髴とさせるような面も確かにある。
ところで私は思うのであるが、カラヤンは「ラ・ボエーム」で何ゆえにベルリン・フィルを選んだのであろうか。これは新しい可能性を探ったのか、BPOのためのビジネスなのか(失礼!)と邪推したくなる。
私はカラヤンの「蝶々夫人」は長らくハイライトのレコードしか持っていなかった。
「喋々夫人」のレコードはレナータ・テバルディ/トゥリオ・セラフィン盤を買っていためである。ところが、ウィーンでの「蝶々夫人」から20数年後に中国を訪れた折、カラヤン指揮ウイーン・フィルの「蝶々夫人」のCDを何と北京の外文書店で見つけ、衝動買いをした。価格は輸入盤ゆえ、日本で買った方が安かったはずである。しかし、これも何かの縁と考え、思い切って買い込んだ。そして、帰途飛行機の中で録音データを読んで驚いた。そのセッション録音は私がウィーンで見た公演の一月ほど前、ゾフィーエンザールでなされたものであった。カラヤンがしごきにしごいて、楽員はまだその記憶が生々しく残っていたに違いない。私が観たのはそんなタイミングの公演なのであった。なので、あのように立派な演奏ができたのであろう。
そう、まことに立派なパーフォーマンスなのである。オペラの要である歌手を最高の歌手で揃えることが出来る政治力、さらに世界最高のオーケストラを使い分ける実力、そもそもフルトヴェングラーが根本的にオペラの指揮者でなかったのとは対照的にオペラ大好きみたいなカラヤン。フルトヴェングラーを意識するとアブノーマルになると言われていたカラヤンが羽根を伸ばして、泳ぎまくることが出来ることが出来たのがオペラのジャンルなのである。
しかし、立派なだけがオペラの魅力ではないであろう。スケールも大きければ大きい程よいというものでもない。それは濃やかさやデリカシーとは相反する要素に違いない。そして、その要素から生じる「儚さ」、これが涙腺を刺激するのである。
スケールでは負けるが、バルビローリやビーチャムの作品への愛が滲み出た演奏、これが大切、これが「余人を以て代え難し」なのである。
とくに、バルビローリは英国人以上に英国的と言われながら、そもそもイタリアとフランス(母方)のDNAなのである。祖父の代で英国に移住したのが1890年代。その祖父アントニオはイタリアの歌劇場のヴァイオリン奏者だった。ジョンにハーフ・サイズのチェロを買い与えたのもこの祖父だったらしい。
そういう血筋でありながら、ジョン。バルビローリは歌劇場のシェフの座に就いたことはない。ないのであるが、この「バタフライ」での録音セッション(11日間に及んだと言われる)において、ローマ国立歌劇場のオケのメンバーを説伏した。この「蝶々夫人」のレコードは世評も高い。ところが、バルビローリのオペラの録音は他にパーセル「ディドとエネアス」とヴェルディ「オテロ」があるのみ、もったいない。
大阪万博の年、バルビローリはニュー・フィルハーモニア管を率いて来日するはずであった。そのためのロンドンでのリハーサル中に倒れた後、医師団からその後のスケジュールをすべてキャンセルするようとの勧告を受けた。しかし、来日を楽しみにしていたバルビローリは日本に来るため、その後のスケジュールをすべてキャンセルし備えていたらしい。メイン・プロはマーラーの第一交響曲「巨人」。こんな激しい曲を選ぶなんて、もし来日していたら、第三楽章は自分のための「葬送行進曲」になっていたかもしれない。
この「蝶々夫人」の録音をことのほか気に入っていたバルビローリはよくこの録音に耳を傾けていたらしい。
このCDをかけると、この録音を聴きながら、ブルゴーニュの色と香りを愛でつつグラスを傾け、涙を浮かべる老巨匠の姿が眼前に現れる。