ロシアの巨匠エフゲニー・ムラヴィンスキーの想い出

ロシアの巨匠エフゲニー・ムラヴィンスキーの想い出

ロシアの巨匠エフゲニー・ムラヴィンスキー(Evgeni Mravinsky/1903-1988)は1958年4月開催「第1回大阪国際フェスティバル」以来何度か来日が予定されたが飛行機嫌い、体調の理由などで初来日は1973年5月まで待たねばならなかった。手持ちの資料、「1958年第1回大阪国際フェスティバル」の総合プログラムを見ると「レニグラード・フィルハーモニー管弦楽団」は(この公演プログラムでは「レニングラード交響楽団」と表記)され4月15日・16日と最終日の5月3日の指揮台に立つことになっていた。さぞかし関西のムラヴィンスキーファンは無念だったと思うが急遽、ムラヴィンスキーの先輩にあたる当時65歳のアレクサンダー・ガウクが代行した。因みにそのほかの公演はプログラム通り45歳(当時)のクルト・ザンデルリンクと43歳(当時)のアルヴィド・ヤンソンスが振っている(写真1 「1958年第1回大阪国際フェスティバル」表紙/写真2 レニングラード・フィル公演日程と演奏曲目・尚、当時の演奏記録によれば4月16日はチャイコフスキー「交響曲第4番」が「交響曲第6番"悲愴"」に変更されたようである)。その後、1970年には待望の「大阪万国博覧会 EXPO'70」が開催され「レニングラード・フィル」も「EXPO'70 クラシックス」に参加した(写真3 「大阪万国博覧会'70公式ガイド」英語版から)。しかしここでも、病気のためムラヴィンスキーの来日は実現せずアルヴィド・ヤンソンスと当時35歳の若手アレクサンドル・ドミトリエフが代行した(写真4 東京公演のチラシ/写真5 チラシ裏面の指揮者変更告知)。
そして1973年5月、鶴首すること15年、ようやくムラヴィンスキーの初来日の願いが叶った(写真6 1973年初来日公演プログラム表紙)。飛行機嫌いの彼はレニングラードからシベリア鉄道と船を乗継ぎおよそ160時間余りをかけ日本へやって来た。私は喜びのあまり興奮して5月26日、会場の東京文化会館に向かった。当日のプログラムは「ベートーヴェン交響曲第4番」と「ショスタコーヴィチ交響曲第5番」、特にショスタコーヴィチのフィナーレの大迫力に圧倒される。当時の模様はアンコール曲も含め後日FMでもオン・エアされCD化もされた(写真7 1973年公演ムラヴィンスキー演奏曲目)。またこの公演でもアレクサンダー・ドミトリエフも同行し地方都市公演を振る。ムラヴィンスキーはこの後も1975年5月、1977年9月、そして最後の来日となった1979年5月と通算4度の来日を果たしたが中でも1977年の来日が印象的だった。この時は当時35歳の若手マリス・ヤンソンスも同行し約1ヶ月近い公演のうち東京・北陸・九州・北海道での公演を受け持った。私はムラヴィンスキーが振るシベリウスを聴いてみたかったので10月19日の「NHKホール」の公演を聴いた。幸い1階前列センター席を入手、コンサートを満喫、メインの「チャイコフスキー交響曲第5番」は彼の「オハコ」、やはり期待通り凄い演奏だった(写真8 1977年公演チラシ/写真9 公演プログラム表紙/写真10 公演チケット)。

写真1 1958年第1回「大阪国際フェスティバル」プログラム表紙

写真2 「第1回大阪国際フェスティバル」レニングラード フィル 公演日程

写真3 「大阪万博-EXPO70」公式ガイドブック英語版から

写真4 1970年「大阪万博EXPO'70」参加のレニングラード・フィル東京公演チラシ

写真5 東京公演チラシ裏面 病気のためムラヴィンスキー来日不能の告知

写真6 1973年ムラヴィンスキー初来日公演プログラム表紙

写真7 ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル1973年公演、演奏曲目プログラム

写真8  ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル 1977年東京公演チラシ

写真9  ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル 1977年公演プログラム表紙

写真10  ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル 1977年公演チケット