モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第35番ト長調 K.379
あと千回のクラシック音盤リスニング(17)
〜 耳漱ぎ用のアマデウスのヴァイオリン・ソナタK379 〜
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第35番ト長調 K.379
オーギュスタン・デュメイ(Vn)、マリア・ジョアン・ピレシュ(Pf)
(DG 431771-2)
私は音楽に対する感性が鈍ってきたなあと感じた時、「垢すり」と称して、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴きまくる。とくにマーラーやブルックナーのような肥大型オーケストレーションを聞き飽きた時にこれを試みる。そんな折、アマデウスの音楽は「そんなに大きな音を出さなくてもいいんだよ」とそっと教えてくれているようだ。そもそも「神は細部に宿る」というではないか。
それで、アマデウスの数あるヴァイオリン・ソナタで特に有名なのはK378の変ロ長調、そしてホ短調のK304であろう。K378は調性からして艶めかしい。季節感として桜から新緑の季節がぴったしの音楽である。後者は大傑作、私は「最期の33盤」の中で採り上げているほどである。ヴァイオリニストの中にもこの曲を大傑作と選ぶ人は多い。
私はこの2曲を、クララ・ハスキルの「静かな緊張感、静かな勁さ」とアルテュール・グリュミオーの美音のコンビでこれまで聴いてきた。私にとってこのディスクは永久保存盤ではあるのだが、学生時代からのお付き合いなので、少し聴き飽きたかなという面は否めない。
そこで、今回、我がコレクションの中から結構な数のCDやLPを聴き直してみた。そして、お宝になりそうな1枚を見出したのである。それがデュメイとピレシュ、いやピレシュとデュメイと表記すべきであろう、二人によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集である。
この演奏、明らかに主役はピレシュに違いない。ヴァイオリン・ソナタと称されはするものの、当時の様式に従えば、「ヴァイオリン伴奏付きのピアノ・ソナタ」の形で作られているのである。
さらに、知名度と言うか、芸格と言うか、いずれにしてもピレシュが優勢なのは明らかであろう。とはいうものの、デュメイも負けてはいなさそうである。
二人は一時期、私生活でもパートナーであったらしい。こんな繊細な神経を持った小柄の、気が強そうな女性と気難しそうな男、私生活であれば二つの強烈な個性で日常生活はつらかろう。余計なお世話の話に移ってしまった。余計なお節介ではあるのだが、カップルと言うのは「ボケとツッコミ」の組み合わせがよろしかろう。いや、そうではなく、理想はやはり「似た者夫婦」か。バイオリズムが合うというのは大切だ。例えばアルゲリッチとベロフ、朝方のベロフ、対して不良気味の夜型のアルゲリッチ、結局の破局。他にも理由はいろいろあるのだろうが。
CDに戻って、たった1枚に終わってしまったピレシュとデュメイによるアマデウスのヴァイオリン・ソナタ集、所収されているのはK301、K304、K378及びK379である。私が神盤扱いにしているハスキル、グリュミオー盤と3曲は共通している。そして、K379のみがこのコンビ独自の選択である。
ハスキルとグリュミオーは神盤以外にもう1枚、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを録音している、K454とK526である。しかし、もっと録音してほしかった。
グリュミオーはさらにワルター・クリーンと全集に近い形で再録音している。
フランコ=ベルギー派の正道を歩いたグリュミオー、そのナイーブな美音は素晴らしい。私は角ばったバッハが嫌いなので、バッハの無伴奏も一番取り出す回数が多いのはグリュミオー盤である。そしてそのグリュミオーの数少ない弟子のひとりがデュメイなのである。師直伝の解釈を有するデュメイとモーツァルトのスペシャリスト・ピレシュは侃々諤々の議論とトライアルを重ねたのち、録音に臨んだに違いない。その結果がこの揺ぎ無い演奏となったのだ。録音が1枚で終わったのはまことに残念だが、1枚が限度だったのかもしれない。
今回、私が驚いたのは件の、K379のト長調のソナタである。素晴らしいソナタである。この分野の録音はハスキル、グリュミオーを基盤としていたので、私はこのK379の素晴らしさに気づかなかったのである。
マンハイム・パリ旅行で就職活動に失敗、その上、母親を亡くしたアマデウスはザルツブルグに戻り、大司教と大喧嘩してウィーンで独立した音楽家となった。そして収入源を確保しなければならなくなった彼はヴァイオリン・ソナタを6曲セットで出版した。
その中の1曲がこのK379である。まことにユニークなヴァイオリン・ソナタである。あのハイドンの紋切り型のソナタ・フォームではなく、もう形も中身もロマン派の音楽となっているような印象を与える。何か新しいことをやろうとする野心、その背景としてコロレド大司教との対峙から来る大きなストレスがあったに違いない。
そもそも第一楽章、全体はパリ風に二楽章形式をとっているにもかかわらず、独立した楽章とも言えるような序奏を有し、ト長調と言いながら、ト短調アレグロの主部が続く。あのアマデウス特有のト短調なのである。いや、それ以上に第二楽章、部分的にはもうショパンみたいな音楽になっている。
似たような経験をしたことがある。1998年のエディンバラ音楽祭、アンドラーシュ・シフがリヒテルの真似をし、会場を暗くしてバッハの平均律第二巻を演奏した。隣の席にはベルナルト・ハイティンクが座っていた。そして、そのリサイタルの最後に演奏された、へ短調の前奏曲とフーガBWV881。バッハなので幾何学的構造をしてはいるが、それを取り払えば、これまたショパンでもおかしくない作品となっている。そのように感じたのである。
K379に戻って、この怪しげなフォーム、それでもこんな傑作にしてしまうアマデウスの才能に驚かざるを得ない。とくに第二楽章が素晴らしい。
ピレシュはモーツァルトのピアノ・ソナタ全集を2回録音している。第1回目は彼女のボーイッシュな姿が印象に残るジャケットとフレッシュな表情の演奏が特徴のDENON録音、私はマニラのレコード・ショップで日本語のパッケージ、値段が3,700円という高級CD(もっとも新品ではあるものの現地の価格でずっと安い)を最初に購入し、帰国後何枚かを追加で買った。二度目のDGでの全集は病を克服しての一皮むけたピレシュで、深く、スケールの大きな演奏で素晴らしい。
ところが、ピレシュとデュメイによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタの録音は上記したように、この1枚のCDで終わってしまった。惜しいことである。二人の拮抗関係でのバランスが崩れたに違いない。
モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの演奏は多様性に富む。リリー・クラウスのお相手はヴィリー・ボスコフスキーであった。ちょっと緩いボスコフスキーならではのよいコンビだったようだ。そもそもウィーン・フィルのコンマスは鬱病になるのが当たり前だったらしい。その難しいオケのコンマスをあんなに長い間勤めたのだから、繊細な神経ではもたないであろう。おまけに指揮まで始めたのだからスーパー・コンマスとでも称したいくらいである。しかし、そのキャラは逆の作用をしたようだ。ヴィルヘルム・バックハウスをソロとしてシューマンのコンチェルトの録音の折、ギュンター・ヴァントの「冒頭の付点音符はきちんと」という要求に「お若いの、我々はそういう重箱の隅をつつくようなことは好きじゃない」とやり、以後厳格な指揮者とこのオケは決裂した。これまた惜しまれることである。私はヴァント&BPOのブルックナー第九の録音は大変な名演奏だとは思うが、正直ミュンヘン・フィルとのライブの方が好みである。ウィーン・フィルとであればさらに柔らかく、融通無碍のサウンドが生まれていたに違いない。バトルになったかもしれないが、聴いてみたかった。コンマスもヘッツエルであればどんな要求にも対応可能であったはずである。
再び、アマデウスのヴァイオリン・ソナタに戻って、グリュミオーはワルター・クリーンとほとんどの作品を再録音している。恰幅がよくなって、どれも名演奏には違いないが、予想範囲内のモーツァルトになってはいないだろうか。
そういう意味でピレシュとデュメイによるK379は恰幅もよくはあるが、スパイスも効いていて、たった4曲で終わったのが再び惜しまれる。デュメイの美音過ぎない美しい響き、ピレシュのスケールが大きく、でもセンス抜群のピアノ、二人の掛け合い。名演!もう一つ、録音の素晴らしさも付け加えたい。