マルタ・アルゲリッチ:「バッハ・ピアノ作品集」

あと千回のクラシック・リスニング(30


マルタ・アルゲリッチ:「バッハ・ピアノ作品集」
〜「額縁のない美しい絵」と評されたマルタの額縁音楽バッハへの挑戦〜


JOHANN SEBASTIAN BACH
Toccata BWV911
・Partita BWV826・English Suite No.2 BWV807
DG 2531 088
(輸入盤)

正直告白すると、私はバッハ、もちろん大バッハなのであるが、かってはこの作曲家が苦手であった。バッハ=「額縁の音楽」みたいな堅苦しさ、さらに完璧さ、「このオッサンにはかなわんで」みたいな。人間で言うと、成績優秀、体格も立派な健康優良児、さらに体育の時間も前方倒立回転や跳箱も簡単に出来るような存在。
とくに私は若い頃からのアマデウス信奉者、そのスポンテーニアスな、美しい流線型のようなアマデウスと比べたら、大作曲家とは分かっていても、その幾何学的構造、明確なリズムと推進力、何より「情より知」、あるいは「感覚よりも論理」みたいなドイツ、ドイツしたところにどこか違和感を感じていたのである。
しかし、聴かなかった訳ではない。 最初、無伴奏フルートのためのパルティータBWV1013にまずやられた。バッハで、しかも嫌いなフルートの音楽にやられるなんて、二重の矛盾なのであるが。次に、マタイ受難曲、これでノックアウト状態になってしまった。この超大作の何という素晴らしさ、その壮大さ、その深さ。全体の構成もそうなのだが、傑作中の傑作で、中でも何回も調を変えて出て来る感動的なコラール、そして締めの第72曲、この1曲だけでも全人類を感動に引きずり込むような凄さ。
またまた、前置きが長くなってしまった。テーマはマルタ・アルゲリッチである。
アルゲリッチは天才、ピアノよりヴァイオリン派である私でもアルゲリッチのピアニズムの魅力には抗し難い。そこで迸るような才能の奔流、時に過激。人間としても美人でセクシー。造物主は出来過ぎた個体には嫉妬し、夭逝など過酷な運命を与えるものだが、80を超えた現在でも現役、奇蹟に近い感じもする。
しかしバイオグラフィーを読んでみると、恋多き女性で何回もの男性との破局や癌での大手術、さらに母親との確執など背後には彼女の順風満帆どころか逆の人生が背景として存在するのである。
彼女のピアニズムに戻って、奔放、乗り出すと、走る走る、そこでブレーキをかけなくてはならない。ハラハラドキドキする。なので、バッハやベートーヴェンの中・後期のソナタなど構成がしっかりしていて、強い形式感が背後にある作品は苦手としているようだ。ラテン的な感性がベースにあるので、思索的とか煮え切らないとか、そういう作品との相性もよくない。ヴィルヘルム・バックハウスやクラウディオ・アラウなどのように、歳とともに深さが滲み出る、そういうタイプではない。歳をとっても鮮やかで、閃きで勝負みたいなアルゲリッチ、例えばヴィルヘルム・ケンプみたいによろよろして味が出るようなタイプとは対照的なピアニスト。
なので、指揮者で言うとカルロス・クライバーと同質のキャラである。それに、いやその要素も大いに関係しているはずだが、二人ともユダヤの血が入っている。
想像でしかないのだが、二人がコンチェルトでコラボとなった場合、どんな音楽が出来上がるのだろうかと想像をたくましくする。ベートーヴェンの第一コンチェルトなど聴いてみたいものだ。
そして彼女はプライド高きじゃじゃ馬なのである。曰く、ベートーヴェンの第四番は自分より巧く弾く人がいるから弾かない、とか。
そのアルゲリッチがバッハを録音した。1982年のことである。
これは本人の希望だったのか、DG側の要求に応えたのか。いずれにしても、彼女の唯一のバッハ(ライブでのアンコール等は除く)なのである。意外な1枚と言える。
内容はトッカータ ハ短調BWV911、パルティータ第2番ハ短調BWV826及びイギリス組曲第2番イ短調BWV807、つまり有名曲ばかり、しかもすべて短調の作品なのである。そこがよい。短調だとバッハでも「情」の比重がかなり増すというか、陰影が濃くなる。
ここで、私はサブタイトルの「額縁のない美しい絵」を思い遣る。こう表現したのはダニエル・バレンボエムなのであるが、正鵠を得ている。それと私がかつては「額縁音楽」と考えていた大バッハの音楽の組み合わせ。とは言うものの、バッハの音楽の大きさはジャズへの編曲やジャズ・ピアニストが平均律曲集を弾くことを許容する、そういう自由度を内包している。
さて、この1枚のCDはバッハと言う額縁がはっきりした対象と閃き型で動的なアルゲリッチのピアニズム、異質な二つの存在のぶつかり合い、とでも表現できそうな演奏である。
とにかく、アルゲリッチは指がよく動く。プロフェッショナルなピアニストなのだから当然だろうと言うなかれ、単に機械的な速さではなく、表現されるものが極めて「鮮やか」なのである。さらに煌めくように美しいアルペッジョなど弱音域の極めて美しいピアニズム。
これは南米に移民したヨーロッパ人の、南米ラテン文化の洗礼を受けた世代の美学なのではと思うことしきりである。この速さと鮮やかさは瞠目すべきだが、しかし冷静に考えると上記したように、根本的にバッハとは異質ではないのか。でも魅力的、ここがアルゲリッチの天才たる所以ではないかと思うのである。
上記したようにアルゲリッチとカルロス・クライバー、この二人には共通点が多いと考える。クライバーのベートーヴェンのシンフォニーでの速さ(超快速と言ってよい、特に第四番)やブラームス第四第三楽章での鮮やかさ。これはブラームスとしては異質であろう。ヨーロッパ北部の、例えばレンブラントの絵が南部フランスの画家の色調のように明度を増したというか。
アルゲリッチのピアニズムについて考える時、私は女性は男とは異なる思考回路、いや思考ではなくて反応回路を有していると信じている。これはオマージュである。通常の回路では間に合わない折、途中の経路を飛ばしてアクションを起こす。
ある時、「晴奈(長女の名)、お前タラコ唇やな」と言った瞬間、「誰のせいだと思っているの!」とやられてしまった。電光石火、その唇の形態は遺伝的現象、その形質がどこから来ているのか、などと思考していては間に合わないのである。
私はアルゲリッチのピアニズムは男性ピアニストとは異次元の世界だと確信している。
いや、男性だの女性だのと一括りにすると、これまたまずいか。
ここで、マリア・ジョアン・ピリスに登場していただこう。彼女もバッハとは相性がよくないはずだが、アルゲリッチと同様、バッハ作品集を1枚だけ録音している。これがまたチャーミングな1枚なのである。内容はまず定番のパルティータ第一番変ロ長調 BWB825、そしてアルゲリッチと同じく「イギリス組曲」、しかしアルゲリッチと異なり、同じ短調ながら第三番、そしてフランス組曲第二番ト短調、これは明らかにアルゲリッチの録音を意識しての選曲であるに違いない。
それはともかく、これも名演である。素晴らしい。バッハの骨ばった音楽を諭すように、ナイーブなアプローチで迫る。変ロ長調のパルティ-タから始まるせいか、たおやかなバッハに聞える。
そこで、アルゲリッチやピリスとは対照的な思索型、造形型、楷書体みたいなアルフレート・ブレンデルを聴いてみる。あのエドウィン・フィッシャーの弟子でもあるのに、ブレンデルもバッハの作品の録音は1枚のみである。
これはアルゲリッチとピリスのバッハとは全く別の世界である。スケールが大きく、構成感がしっかりしていて、さらにロマンティックでもある。何というか安定感があって、「男のバッハ」を感じさせる。演目は上記の閨秀ピアニストと共通の作品は選んでいない。
ここで私はブレンデルの語り口を思い出す。
ブレンデルは1981年、ロサンゼルス・フィル定期演奏会に登場した。弾いたのはモーツアルトの最後のピアノ・コンチェルト、ちなみにバックはサイモン・ラトルで、この時がアメリカ・デビューであった。
ブレンデルは予想通りの声で、もっさりした語り口で一言一言、言葉を探しながら自分の考えを述べていた。例えば、アナウンサーがどうしてモーツアルトの音楽の演奏は難しいのですか、という質問に対し、「モーツアルトの演奏の難しさは楽譜に書いてある音符の数が少ない。なので演奏家のすべてがその少ない音符に反映されるからである」と答えていた。
かように、FMでのライブ放送では演奏者のインタビューが頻繁に挿入されていたので、私はアルゲリッチの声や彼女の考えの一端でもインタビューで聞けたらと期待していたが、数回登場したもののインタビューは結局組まれなかった(しかし、後にDVDで彼女のドクメンタリーが出て、渇きを癒すことができた)。
アルゲリッチの凄さを示すエピソードをもう一つ。
私はブラームスは鈍くさい作曲家だと思っていた(そこがいいのだが)。しかし、彼の第二ピアノ協奏曲のスコアーで、ホルンのソロに続いて弾き始めるカデンツァの部分に目をやって考えを改めた。ここで、かつてフリードリヒ・グルダがザルツブルグでクラウディオ・アバドにレッスンをつけている折、その席にいた受講者で、その部分を初見で弾けるのはアルゲリッチだけだったので、彼女が弾いてみせたらしい。ご存じのようにアルゲリッチはブラームスが好みでない、しかしあれを初見で弾けるのかという驚き。
ジャクリーヌ・デュ・プレと同様、しばしば過剰な表現をせずにはおられない天才型ピアニスト、アルゲリッチ。
でも好きである 一度も実演で接することが出来なかったことを悔やむ筆頭のピアニストである。そして、このバッハはバッハのCDの中では最も取り出す頻度が高い魅力的な1枚である。
ある時、夢の中でのお話。私はバーのカウンターで何故かMarthaという名の女性と呑んで盛り上がっている。私はビール、ワイン、コニャックとフル・コースで呑んで出来上がったところで、彼女にこう囁いてみた(夢の中でも素面で言えるような心臓ではないのだ)。
“Martha, I have one request to you. That is your performance of Goldberg Variations by J. S. Bach.”