バイロイトとブルックナー
ワグネリアンのアントン・ブルックナーは1873年夏、「交響曲第2番」と作曲中の「第3番」の楽譜を持ってバイロイト(Bayreuth)に出向く。 この時、ワーグナーから直接「第3番」の献呈受け入れ承諾をもらった彼自身の感激は計り知れない。 当時「祝祭劇場」(写真1 2002年筆者撮影)はまだ建設中であった。 その後彼は1882年夏にバイロイトを訪れ新作「パルジファル」の初演を「祝祭劇場」で(ヘルマン・レヴィ指揮1882年7月26日)で鑑賞している。 この時が彼のワーグナーとの面会の最後となったがワーグナー没後もいわゆる「バイロイト詣で」は続けたようである。 彼にとってこの地は「聖地」となったと云っても過言ではなそうだ。
また「バイロイト」はかの「フランツ・リスト」の終焉の地である。 1886年夏、リストは重い病を背負いながら「バイロイト音楽祭」に出向き「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞後、心筋梗塞でこの世を去った。 彼はこのバイロイトの墓地に眠る。 さらにリストのレクイエムの儀が行われた「シュロス教会」で音楽祭に訪れていたブルックナーが「パルジファル」の旋律をオルガンで弾くというエピソードも残されている。 教会の壁にそのレリーフが掲げられている(写真2 シュロス教会/ 写真3 壁に掲げられた「レリーフ」/ 写真4 レリーフの拡大写真、以上2002年9月筆者撮影)。 また(写真5~8)は筆者が当時求めた「2002年バイロイト音楽祭初日記念カバースタンプ」の「ラインの黄金」・「ワルキューレ」・「ニュルンベルクのマイスタージンガー」それに「バイロイト音楽祭2002」初日のカバースタンプである。