ブルックナー:交響曲第九番ニ短調

あと千回のクラシック音楽リスニング(32)

ブルックナー:交響曲第九番ニ短調
〜ブルックナーの辞世の句、「消え去りし行く音の愛おしさよ」〜

オイゲン・ヨッフム指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
WEITBLICK SSS 0071-2(輸入盤)

今回は前回のブルックナーの交響曲の流れで、最後の交響曲第九番を取り上げたい。
いや、これは傑作である。形は未完成ながら、あの立派な第八交響曲以上に深く、厳しく、どんなオケージョンでも胸を打つ大傑作である。この大傑作があの不器用で、優柔不断で、コンプレックスの塊のような作曲家から生み出されたというのは奇蹟に近い現象ではないだろうか。「俺の音楽を聴け」みたいな楽聖ベートーヴェンとの何という差!
私の周りにはブルックナーの音楽のよさが分からない、苦手という人が結構いる。ただ、美しい音が流れているだけで名曲と言えるのかと批判的な音楽評論家もいた。故福永陽一郎氏である。また、女性には不人気、これは洋の東西を問わず、共通しているらしい。なるほど。
ブルックナーの交響曲は長大、そして高頻度反復配列タイプで、主題の展開が不自然、スケルツォはほぼ同じ、ブカブカとブラスが炸裂しうるさく、とケチをつけようと思えばいくらでもつけられる音楽のようである。しかし、嵌ってしまうと抜け出すことが難しい音楽でもあるようだ。私も嵌ってしまっている。
私の支持理由は簡単である。ブルックナーの音楽はその不器用さがよいのである。彼の実生活もそうだったらしいのだが、にも拘わらずブルックナーの音楽は生き残っている。嘘偽りのない音楽なのである。感動的である。真実味に溢れているのは背後に深い信仰があるからに違いない。このため、神々しい荘厳な旋律が時折顔を出す。この第九交響曲なんて、レコードでも感動する確率が最も高い作品である。さらに、演奏が終わっても、ドイツ・オーストリア人の愛好家と同様、もう一度聴きたくなる。
ブルックナーの音楽はマーラーのそれとは実に対照的である。
「静のブルックナー」に対して、「動のマーラー」、これが二人の作曲家に対する私のイメージである。ブルックナーはゆったりと彼の音楽に浸ることができるが、マーラーはどこか気ぜわしい。さらに、色数の少ないブルックナーに対して、多彩のマーラー。ジンテーゼのブルックナーに対してアンチテーゼのマーラー、重合反応のブルックナーに対して分裂反応のマーラー、などなど。同じような食材を時間をかけて発酵させたようなブルックナーの音楽に対し、熟成過程を省略し、新鮮な食材をモザイク模様に派手に並べた海鮮丼のようなマーラーのそれ。かように、この二人の作曲家の音楽は対照的である。上記したように、この二人の作曲家の宗教的背景がこのような差を生んだのかな、と考えてしまう。
さて、同じような交響曲を何曲も作ってきたおかげか、フィナーレを欠くという致命傷みたいなものもあるが、この第九交響曲は三つの楽章でも十分と唸らされるくらい立派である。交響曲でこんなに大きく、こんなに深い作品がほかにあるだろうか。
この第九の第一楽章、コーダに進むにつれて、一種名状しがたい世界へ私は連れ去られてゆく。これには反復が効いている。なぜ何回も何回も同じような旋律が繰り返されるのか。その繰り言のような繰り返しから、決然と壮大なコーダへと向かってゆく。ブルックナーの音楽の醍醐味の最高のものである。
一方で、この作品は明らかにブルックナーの「辞世の句」であるに違いない。一音一音に「去り行く音を慈しむ」ような切実さが込められている。
次の第二楽章。これは何番のスケルツオだったっけと、いつもの類似形態の楽章だが、よく聴いてみると、大きく深い第一楽章を受けるに足る厳しい響きが鳴り渡る。
そして、崇高な第三楽章は宗教的雰囲気が過度で、私には第一楽章により心が打たれる。
とは云うものの、この宗教的儀式のようなこのアダージョも素晴らしい。私は前回、ブルックナーで最初に手に入れたレコードは第七番と書いてしまったが、もしかすると正確には第九の第三楽章の、神が現れたかのような数小節だったかもしれない。このフラグメントがCBSソニーの宣伝用(50選だったか100選だったか、有名なさわりの部分をピックアップした)レコードに含まれていたのである。ワルター指揮コロムビア交響楽団の演奏だった。
そして、この荘厳なアダージョの終結部。シューベルト「未完成」交響曲の終結部と双璧の素晴らしい最後の音の消え方。
金子建志先生がゲヴァントハウスでの講演会で、ブルックナーの改訂癖を取り上げられ、「そんなにこれまでの作品の改訂にエネルギーを費やすのなら、第九のフィナーレを書き上げてほしかった」と言われていた。ごもっともである。しかし、私感ではあるのだが、あの立派なアダージョに見合うような第四楽章は作れなかった、というのが真相ではなかったのだろうか。作ろうと言う気はもちろんあって、草稿も残ってはいるのだが。
シューベルトの「未完成」もそうだったが、前の楽章が立派過ぎると、それに見合うような楽章を創り上げるのは大変である。シューベルトでは第二楽章のコーダ、あのたなびく煙がすっと消えゆくような最後の音、作曲家は何とか後を継ぎ足そうとはしたのだが、いくら天才シューベルトだって、最後の二つの楽章を創りだすのは困難を極めたに違いない。
一方、ブルックナーの場合、前3楽章のフラグメントを組み合わせて、増量し、最後のひと搾りのような創作部分を加えて、何とかフィナーレを完作してほしかった。そうすればベートーヴェンの第九と肩を並べるほどの傑作として後世に評価されたのではないだろうか。
音楽書によれば、現存するスケッチに基づくと、ファイナーレは複雑なソナタ形式で、複雑な和音による序奏、副付点音符による激しい第一主題の後に穏やかな第二主題、第一楽章のコラールが明るい形で現れたホルンによる第三主題と続く、そういう流れであったらしい。そして、テ・デウムの基本音形に導かれて展開部が始まり、再現部は第一主題が複雑な二重フーガとなって高揚していく。つまり、第五交響曲のフィナーレと相似形。私は第五のフィナーレを巨大な龍が舞い上がるようだと表現したが、ブルックナーの交響曲では最も好きなフィナーレである。ドイツ語の「Abendrot」、黄昏の空に舞い上がる黄金色に染まった龍、そんなイメージが湧いてくる。なので、第九のこのフィナーレが完成しなかったのやはり遺憾である。惜しい!
さて、前回書いたようにLP時代、私は第七、第九の順にレコードを買った。
第七のシューリヒト盤以来、ブルックナーはブランクの時が続いた。ようやく2枚目のレコードを買ったのは、結婚した後のことで、それがクレンペラー指揮による第九交響曲のレコードだった。このレコードの演奏は心に染み入ってきた。晩年のクレンペラーにブルックナーの最後のシンフォニーという組合せで、ただならぬ雰囲気が漂っており、とくに第一楽章のコーダが近づくと、一音一音が愛おしく、コーダでは最愛の人との別れが近づいているような、そのようなシーンが頭をよぎった。
その次がまたまた第九交響曲でヨッフム指揮ベルリン・フィルによる演奏であった。
本当はクナッパ―ツブッシュ指揮ミュヘン・フィルによる第八交響曲のレコードがほしかったのだが、2枚組というのがネックになっていた。
さて、ヨッフムはブルックナー協会の会長も勤めたこともあって、アカデミックな面でも学識経験者であったはずだが、このレコードでは最初からテンポの動きが激しい。時の流れで、ブルックナーの音楽ではテンポを動かすべきではないというのが主流、自身でもそう語っていたにも拘わらずである。
しかし、そうは言いながら、私にとっての第九交響曲のベスト盤は第八と同様、ヨッフム盤である。但し、ヨッフムが晩年にミュンヘン・フィルを振ったライブ録音のCDである。枯淡とも表現できようが、ヨッフムのブルックナーに対する愛と畏敬が滲み出た演奏である。1977年、ベルリン・フィルとのライブ盤(PALEXACD0530)、これも素晴らしいが。
さらにもう1枚。ヨッフムで、ベルリン放送響を指揮した映像版(LD)がある。ブルックナーは上意下達様式ではだめだとばかりに、指に唾をつけて譜をめくりながら自然体で振り始めるヨッフム、ところが演奏は徐々に熱気を帯びてきて、第一楽章の「最後の審判」など圧倒的な迫力である。管理型演奏とは別世界、つかみどころがないようでいて、ちゃんと起承転結ができているような。ただ、北ドイツのオケなので、ブルックナーにしては小骨が多いかなという印象はあるが。
ヨッフム以外でもよい演奏が多い。晩年のヴァントがベルリン・フィルを振ったのも素晴らしいが、木のぬくもりみたいなものが不足、とか立派すぎるが故のクレームもつけたくなる。第八の場合と同じような不満である。贅沢な不満とも言える。具体的にはヨッフムとはスポンテーニアスという点で異なり、基本的に構築型の音楽造りで、しかもしかも指揮者が細部までこだわったに違いない精密な演奏である。一方で、音楽の流れとして意外とテンポを煽るように感じるテンポ操作が多いのも若干違和感がある。
名盤の誉れ高いシューリヒト&ウィーン・フィル盤は私には軽妙すぎると感じられ、神様フルトヴェングラーがベルリン・フィルを振ったライブ盤は激情的でテンポ操作が煩わしく、鬼神的演奏に聞える。
ところで、私は意外にもこの第九交響曲を実際にコンサートで聴いた経験がほとんどないことに気づいた。何と最初に聴いたのは、朝比奈が晩年も晩年、N響を振ったコンサートであった。このコンサートでは指揮者はこの大曲を立って振れるのかと、はらはらしながら聴いたが、演奏はひときわ感慨深いものであった。これはライブ録音のCDを大事にしているが、実際の演奏ではN響のメンバーが気負い過ぎているような気がしたものである。
もう一回は大震災の年、ケント・ナガノがバイエルン国立管を振った東京文化会館でのコンサートである。ドイツのオケ(但し、放射能汚染にアレルギー反応を示す楽員も多く、多数の日本人エキストラが参加)なので、安心してこの作品を味わうことができたというか、大震災後と言うオケージョン故というか、そんなコンサートであった。さらにこのコンサートでは作曲者の指示に従った「テ・デウム」が演奏され、この作品を生で初めて聴いた。何度も聴けば馴染んでくるのかもしれないが、疑問符が残る組み合わせであった。
そういえば、このコンサートは知り合いの女性ピアニストから、私ブルックナーはダメなので、いかがですかとチケットをいただいて出かけたコンサートであった。正に、ブルックナーを苦手とする女性が多いと言う現象の恩恵を蒙ったことになる。この現象、どういうメカニズムなのであろうか。音楽学者と心理学者のコラボで解明していただきたいテーマである。
それはそうと、この大傑作をもっと世に知らしめるためタイトルを与えてはいかがであろうか。シューベルトの第八交響曲(第七と記すべきであろうが、未だに第八がふさわしいという気がする)を「小未完成」、それに対しブルックナーの第九を「大未完成」、いや「辞世の交響曲」か。しかし、無冠のブルックナーにはやはり交響曲第九番ニ短調がふさわしいような、そんな気がしてならない。