モーツアルト:幻想曲二短調K397

あと千回のクラシック音楽リスニング(38)

モーツアルト:幻想曲二短調K397

〜 最短で最大のインパクト、これぞアマデウスの短調の世界 〜

◎リリー・クラウス(Pf) EMI EAC-30122(MONO)

◎マリア・ジョアン・ピリス DG 429 739-2



私にとって因縁のピアノ曲である。
なれ初めは、時は1974年2月で所はザルツブルグである。
ザルツブルグと言えばMozart Geburtshaus(「モーツアルトの生家」)、誰もが訪れる観光スポットである。
正にそこで、演奏されたニ短調のファンタジー、若き私の最大の音楽経験の一つなのである。
本当に無謀な、ぶっつけ本番のヨーロッパの旅、しかもシベリア周りであった。ウィーンに到着後、そこにしばらく滞在し、素晴らしい体験や恐ろしい体験を味わった。その後ミュンヘンへ移動する途中ザルツブルグに寄った。
いやはや大変な旅だった、まずスーツケースである。北九州の田舎都市・飯塚の鞄屋の主人(あるじ)が宣うた、「外遊されるならこれです」と。薦められたのはサムソナイトのスーツケースである。そう、何と「外遊」なのである当時は。1ドル360円の時代から、ようやく200円台となった時代。
そして、そのスーツ・ケースなのである、大問題だったのは。確かに立派な、堅牢なカバンなのではあるが、当時はコロが付いていない。大型のスーツケースに詰め込まれているのは衣類と本・資料が殆どなのだが、それでも重い、とにかく重い。ザルツァッハ川に投げ捨ててやりたいくらいの憎たらしい重さ。スーツケースは頑丈に造られているかもしれないが、それ自体がやたらと重いのである。私はスーツケースのコロが前世紀の最大の発明の一つだと確信している、電子レンジと並んで。いや、大袈裟かもしれないが5mも歩いたら一休みという感じなのである、実感として。しかもひと月前には盲腸の手術をやっているのだ。まさか傷が開かないよね、という心配もあった。いや、大変だったが、それはそれ。
テーマのファンタジーニ短調K397に戻って、こんな短い、しかも未完成の作品がどうしてこんなに人の心を動かすのであろうか。
ニ短調はト短調と並んでアマデウスの運命の調性である。かの「レクイエム」がニ短調、ピアノ協奏曲の傑作第20番K466もニ短調、そしてこの幻想曲!まだある、同じく、短いが超傑作のK341のキリエ、これもニ短調であった。
さて、ザルツブルグでモーツアルとの生家に入ってみると暖炉とか、キッチンとか、今にもモーツアルトがひょっこり現れそうな、そんな魔力を有している。

真冬の2月なので見物客はほとんどいない。音楽専門の輩か物好きな観光客かである。私の他にはアメリカから来たピアノの先生と3人ほどの彼女の教え子たちだけ。そして、そのグループと雑談をしているうち、先生がやおらクラヴィコードの椅子に座り、弾き始めたのがこのK397の幻想曲であった。私は戦慄を禁じ得なかった。
この短い、未完のピアノ小品にどうしてこんなに深い感動を覚えるのか、未だもって謎なのである。私のアマデウスの短調過敏症か。
ある時、研究団地で親しくしていた後輩とピアニストの奥さんが音楽仲間で弾き合うミニ・コンサートに招待された。次々に弾きたい人が弾きたい曲を弾くというザックバランな会なのであるが、腕の立つ人もそうでない人もどうしてかこの幻想曲を弾く人が多かった。この時ほど、自分も自分なりにこの幻想曲を弾けたらと思ったことはない。私も一応バイエルは卒業していたので、レッスンを継続していれば、そこの仲間に加わることが出来たのかなと悔しい思いをしたものである。
そう、技術的にはそんなレベルの作品なのだ。しかし、モーツアルトが創ると冒頭など地獄からデーモンが現れそうな音楽が出来上がる、正に謎である。
私はピアノよりはヴァイオリン派である。基本、ピアノのメカニックな音が好きではない。例外はヴィルヘルム・バックハウスが弾くブラームスの第二ピアノ協奏曲で、ベーゼンドルファーの響きが素晴らしい。カール・ベーム指揮ウィーン・フィルのバックも期待以上の万全さ、男の友情が溢れ出たような名演である。
それはそれ、K397 に戻って、私が最初に手に入れたこの曲のレコードはリリー・クラウスによるLPレコードであった。モーツアルトのピアノ・ソナタ数枚と、 K540やこのファンタジーなどの小品が加わった、一応ピアノ作品全集なのであるが、当時は全集が買えなくてばら売りの中から2枚だけ購入した。目玉のK310イ短調ソナタとK331「トルコ行進曲付」ソナタを核とした2枚で、後者の中にこのニ短調のファンタジーが含まれていた。
このシリーズは名エンジニアのアンドレ・シャルランが録音した有名なディスクフィル・フランセ原盤なので、モノーラル録音としてはよい音はである。でもフランス風にちょっと軽量級かなという印象はある。

ステレオ録音盤として最初に手に入れたのはピリスの旧盤で、これはフィリピンにある国際研究機関に派遣されている折、マニラのレコード屋で購入した。デンオンによる初期のPCM録音のCDで帯には販売価格3,700円と記されていたが、他の輸入盤と同じ価格で売られていた。この1枚はじめ、若きピリスのモーツァルト、素敵である。もぎ取ってすぐの果物みたいなフレッシュな香りがする。
そして現在、専ら取り出すことが多いのもやはりピリス、ピリスのDG録音の新盤である。
最初聴いた時はやや人工的、間の取り方が不自然、何となく大家風に処理した感があり、少し抵抗を覚えたが、ほどなくこれを深化と捉えることにした。一音一音の重みを感じさせる演奏というか、意味深さを感じる。
ここで、私はピアノという楽器のオーディオ的な再生の大切さを痛感する。ピリスの新盤ではピアノの弦の張りまで分かるような録音である。クラウスのLPでは単音だったのが、その音の構成要素まで見えてくるようなというか、とにかくいい音なのである。
しかしである、このピリスの新盤を以てしても、補完された部分のお粗末さは何ともし難い。
モーツァルトの新全集でも未完成の作品の中に分類されており、初版では最後の部分が属七の和音で終わっている。ところが、その2年後にブライトコプフ・ウント・ヘンテル社から出版された折は最後に10小節が書き加えられており、A.E.ミュラーによる補完と推定されている。中にはこの補完が気に入らず、最後の属七の和音から冒頭の分散和音型によるアンダンテの部分に戻って終わるという形を採るピアニストもいて、内田光子がその例である。
かつて「レコード芸術」で、ドイツの音楽評論家がこの作品が未完成に終わったことについて、小説的考察を試みていた。作曲途中でアマデウスがトランプ遊びに出かけたためというストーリーであった。それもありえるかな、である。でも、こんな素晴らしい出だしの音楽を途中止めにしてしまうなんて、である。
それはともかく、私のお気に入りの作品なので、奇蹟的な演奏を夢見たりする。その筆頭はやはりマルタ・アルゲリッチである。技術的にはこんなレベルの作品をピアノの女王が弾くことはありえないのだが、冒頭のデーモンをデーモンが潜んでいる女王マルタはどう弾き始めるのか、どうしても聴いてみたい。
もう一人、ウラディミール・ホロヴィッツにも弾いてほしかった。あのシューマンの「クライスレリアーナ」での不気味な雰囲気を醸し出すピアニズム。最近、音楽評論家による選択では「クライスレリアーナ」はアルゲリッチが断トツの一位なのであるが、私はホロヴィッツの男のピアニズムにより魅力を感じる。
学生時代、モーツアルトでもK331の「トルコ行進曲」付きソナタ、カーネギー・ホールでのライブ録音に嵌ってしまい、それをベースにしてホロヴィッツとベームによるピアノ協奏曲第24番をでっち上げて、「ステレオ芸術」誌に投稿したら、採用となり生まれて初めて原稿料なるものをいただいた。これも懐かしい思い出である。
もう一つ、1990年代はじめ、ケンブリッジでのとあるワークショップで、ポルトガルのサントス教授とレセプションで意気投合、一緒にパブに飲みに行ったりと親しくなった。先生も音楽好き、そしてリスボンに来ないかと誘われた。ピリスに会わせてあげるよ、と言うのである。何とサンチェス先生はピリスの知り合いだという。公用旅券での出張で、ポルトガルに行くことなどはなから無理だったのだが、ピリスがこんなに大物ピアニストに化けようとは、である。惜しいことをしてしまったものである。