ノブヤンのひとりごと 3(教員1年目の吹奏楽コンクール… )
1976年の4月、千葉県柏市にある某中学校の音楽教師として、私の教員生活はスタートしました。 私の出身は岐阜県岐阜市、そして大学は東京の町田市にありましたから、常磐線沿いにある柏市は全く未知の場所でした。 しかし、自分との関わりが何もない土地だったからこそ、自由に思い切って何でもチャレンジができたのでは? と、今はそれで良かったと思っています。
さて音楽の教師ですから、担当する部活動は当然「吹奏楽部」です。 私自身は吹奏楽の経験はあまり無かったのですが、指揮ができるとなれば、何でもやってやろう! という意気込みはありました。 吹奏楽部の顧問を任された時は喜んで引き受けました。 そしてこの中学校の吹奏楽部は、伝統と実績もあって楽器が揃っており、しかも昨年のコンクールでは、自由曲にヴェルディの「運命の力」序曲を演奏して、県で3位だったという話を聞かされてはびっくりです。
実は2年前の5月29日(1974年、大学3年の時)、NHKホールで聴いたロリン・マゼール指揮、クリーヴランド管弦楽団の演奏会でのアンコールの「運命の力」序曲の感動が記憶としてまだ新しく、そんな曲をコンクールで演奏できることに感心してしまいました。 その時のプログラムを見直してみると、当日の曲目は①ツァラトゥストラはかく語りき(R.シュトラウス) ②二つの映像(バルトーク) ③パリのアメリカ人(ガーシュウィン)でした(写真1)。 1曲目の冒頭では初めて聴くNHKホールのパイプオルガン……静けさの中から響く荘厳な幕開け、そして壮大なクライマックス……!、しかし演奏会が終わってホールを出る時には、たった今聴いたアンコールの「運命の力」序曲のドラマチックな演奏が、頭の中でずっと鳴り響いていました……。
そんな思い出が瞬時に駆けめぐり、もし1年前に教員として採用されていれば、自分が「運命の力」の指揮をやっていたかもしれないのに……残念、と少し落胆しました。 そして「今年のコンクールでは何の曲をやるの?」と3年生の部長に聞いたところ、「ショスタコーヴィチの交響曲第5番の4楽章です」という答えに、「ええーっ??!!」と、今度は喜びの驚きに変わりました。
なぜならば、このショスタコーヴィチ(ショスタコ)の交響曲第5番には、いろいろな思い出があったからです。いつも聴いていたのはキリル・コンドラシン指揮モスクワフィルハーモニーのレコードで、特に4楽章のラストの場面は、自分が疲れたり落ち込んだりした時のカンフル剤となって、自分を奮い立たせてくれました(写真2)。
そして4年前の1972年5月9日(大学1年の時)、私はゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮、国立モスクワ放送交響楽団による東京文化会館での演奏会で、初めての(生)ショスタコ5番を聴きました(写真3)。 堂々たるロシアンスタイルの演奏で客席は沸きに沸き、なおかつアンコールでは指揮者自身が日本語で「タイボルトの死!」と客席に叫んで始めたプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」、ここではさらなる圧巻のテクニックと金管のパワーを見せつけて、ボリショイサーカスのアクロバットさながら、当時のソビエト連邦が誇る芸術分野の「凄さ」に圧倒されました。
さらに翌年の1973年(大学2年の時)、伝説のムラヴィンスキーとレニングラードフィルの来日がありましたが、さすがにチケットは手に入りません。 しかし、ショスタコの5番をどうしても聴きたかった私は、5月26日(Altusで発売されたCDがまさにこの日)、東京文化会館の楽屋口から客席に紛れ込む作戦に出ました。 この日の大学の授業はもちろんサボタージュ、友だちから借りたトランペットのケースと、楽譜入れに見えるバッグを持って、朝の9時頃から国鉄上野駅の公園口の改札を出た所でまず一息、そこから見える楽屋口に頃合いを見計らって、まるで音楽関係者のごとく「おはようございます!」と言って入っていきました。 まだまだ警備がゆるい時代でした。 1階から下に降りる階段を降り、地階にある楽屋やステージにつながる通路横のトイレの個室に入って、あとはひたすら時間が来るまで待つ作戦です。
この日の開演は19時ですから、これからが長い長い沈黙の時間となりました。 ここでジッと潜んでいるとき「トイレは我慢!」という心配は全くいりません! なぜならいつでもできるからです……しかし……白い壁に囲まれた狭い空間に自分一人……隣の個室に人が入ってきた時はドキドキしながら息を殺し、トイレットペーパーのガラガラ音が妙に響き渡ります……自分のオシッコの時は、周りに気づかれないようにチョロ・チョロと静かにゆっくり時間をかけ(別に悪いことはしていないが完全に逃亡犯の心境!)……瞑想し、無我の境地になると、授業料と仕送りをしてくれている両親の顔が浮かびます……そして自問自答……それでもショスタコの5番が聴けるぞ!という望みが、唯一の心のよりどころとなって、拷問のような時間に耐えていました…………。
ようやくざわつきの気配が感じられ、19時が少しずつ迫ってきた頃に意を決し、たった今、用をたしたかのようなスッキリとした顔つきでゆっくりとトイレから出ます。久しぶりに見る俗世間、宇宙から帰還した宇宙飛行士の気持ちはこんなもんか? と、関係者の人混みから客席につながる通路に行こうとした時、両手を広げた係員が私にストップをかけました。「あなた!何の用事ですか?」それに対する私は「あの〜…、その〜……」としか言えず、あえなくその場から退散…『俺の今までの時間は何だったんだ?!』…。
泣く泣く正規のルートで普通にロビーに入り、大ホール用のチケットのもぎりをする所に立っては、外に漏れ出る音を聴くだけでした。 しかし、ショスタコが始まって聴こえてくる金管の音量の凄まじいパワー、それを超える終わった時に湧き上がった拍手と歓声の音!音!音!、それはこの場所にいてもトリハダものでした。 自分にとってはかけがえのない体験となった長い一日、最後はプログラムを買い求めて帰路につきましました(写真4)。
その曲の指揮ができるのです!!夢のような話です!!!
吹奏楽のことはあまり知らないまま、頭の中ではロシアンスタイルのエンディングで、かっこよく決めることばかり考え、音楽にかける熱量は誰にも負けないつもりで中学生に立ち向かい、夏休みの練習は更にヒートアップして無我夢中でした……。
残念ながら、コンクールではビリから数えた方が早い結果に終わり、翌日行われた反省会での3年生一人ひとりからの言葉に、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになって、大泣きしてしまいました。 今となっては懐かしい教員1年目、初コンクールの思い出です。
ちなみにその時の部長だったM君は、現在NHK交響楽団でファゴットを吹いており、副部長であったK君は、私と同じ柏市の中学校の音楽の教師から、現在教頭になっています。 今年度、新規採用教員の指導員として、私が非常勤で勤める中学校の教頭が、実はそのK君です! 職員室では私の机が教頭の真ん前に位置しており、昔の思い出話で大いに盛り上がろうとした矢先、新型コロナで学校は休みとなりました。 本当に寂しい限りですが、昔の教え子と同じ学校で働けることに、これはこれで愉快なことになりそうです。……が、はたして学校の再開はいつになるのやら………。