ハイドン:交響曲第95番ハ短調

後千回のクラシック音盤リスニング(22)


ハイドン:交響曲第95番ハ短調Hob. I:95

 

〜 定食屋さんのアジフライ定食の美味しさか 〜

ハイドン:交響曲第95、96番「奇蹟」、98番、102番、103番「太鼓連打」、104番「ロンドン」

 

コリン・デイヴィス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
CD: PHILIPS 442 611-2
(輸入盤)

最近、テレマンとかヘンデル、あるいはハイドンとか、多作家の作品というのは定食屋のメニューのような気がしてならない。
アジフライ定食だけでなく、豚の生姜焼き定食、刺身定食、定食屋の定番メニューなのであるが、今日はどれにしようかと思うほどコンスタントに美味である。とは言いながら、同じ生姜焼ながら結構な差がある。まず素材の豚肉、脂の混じり具合、タレの味、焼き加減、こんな定食にしても、ここはこれみたいな差が生じる。
でも何かのオケージョン、今日は奮発するぞというような折、定食を選ぶ人はいないであろう。
定食とスペシャル・オケージョンでのグルメ志向の料理、ハイドンは前者で後者はモーツアルトであろうか。
いや、モーツアルトも、それに大バッハも多作家である。しかし、溢れ出たような才能にしろ、あるいは刻み込むような形にしても、出来上がった一つの作品には永遠ともいうべき魅力が刻印されている。
片やハイドンは交響曲を104曲も作曲した。どれも悪くはないが、いずれも心中したいと思うような交響曲は皆無であろう。後期のザロモン・セット、どれも傑作には違いないが、序奏を聴いて、これは何番というアイデンティティーに乏しい。また、付けられたタイトルが芳しくない。パリ交響曲を含めると、曰く、82番「熊」、83番「雌鳥」、88番「V字」、第92番「オックスフォード」、94番「驚愕」、96番「奇蹟」、100番「軍隊」、101番「時計」、103番「太鼓連打」、そして最後の傑作104番が「ロンドン」である。どれもいい加減に付けられたタイトルで、文学的ファンタジーを喚び起すようなタイトルではない。
「V字」に至っては出版社フォースター社でハイドンの交響曲選集の出版の際、あてがわれた整理番号が「V」で、それが残ったみたいな。
しかし、この交響曲はタイトルが付いたおかげか、結構な人気曲で指揮者でもワルター、フルトヴェングラー、アーベントロート、クラウス、ヨッフム、クナッパーツブッシュ、ベーム、バーンスタインとお歴々が録音している。中でもクナーパーツブッシュの十八番だった。例によって超個性的な凄演である。
第94番「驚愕」も超人気曲である。録音が残っている指揮者の中にはフルトヴェングラーやカルロス・クライバーのような芸術家的指揮者まで含まれているのは正直不思議だなあ、といつも感じる。
ワルターの選択(正規録音)は第88番、96番、100番及び102番であるが、ウィーン・フィルを振ってのSP録音、米国に渡ってからもニューヨーク・フィルと最初に録音しているので96番「奇蹟」がフェイヴァリット・ピースであったのは間違いないだろう。
カラヤンはコンサートでは最後の104番が圧倒的に多く、他はちょぼちょぼである。ハイドンはコンサートに入れても盛り上がらないと計算したか。商品としての録音では「パリ交響曲」セットも「ロンドン交響曲」も、さらに散発でDECCAにもEMIにも録音はしているが。
バーンスタインはハイドンとの相性は抜群でニューヨーク・フィル時代、パリ交響曲全曲、ロンドン交響曲12曲を録音、さらに後年ウィーン・フィルと88番、92、94番及び102番を録音している。ニューヨーク・フィルとの録音で92番「オックスフォード」が欠けていて、惜しい。その「オックスフォード」は苦手な訳でもなく、上記したように、後年ウィーン・フィルと録音していて、素晴らしい演奏である。
私のCD棚にはクレンペラーによる荘重な演奏の選集も並んでいる。
かようにハイドンの交響曲は人気があり、大指揮者もそれぞれの味付けでハイドンの交響曲を指揮し、録音もしてきた。その恩恵を蒙っていることは明白で、それを認めるにやぶさかではない。
どれも聴いて楽しいし、魅力的である。しかし、それらの中でこれはという決定打がないというのは、ハイドンの交響曲の個性によるのかなという気がしている。ハイドン全体でもそうで、聳え立つ傑作がない。ヘンデルはどういう訳か「メサイア」という不滅の決定打を創っている。
ところで、私が最近取り出す回数が多いCDがある。それが今回ご紹介するコリン・デイヴィス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による「ロンドン交響曲」セットの第一巻である。2枚組のCDに6曲の交響曲が入っていて、どれも素晴らしい。
中で私なりに愛している交響曲がある。それが今回の標題の交響曲第95番ハ短調である。
私は実際のコンサートでハイドンの交響曲を聴いた経験は極めて少ない。しかし、中で飛び切りの経験が2回ある。一つは我が青春の「ヨーロッパ音楽無宿」でのウィーン・フィルハーモニー定期演奏会でのこの交響曲第95番体験なのである。
これは我が生涯唯一のウィーン・フィル定期演奏会体験であることはこのコラムでも既に述べた。
そう、そのコンサートは最初がラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」、メイン・プロがストラヴィンスキー「春の祭典」で、この間に組まれたのがハイドン交響曲第95番であった。
すでに九州で2回ウィーン・フィルハーモニーのコンサートを体験していたが、ウィーン・フィルハーモニーがウイーン・フィルハーモニーであることを実感できたのはこのコンサート、しかもこのハイドンであった。ウィーン・フィルのコンサーヴァティブな様式やサウンドにマゼールの才気煥発さが加わった素晴らしいパーフォーマンスであった。それに加えて、ムジークフェライン大ホールの素晴らしいアコースティック。今でも第三楽章のメヌエットの衣擦れのような優雅な弦の響きや、驚きのチェロ独奏(シャイヴァイン?)が蘇ってくる。
この第95番はパリ交響曲、ロンドン交響曲全18曲を通じて、唯一の短調の作品である。しかもハ短調である。ハ短調であるならば、もっと抜き差しならぬ何かが表現されてもと思うのであるが、ここがハイドンのハイドンたる所以であろう。
コンサートでの、もう一つのハイドンの交響曲体験は滞米時にジュリーニがロサンゼルス・フィルを率いて、ウイスコンシン州マディソンに来演した折の悠然とした、スケールの大きな第94番「驚愕」である。これもよかった。
しかしである、我々が交響曲に求めるものはもっと大きな、もっと深い世界であろう。
私が今というか、かなり前から交響曲の大きさや深さをリアルに感じるのはブルックナーの最後の交響曲第九番である。あの不器用な、優柔不断のブルックナーの未完に終わってしまった最後の交響曲。その第一楽章の終結部に向かうところ、何度聴いても異常な興奮と感動を覚えるのである。
さて、ハイドンの95番に戻って、コリン・デイヴィスという指揮者、素晴らしい。最近、再評価されてしかるべき指揮者の中で筆頭に挙げるべきとでも言おうか。再評価と言うのもおこがましいくらいの大指揮者ではある。英国でのロンドン交響楽団の首席指揮者やロイヤル・コヴェントガーデン歌劇場の首席、ドイツでもバイエルン放送交響楽団のシェフを勤め、1977年にはバイロイト音楽祭にも登場、それからドレスデン国立管弦楽団の名誉指揮者も勤めている。米国でもボストン交響楽団の首席客演指揮者やメトロポリタン歌劇場でも高評価などなど。
レコードだって、得意のベルリオーズやシベリウスの数々の名盤、「春の祭典」もトップに選ぶ人が結構いる。私自身は若きデイヴィスの「モーツアルト名曲集」をLP時代からずっと愛聴してきた。
しかし、我が国ではどうしてこんなに人気がないのであろうか。これは英国人指揮者に対する我が国での偏見みたいなものかもしれない。ドイツを中心とする本場もの崇拝主義みたいな。英国はビーチャム、サージェント、ボールト、バルビローリと数多くの名指揮者を輩出してはいる。でも英国人の「中庸」や「紳士的」と言ったイメージもあって、強烈な個性に欠けるのか、人気と言う面ではどうも今一歩の感は否めない。サイモン・ラトルだって、ベルリン・フィルの首席まで昇りつめたのに、我が国での人気はどうだろうか。
演奏側はともかく、ハイドンの交響曲は古楽系はじめチャレンジしがいのある、とても魅力的な交響曲群であるようだ。
結論として、作品数と各作品の密度の積は一定であるような、アイデアが頭に浮かぶ。その代表がハイドンではないだろうか。例外は当然あって、その代表がモーツアルトと大バッハであろうか。
しかし、何はともあれハイドンは音楽史上の貢献に加え、佳曲を量産し、人柄も「パパ・ハイドン」と呼ばれるように素晴らしい人格であったようだ。
そのハイドンの交響曲は楽興に溢れたチャーミングな作品群である。私も興に乗って、ワイルド・ターキーのハイボールで一杯やりながら、タクトを振り回したくなる。そして、次にアンドレ・プレヴィンがウイーン・フィルを振った「オックスフォード」と「奇蹟」のCDをかけたくなる。
それにしても、CD棚を探してみると、このデイヴィス&ロイヤル・コンセルトヘボウのCD、第1集のみで第2集は購入に至っていない。LP棚では第100番&104番の組み合わせがある。しかし、これもこの1枚で終わっている。ここがハイドンであり、またデイヴィスたる所以のような気がしてならない。