念願のケンペを聴く!
念願のケンペを聴く! - 1973年3月、ロンドンにて -
私が初めてルドルフ・ケンペ(1910-1976)の演奏をレコードで聴いたのは学生時代に遡る。 それは彼が1950年代末、EMIにベルリン・フィルと録音したベートーヴェン交響曲第3番「エロイカ」だったと記憶している。 このズッシリとしたスケール感ある演奏にほれ込んでしまった。 その後、ほぼ同時期に同EMIに録音が進められたブラームス交響曲-全4曲(一部モノラル録音)にも圧倒された。 こうなるとどうしてもぜひ彼が指揮する生演奏が聴きたくなり来日を首長くして待ち続けた。 年月が経過したある時、ミュンヘン・フィル初来日(1972年2月)のニュースを耳にした。私はこの時、当然のことながら当時常任指揮者を務めていたケンペが同行することを期待した。しかしながら公演チラシにはケンペの名前はなく同行する指揮者はチェコの名指揮者ヴァツラフ・ノイマンとドイツの若手指揮者ハンス・ツェンダーであった。 当時のケンペは健康に一抹の不安を抱えていたことも来日が難しい一因だったのであろう。 ところがフタをあけてみると当時のチェコスロヴァキア政府が直前にノイマンの出国を許可しない事態に・・・急遽、前常任指揮者フリッツ・リーガーが代行するというハプニングが生じてしまった。 案の定、公演プログラムは修正が間に合わず指揮者変更通知書面が挿し込まれていた。 当時まだ学生だった私はケンペを聴く次のチャンスはやはりミュンヘンかロンドン(ケンペはロイヤル・フィルの音楽監督も務めていた)に直接飛ぶしかない考えたのである。
現在のようにパソコンもインターネットもない時代、海外のコンサート情報を得るのには少々苦労した。 各種音楽雑誌等々の海外コンサート情報や観光局等からの情報収集に頼るしかなかったことを思い起す。 それでも最終的には何とか運よく翌年(1973年3月)彼がロンドンで「ロイヤル・フィル」の指揮台に立つという嬉しい情報を入手した(写真1)。 これで私の頭の中は何とかしてヨーロッパまで彼を追いかけたい気分でいっぱいになった。 振り返ってみればこの1970年代初頭はヨーロッパ方面への「学生ツアー」が出始めた頃でさっそく私も彼のコンサートに合わせスケジュールを組みできるだけフリータイムが多く自由に動きやすいツアーを選択し参加することを決心した。 さてロンドンに到着するやいなや街のキオスクで「What's on London」というエンタテイメント情報誌を入手しコンサート情報をチェック。 ページをめくるうちに「March,20 8.pm. Royal Philharmonic, Rudolf Kempe」の文字が目に入った時の感激は忘れることができない。
早速、滞在ホテルのレセプションでチケットを手配、ようやく念願のチケットを入手した。 会場は「ロイヤル・フェスティバルホール」(写真6)、テムズ河畔に位置するロンドンを代表する大コンサートホールのひとつである。 最寄りの駅は地下鉄のエンバンクメント。 コンサート開始は午後8時。 因みにチケット料金は2ポンド、当時のレートで約900円くらいか? 900円でケンペが聴けるとは安い!!(写真2) プログラムはウェーバー歌劇「魔弾の射手」序曲で始まった(写真3、4)。 期待どおりオペラ指揮者でもあったケンペの颯爽とした指揮ぶりは今でも頭の中に焼き付いている。 続いてソリストにアメリカのマルコム・フレイジャーを迎えてのモーツアルトのピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595,フレイジャーは当時まだ日本ではマイナーな存在だったがR.シューマンの研究でも知られ欧米の主要オーケストラと共演し活躍していた。 休憩後この日のメイン・プログラムであるショスタコーヴィチ交響曲第5番が演奏された。 ケンペは当時この作品を好んで取り上げていた。 今でも終楽章のコーダの凄みが心によみがえる。
コンサート終了後、私は興奮のあまり図々しくも楽屋を訪れた。 幸いにしてケンペ夫妻もにこやかに私を迎え入れてくれた。 そしてプログラムに心よくサインをしながら英語で「日本からわざわざ聴きに来てくれてありがとう」というケンペ自身の言葉が印象的だった(写真5)。 後に思ったことだがあの時一緒に記念写真を撮っておけばと・・・悔いが残る。 写真5は当時、取り寄せた1973年3月のケンペ・ロンドンコンサート情報である。