チャイコフスキー:交響曲第六番ロ短調Op.74
後千回のクラシック音盤リスニング(25)
チャイコフスキー:交響曲第六番ロ短調Op.74
〜 ケルテス「新世界より」と並ぶDeccaステレオ初期録音の傑作〜
ジャン=マルティノン指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
LP: London SLC 1743
チャイコフスキー交響曲第六番「悲愴」のような、若い頃知った超名曲はもうほとんど聴くことはない。しかし、コンサートで聴くと時に感動することもある。
直近の経験はインバルが東京都響を振ったコンサートである。インバルはマーラー風とも言えるくらいスケール大きな、深く突っ込んだ指揮で久々に感動した。
さらに遡って、若い頃、ウィーンのムジークフェライン・ザールでノイマン指揮ウィーン交響楽団でこのチャイコフスキーの「悲愴」を聴いた。ノイマンが顔面真っ赤にしての気合の入った指揮にウイーン響が反応して凄演だった。あの第三楽章など、木製の椅子が共鳴してお尻がむず痒くなったほどボルテージが上がった演奏であった。もう、ほぼ半世紀も前の体験である。
この「悲愴」という作品は通俗名曲ではあるのだが、よく考えてみると蠢くようなファゴットの響きに始まり、形式にはまらないような第一楽章、歌謡性に富んだ親しみやすい第二楽章、スケルツォとド迫力の行進曲の第三楽章、そして、アンダンテ・ラメントーソの終楽章と、とてもユニークな交響曲である。とりわけフィナーレはマーラーの第九のフィナーレを先取りしたような独創性。そう、独創性溢れた名曲であり、かつ暗い暗い「ネクラ」のシンフォニーと再認識した。
ムラヴィンスキーは交響曲はチャイコフスキーとショスタコーヴィッチの第五が傑作だと断言しているが、やはりこの「悲愴」が最高傑作なのではないだろうか。私的経験ではアバド&ニューヨーク・フィルの第五のライブ放送での演奏がチャイコフスキーでの一番大切な存在であるのだが。逆にムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの実演(広島公演)は期待したほどではなかった。
さて、チャイコフスキーのこの名曲「悲愴」交響曲の録音、本場ものとしてはムラヴィインスキー指揮レニングラード・フィル(DG)、もっとグローバルな名盤としてはカラヤンの、とくに最晩年のウィーン・フィル(DG)や劇的表現のEMI盤の評価が高い。
しかし、私の愛聴盤はマルティノン指揮ウィーン・フィル盤である。これが私には一番強いインパクトを感じる。
いや、もう1枚あって、あの超スローテンポのバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤である。バーンスタイン盤は奇演とも言える個性的な演奏で、第四楽章のアンダンテ・ラメント―ソなど途中で止まりそうなテンポの設定に驚く。しかし、これを第一に推す人も少なからずいる。
一方のマルティノン盤、録音:そう奇抜な演奏ではない。ないのだが、その演奏密度、アゴ―ギグ、アクセントなど劇的に決まっていて、油絵的な演奏となっている。それにデッカの録音が効いていて、カルショーのプロデュース、録音担当はかのウィルキンソンで、1958年4月、ウィーン、ゾフィエンザールでの録音である。
この録音も初回に取り上げたケルテス指揮ウィーン・フィルによるドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」と同様、謎に包まれた名盤と言える。
一体誰がマルティノンを引っ張ってきたのか、しかもロシア音楽の指揮者として。バレエではなく交響曲なのである。
マルティノンは素晴らしい指揮者である。それは間違いない。我が国でも初来日時に強烈な印象を与え、「春の祭典」など語り草になっているほどである。何より、ライナーの後を受けて1963年よりシカゴ交響楽団の音楽監督となっている。
そのシカゴ響では残念ながら評価されなかった。元々シカゴ響はドイツ音楽を重んじる伝統があった。それは歴代の指揮者を見ても明らかである。そこで、そこでドイツ音楽の比重を落としたこと、特にマーラーとブルックナーは振らないと最初に宣言しており、これが効いたか。しかし、実際にはマーラーとブルックナーも振っており、フランス人として初めてグスタフ・マーラー・メダルを授与されている。最近、マーラーの方は第三番や第四番(シカゴ響)などのライブ録音盤が販売されている。
シカゴ交響楽団は、1891年創設。初代音楽監督セオドア・トマスで、創設から1905年まで、次いでフレデリック・ストックが1942年まで37年長きに渡って常任を勤めてシカゴ響のレベルを上げ、米国屈指の楽団として評価されるに至った。従って、ドイツ音楽中心の土壌が出来上がった。
ところが3代目デジレ・ドゥフォーはクラウディア・キャシディの登場により僅か4年の短期生命に終わってしまった。シカゴ・トリヴューン紙に音楽と演劇の評論を書き始めたキャシディ―はシカゴ響の指揮者の痛烈な批判を書き始め、後任のロジンスキーに至っては1年だけ(これには別の理由があったらしい)、次のクーベリックは期待されながら3年だけに辞任することとなった。
穏健な紳士クーベリックはキャシディを「あの女めが」と無念の思いを語っている。
クーベリックを推薦したのがかのフルトヴェングラーで、巨匠はお金を必要としており、常任を受諾したのであるが、トスカニーニが扇動したユダヤ系大物音楽家の反対により諦めざるを得なかった。もしフルトヴェングラーがシカゴ響の常任となっていればどんな録音が生まれていたか、フルトヴェングラー指揮シカゴ響によるベートヴェン交響曲全集も夢物語ではなく実現していたかもしれないのである。
マルティノンに戻って、キャシディから激しく批判され、それに嫌気がさした彼はわずか5シーズンでシカゴ響を離れてしまう。結果、またしてもシカゴ響は低迷期に入ってしまう。次にここで成功したショルティはキャシディが引退したことを確認して常任を受諾した。バーンスタインもショーンバーグはじめ、ニューヨーク・タイムズの歴代の評論家に随分とやられ、それが彼のニューヨーク・フィル音楽監督辞任の一因となった(省:のである)。音楽評論家とはそういう因果な存在なのであろう。
私はシカゴ響の1980-1981年シーズンの定期会員となっていたが、定期公演では毎回かなりのページ数に上るブックレットが配布されていた。貴重な情報が入るプログラムであったが、その最後付近にシカゴ響を支える凄い数のパトロンのリストが印刷されていた。女性が結構多いのは金持ちの未亡人で、オーケストラへの寄付は税金対策でもあるのだが、オーケストラの財政面を支える資金源である。従って、指揮者の選定にも大きな影響力を有しており、米国の富裕層に占めるユダヤ系の比重が高いので、結果的にユダヤ系指揮者が多くなるのである。有能な指揮者にはユダヤ系が多いというのがベースとしてあるのだろうが。ワルターはじめ、セル、オーマンディ、バーンスタイン、レヴァイン、ライナー、モントウー、ショルティ、MTT、バレンボエム、プレヴィン、マゼール、ラインスドルフ、スラットキン、スタインバーグ、と枚挙に暇がない。
シカゴ響もその典型で、バレンボエムの人事はユダヤ系の力の反映であろう。ライナー、ショルティ、バレンボエムとシカゴ響で長くもった指揮者はすべてユダヤ系である(ストックは不明)。
因みにアバドはシカゴ響の常任を切望していたが、ショルティの後任にはバレンボエムが決まり、随分と落胆したらしい。(上段から移動)
再び「悲愴」の録音に戻って、マルティノンの「悲愴」はケルテスの「新世界より」と同様、このプロ集団がやる気になっているのを感じる。
しかし、このマルティノンの「悲愴」はそのケルテス盤と比べるとやや人工的、つまりスポンテニアスな楽興が足りないような気もする。曲がそう作ってあるせいなのかもしれないし、プロデューサーの意向があったのかもしれず、はたまたオケと指揮者のインターラクションの結果かもしれない。つまり、マルティノンの指揮の下、この名うてのすれっからしオケであるウィーン・フィルがやる気を起こした結果ではあるのだが、マルティノンが強烈にドライブしたという印象が表に出ている。
また、曲がドイツ系の音楽ではなく、チャイコフスキーであったのが幸いしたとも考えられる。曲がシューマンだったら、若きヴァントと同じ目に遭っていたかもしれない。「お若いの、我々はそんな露骨な表現は好きじゃない」とコンマスのボスコフスキーにやられて。
それにしてもマルティノンの野心とオケをドライブする技術的能力と人間性がウィーン・フィルをしてこの名演を誕生せしめたと言えるであろう。
それらすべてが盤面に刻み込まれたような気がしてくるレコードである。同じプロジェクトをEMIが敢行しても、こんなレコードは生まれなかったであろう。
ここで、私は妄想的考察を試みる。「フルトヴェングラー頌」で、マルティノンが登場する。彼はフルトヴェングラーのリハーサルを観察するため、会場に潜り込む。そこで、オケが巨匠が思い描いた音を出すことが出来ず、ついに癇癪を起してしまう。それに動じたマルティノンは音を立ててしまい、会場からつまみ出された。ここまでは事実である。その先で、ひょっとするとその時の演目が「悲愴」だったのでは。
いや、それは行き過ぎた考察で、マルティノンの師匠は指揮者ミュンシュであった。ミュンシュは長い棒を振り回して、豪快な音楽を作り上げた。マルティノンはリヨンの生まれであるが、ミュンシュと同じアルザス人で師匠に習って長い棒で指揮した。
フランス人指揮者は感覚的で構成力に欠けると言われるが、マルティノンはこのアルザス人であったため、純フランスの指揮者とは異なった、ドイツ的な構成力を持っていたのではないか。さらに師ミュンシュはゲヴァントハウス管でコンサートマスターを勤めていた。その時の指揮者がフルトヴェングラーである。当時の巨匠は時に指揮台から落下するほど激しい指揮であったらしく、ミュンシュの指揮台上での燃焼もその辺にルーツがあるのではと想像をたくましくする。例えば、最晩年のパリ管との幻想交響曲やブラームスの第一。
そんな妄想はともかく、いずれにしてもマルティノンのこの名演には巨匠フルトヴェングラーの影響が背後にあったかもしれない。1938年録音のフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの録音が愛聴盤だったりして。