ジャン・マルティノン追悼コンサート

「ジャン・マルティノン追悼コンサート」-1976年3月、パリにて-

1976年3月1日、フランス・リヨン出身の名匠ジャン・マルティノンが多くのファンに惜しまれながらパリで66歳の若さで亡くなった。彼は前回綴った「ルドルフ・ケンペ」と同世代1910年生まれである。師はシャルル・ミュンシュ、彼は「シカゴ交響楽団」の音楽監督を退任後1968年から母国の「フランス国立放送管弦楽団(1975年より「フランス国立管弦楽団」に改称)の音楽監督を務めていた。初来日は1953年、「NHK交響楽団」に客演している。私が初めて彼の演奏に接したのは1970年11月に「日本フィルハーモニー交響楽団」に客演した時だった。今も彼が日比谷公会堂(当時、東京文化会館は改修工事で閉鎖中)で振った「ブラームス交響曲第1番」の感動は忘れることができない。またその時プログラムに入れて頂いたスタイリッシュなサインは私のお気に入りのひとつ(写真1)。
本題の「フランス国立管弦楽団」との追悼コンサートは彼が亡くなった1週間後の3月8日(月)、午後8時半から由緒ある「パリ市立劇場」で開催された(写真2、3)。指揮はイタリアの名オペラ指揮者ネッロ・サンティ、ソリストにオーストラリア・シドニー出身の若手ピアニスト、ロジャー・ウッドワードが客演。プログラムはブラームス/ピアノ協奏曲第1番ニ短調、チャイコフスキー/交響曲第2番ハ短調「ウクライナ」の2曲である。演奏の前に全員が起立。1分間の黙祷をささげることから始まった。前半に演奏されたブラームスはウッドワードが得意としておりその洗練された気品ある演奏は聴衆を魅了した。彼はほぼ同時期に同曲を「RVC」にクルト・マズア&「ニュー・フィルハーモニア管弦楽団」と録音している。休憩後のチャイコフスキーの交響曲第2番はコンサートで取り上げられる機会は少ないが第3楽章を除く他の楽章には標題のように美しい「ウクライナ」民謡が用いられ味わい深い作品である。サンティの指揮にも力が入っていた。フランス国立管の金管群もよく響いていた印象がある。
さてここからは余談になるが指揮者のサンティ1931年生まれなので当時はまだ42歳の中堅指揮者、N響に度々客演し好評を得ている。今年87歳を迎える長老である。ますますの活躍を期待したい。ピアニストのロジャー・ウッドワードは1985年に茨城県の「つくば」で開催された「つくば科学万博」のオーストラリアのイベントに参加し武満 徹の作品等々を披露している。当時私も縁があり「万博」で9年ぶりの再会を果たした。(写真4)のLPはその際に頂いた記念のサインである。彼も今年76歳、これからも益々の活躍を祈る次第である。
最後にコンサート・チケット(写真5)、座席番号が手書きとは時代を感じさせる。因みに料金は25フランス・フラン、当時のレートで1200円程度と記憶している。

写真1 来日時にプログラムに入れてもらったジャン・マルティノンのサイン

写真2 当日カラヤニストが撮影したパリ市立劇場

写真3 マルティノン追悼コンサートプログラム

写真4  オーストラリアの人間国宝 ピアニスト  ロジャー・ウッドワードのサイン

写真5 追悼コンサートのチケット(座席番号が手書き)