ノブヤンのひとりごと 17(ブルックナー 交響曲9番のラスト 「永遠への旅立ち」)

私の好きな作曲家の中の一人に「アントン・ブルックナー」がいます。 とりわけ交響曲第9番は、ブルックナーの世界に初めて触れた曲として思い出と愛着があります。
私のクラシック音楽のレコード遍歴を遡ると、小学校の高学年頃に目覚めて最初に購入したのがロッシーニのウイリアムテル序曲やチャイコフスキーの「白鳥の湖」(17cm盤)でした。 そして中学生になるとベートーヴェンの「運命」「田園」「英雄」「第9」交響曲から始まり、「新世界より」〜「未完成」〜「悲愴」〜「アルルの女」「組曲カルメン」〜「イタリア」〜「ブラームス1番」などといった有名どころの曲のレコードを、お小遣いを貯めては買うことが楽しみと喜びであったように記憶しています。
そして高校生になってからは、唯一の音楽情報源である雑誌「レコード芸術」を通じて、記事の中に出てくる「ブルックナー」と「マーラー」の交響曲に興味を持ちはじめました。
高校では音楽関係の部活動(合唱部)に所属し、音楽をより深く追究することの楽しさが分かってくると、自分の知らない新しい分野の音楽も聴いてみたくなり、中学の音楽の教科書には全く載っていない「ブルックナー」と「マーラー」の名前が気になり出しました。 とはいうものの、この2人の作曲家の交響曲は共に長い曲ばかりで、LPでは2枚組になってしまうため、無理をして買ってもつまらない音楽だったらどうしよう、という損得勘定の気持ちが勝ってしまい、なかなか購入する決心がつきませんでした。

そんな中、ある号の「レコード芸術」誌の中の黄色に黒字のグラモフォンの広告ページにあったのが……

写真1    カラヤン&ベルリンフィル レコードジャケット

『カラヤンが歌い上げるブルックナーの白鳥の歌、交響曲第9番!』(1966年録音、写真1)

もちろんこのレコードについての批評も記事として載っていて、演奏も録音も全てが高評価、何よりも1枚ということが私の心を動かしました。 「カラヤン!」・「白鳥の歌(というと辞世の句?)→ 9番!」・「録音…推薦盤!」といった文字が心に刺さり、いよいよ買ってみようかな?……ただ私にとっては、今まで聴いたことがない音楽であることが唯一の不安材料となり、最後の判断は損得勘定の感情でした。
こうなると、まるで清水の舞台から飛び降りる覚悟と、「UMA(未確認動物)」か「UFO(未確認飛行物体)」に遭遇するかのようなドキドキ感が混じった決心で、レコード屋さんに行った記憶が今でも思い出されます。

そして「初ブルックナー」………レコードA面に針を下ろし………なんだか訳の分からない、得体の知れない始まり………いきなり大きな音がする………クレッシェンドして盛り上がりこちらの気持ちも高まると思いきや突然音がなくなる………なんじゃこりゃ??………まっ、我慢して聴こう………せっかく2ヶ月分の小遣い貯めて買ったんだから………「2楽章」………うわーっ、原始人のおどりだぎゃー!!(なぜか名古屋弁?!?)………メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲のレコードを買えば良かったかな〜………レコードB面は2楽章の続きで、また原始人の踊り………「3楽章」………もうどうにでもなれ!!訳が分からん………

写真2   スコア 155小節(ピンクのマーカー)

しかし、この後に奇跡の場面がやってきました!!

3楽章半ばを過ぎたところで突然、天使が舞い降りてきたのです(スコア155小節目、写真2)………『祈りの賛美歌にも似た神秘的な弦楽合奏の響き、こんなに美しい音楽は今まで聴いたことがなく、雷に打たれて身動きがとれないとはこんな感じなのか?!』………
その後、断末魔のあがきのような激しい音楽となり、まるでバベルの塔を競って登るが如く、狂おしい音楽が鳴り響いたかと思うと………突然視界が開け、美しい花々に囲まれた天上の景色が現れ………浄化された静かな世界が一面に広がる中………一つの魂がホルンの響きに導かれて天に召されていく………。

終わってみれば大きな感動が私を包みました。 3楽章の最後の部分だけでも、このレコードを買って良かった! そんな感想を持ちました。 そして何度も聴いているうちに、1楽章も2楽章も愛すべき音楽に満ちあふれていることが分かるようになっていきました。
今となってはブルックナーの他の交響曲もずいぶん聴くようになりましたが、9番だけはこのような初体験の特別な思い出があり、持っているCDは他のどんな曲よりも枚数が多いのです。
またギュンター・ヴァント指揮・北ドイツ放送交響楽団演奏の東京オペラシティでのライブDVD(写真3)、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮・シュトゥットガルト放送交響楽団演奏でのリハーサルと本番の映像(レーザーディスク、写真4)も集めました。

写真3    ヴァント&NDR響 DVD

写真4    ジュリーニによるリハーサルLD

そして実際の演奏会にも行きました。 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー指揮の読売日本交響楽団、朝比奈 隆指揮のNHK交響楽団、飯守泰次郎指揮の東京シティフィル、中でも2019年9月定期の東京都交響楽団、この東京都交響楽団には教え子がメンバーにいることで、指揮の大野和士さんへの許可をとってもらい、8月31日の東京文化会館でのリハーサルを見学させてもらいました。 地下のリハーサル室でしたが、この時は第一バイオリンの後ろの壁ぎわで、私一人本当に幸せな時間を過ごすことができました(写真5)。

写真5     都響練習風景

そんなある日、新宿のディスクユニオンで見つけたロヴロ・フォン・マタチッチ指揮・チェコフィルハーモニーの中古CD(1980年12月のライブ音源)、これは前から興味がありましたが、この演奏を聴いた時に受けた衝撃的な感銘と感動は、初めて耳にしたカラヤンの演奏以上に私の心の中では大きく尾を引いています(写真6)。

写真6    マタチッチ&チェコフィル CD

その「感銘と感動」の元になるのが次の2つのことです!
第1は、チェコフィルのホルンの見事なヴィブラート奏法
第2は、3楽章最後の弦楽器のピチカートが弓(アルコ)で弾かれていること

西欧圏やアメリカのオーケストラの真っ直ぐな音のホルンに慣れていると、旧東欧圏やロシアのオーケストラで耳にするヴィブラートのかかったホルンが、歌のようでとても魅力的に感じます(昔はレコードプレーヤーの回転数が不安定なのかな? と一瞬思うような時もありましたが……)。
マタチッチ指揮の下、チェコフィルのこのホルンの名人芸は、オーケストラ全体の柔らかい響きの輪郭となり、我々に極上のサウンドを聴かせてくれます。 特に3楽章では、他の演奏の録音では隠れていたホルンパートの音が、ヴィブラートがかかっているために表に出てきて、それが天国からの響きのようにも聴こえてきます。 チェコフィルサウンドの顔となり、自信に満ちた得意満面のホルン奏者の姿が眼に浮かんできます!

そして最も感動したのが、最後の最後になって初めて聴く楽譜に逆らったマタチッチの独断の解釈………これはブルックナーの意図を無視した完全に間違った演奏ではありますが………天国に召されていくような景色が見事に表現されています。
これまでこの曲を何種類も聴いていた私には、最後の「決めの音」は弦楽器のピチカートであり、楽譜もそうなっていましたから、それが当たり前でした(写真7)。

写真7   スコア最後のページ PIZZ=ピチカート

ところがこのCDでは、予測していたピチカートではなく、アルコ(弓で弦を弾く普通の奏法のことで、ピチカートに対する言葉)で演奏される絶妙な静けさの弦楽器の和音の響きに、私は息が止まりました……『最後は静かにお祈りをしながら幕が閉じられていく』………ライブ録音のためか、このCDには終演後のしばらくの沈黙のあと、徐々に広がっていく拍手も入っています。 そして私もその場にいるような深い感動を覚えました。

ピチカートで弾(はじ)かれた弦の音というものは、押さえている左手の指と手首を細かく動かすヴィブラートで表情を付けますが、それ以上のことは出来ません。 そして音は減衰してすぐになくなります。 それに対して弓で弾(ひ)く音は、まず右手の弓の使い方でいろいろな表情が付けられ、そこに左手のヴィブラートが加わることで演奏者の気持ちが弦の振動に込められます。 たとえそれが短い音であっても、いろいろな表現は可能です。
この演奏のように、最後の3回のピチカート音が弓(アルコ)で弾かれると、そこに込められた演奏者の気持ちが、四分音符のわずかな短い音であっても、痛いようにこちらには伝わってきます。 魂が天国に向かって登っていくようなホルンの響きが続く中、最後に語りかけるような静かな弦の響きの和音が、お祈りとしてこちらの心にそっと入ってくる素晴らしい表現には本当に感動します。 と同時にこの時私には、マーラーの第9交響曲の最後の場面が浮かんできました。 弦楽器だけになった最後、ステージと客席のホール全体が息を殺して見守る静けさの中、ヴィオラが「ソー、ラー、シー、ラーーー」とこの世に最期の別れを告げるシーン………。
この2つの第9交響曲の最終場面は、アダージョ(ゆるやかにゆっくりと)の静かな終わり方で共通しています。 曲の最後でもあり、あたかも人生の長旅を終えた作曲者の終焉の姿にも感じられてしまいます。

ところでブルックナーは、この交響曲について次の4楽章まで書き進んでいたようですが、残念ながら完成しませんでした。 そしてその楽譜の一部が残っていて、それを加味して無理矢理仕上げた4楽章完成版? の演奏もあるようです。 また、もし完成出来ない時は、ベートーヴェンの第9のように、合唱とオーケストラからなる「テ・デウム」をフィナーレに充ててほしいと弟子に伝えた話も残っています。 しかし3楽章までの未完成な姿に聴き慣れた私には、それらがどうしてもしっくりときません。 音楽評論家の宇野功芳さんも、「この曲の3楽章がスケルツォではなく、アダージョで終わっていて良かった」と述べられていましたが、本当にその通りだと思います。
ご存じのように、ブルックナーの交響曲1番から7番までは、2楽章がアダージョかアンダンテのゆっくりとした音楽、3楽章がスケルツォというリズミカルな音楽で、これは標準的な交響曲のスタイルとなっています。 ところが8番・9番では2楽章と3楽章の扱いが逆になり、2楽章がスケルツォ、3楽章がアダージョとなっています。 未完成で終わる9番は、幸いにもこのアダージョで終わっていることで不滅の名曲となっています。 もし今の2楽章のスケルツォが3楽章にきて、そして未完成の交響曲だったら……果たしてこんなにも愛される音楽になっていたでしょうか………?

ところで
マタチッチにはもう一つのブルックナー9番があります。 これはウィーン交響楽団との演奏(1983年)で評価も高いのですが、聴き比べた私にはチェコフィルのサウンドから逃れることは出来ませんでした(写真8)。

写真8    マタチッチ&ウィーン響CD

 

 

写真1  カラヤンのレコードジャケット

写真2  スコア155小節

写真3  ヴァントのDVD

写真4  ジュリーニのLD

写真5  都響の練習風景

写真6  マタチッチ・チェコフィルのCDジャケット

写真7  スコア最後のページ

写真8  マタチッチ・ウィーン響のCDジャケット