シューマン:交響曲第二番ハ長調

あと千回のクラシック音盤リスニング(3) 

-バーンスタイン偏愛のシューマンのシンフォニー―

シューマン:交響曲第二番ハ長調Op.61

レナード=バーンスタイン指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団DG 419 190-2) 

シューマンの交響曲と云えば第四番、学生時代からずっとそうだった。 これはフルトヴェングラーの神盤に由来している。

学生時代、FM で聴いた指揮者・近衛秀麿とNHKの後藤美代子アナウンサーの「音楽夜話」。これが基点となっている。 シューマンの第四におけるフルトヴェングラーの指揮の魅力を指揮者が回想するように語り、後藤アナウンサーの知的で品のある語り口が加わって、しばらくは語学テープにエアチェックしたカセット・テープを毎晩のように聴いていた。

この魅力的な第四交響曲はニ短調作品121である。 「ロマンティック」と云えばブルックナーの第四交響曲であるが、私にとっての「ロマンティック」交響曲はこのシューマンの第四である。 この作品は職人指揮者には歯が立たないと確信する。 カラヤンでもだめである。 映像版が存在するのだが、カラヤンがオケ(ウイーン交響楽団)に対して、そんな機械的なフォルテではなくて、と説明しても、この作品の悲劇的で夢見るような表情は生まれないであろう。 神様が指揮台上に立っていなければならないのである。

まあ、それは以前書いたことでもあるので、今回は交響曲第二番を取り上げたい。

シューマンの交響曲はご存知のように四つある。第一番は「春」、第三番は「ライン」と表題が付いているので結構人気があり、レコードの数も多かった。 中で一番目立たないのがこの第二番ではないだろうか。

録音でも、我々の世代では「春」はフルトヴェングラー指揮ウイーン・フィルのミュンヘン・ライブ盤で親しんだ方が多いのではないか。 これは廉価盤で出ていたためである。 私にとっても長い間、愛聴盤であった。 「ライン」の方はワルター=ニューヨーク・フィルによるモノーラル録音盤を愛聴していた。 第四番は上記のフルトヴェングラー盤が神盤とも云える存在であった。

ところが、第二交響曲はずっと空白状態であった。 食わず嫌いである。

まず、主調がハ長調、これがいけない。 若かりし頃は一応モーツァールティアンだったため、交響曲で行くと最後の「ジュピター」の第一楽章がアマデウスの最後の交響曲にしては不出来とずっと思ってきた。 ピアノ協奏曲もハ長調の21番(第二楽章は別として)と25番、どちらも馴染めなかった。 楽器でいうと、フルートみたいで光沢がありすぎて、翳が生み出せない調性、その先入観が根本にあった。

「読む音楽」も大事にしている筆者はこの第二交響曲讃みたいな文章に出逢ったことがなかった。

なので、クレンペラーとサヴァリッシュによるシューマンの交響曲全集は二つ手にしていたのに、第二番は聞き込みもしないで、邪魔者扱いにしていたのである。

ところが一転して、この第二交響曲は今や私の愛聴曲のひとつになっている。 自分でも不思議である。

そのコペルニクス的転回となったきっかけはミレニアム・イヤーのFMでの特別番組であった。 突然、素晴らしいアダージョが流れてきた、あれ誰の作品だっけ、すぐさまシューベルトとマーラーの間、しかし頭を巡らせてはみたものの、答が出てこない。

数分してもしやこれでは、と取り出した1枚のCD。 正解であった。 それはシューマンの交響曲第二番とチェロ協奏曲が組み合わさったもので、チェロ独奏がマイスキー、オケはバーンスタイン指揮ウイーン・フィルによるDG盤。 静岡駅の地下で珍しくもDGの輸入CDのバーゲン・セール(新品)をやっており、慌てて購入した何枚かのうちの1枚であった。 このCDは面白いことに交響曲の方が先に入っていて、チェロ協奏曲は後、つまりメインの扱いなのである。

それで、時折最初から聞いていて、聞くには聞いていたのだろうけれども、ほとんど印象に残っていなかったのである。 因みにこの番組の案内役は武満真樹氏であった。

いや、素晴らしい曲である。 第一楽章の長めの序奏から、トランペットによる跳躍動機、第一主題への飛び込み、シューマンらしくもない軽快な動機の反復、バーンスタインはPMFでのリハーサルで早くも「さあ、狂って来たぞう」と叫ぶ。面白い展開である。

第二楽章のスケルツォの音の動きがとても面白い。 この反復と目まぐるしい展開を聴いていると、やはり「狂気」みたいなものを感じる。

第一楽章の序奏から主題への移行と、この第二楽章のスケルツォ、前者ではフルトヴェングラーの処理を、後者ではカルロスの方のクライバーの狂気に迫る追い込みを夢想してしまう。

ところがフルトヴェングラーにとってのシューマンの交響曲は第四に尽きる、次いで「春」の交響曲なのであって、第二は全くお気に召さない存在であった。 生涯7回、第四の103 回に比べてあまりにも少なすぎる。 アマデウスのピアノ協奏曲でハ短調K491を1回も取り上げていないのと同様、彼のレパートリーの七不思議の一つである。

第三楽章は上記したように素晴らしいアダージョ・エスプレッシーボで、フルトヴェングラーであれば正に神々しいアダージョとなりそうなものであるが。

この作品はシューマンのライプチッヒ時代 幻覚や耳鳴りに悩まされながら、時間をかけて書き上げた作品である。

私はこの作曲家のヴァイオリン・ソナタ第二番第三楽章「ドルチェ・センプリーチェ」の孤独感の極みのような変奏を偏愛している。 音楽の表現で、ここまでの孤独感を表現できた例は少ないのではないだろうか、と書いてしまったが、この作品は交響曲なので、もっとスケールの大きな世界が描かれている。 悲劇的な、あるいは孤独感を表出したものではなく、神々しいというか、宗教的な雰囲気に溢れている。

そして、フィナーレ、躍動的な展開やコーダでの壮麗な締めはバーンスタインにぴったしの音楽である。

そう、この第二番はバーンスタインの偏愛の作品でもある。 録音でもニューヨーク・スタジアム交響楽団に始まり、ニューヨーク・フィル、バイエルン放送響、ウイーン・フィル、さらに映像でもウイーン・フィルとの全集、そしてPMFでのリハーサルと本番の映像が残されている。

またこの作品は師であるミトロプーロス直伝の演奏でもある。

この交響曲は多くの指揮者にとっても大切な作品のようでシノーポリはドレスデン・シュタッツカペレとの全集の前にウイーン・フィルとの素晴らしい名盤を録音している。

セルは晩年(1969年)にベルリン・フィル定期演奏会で取り上げ、その録音はCD化されている(TESTAMNT SBT 1378)。

アバドはこの第二番の素晴らしい演奏をクーベリックの指揮で聴いたと語っていたが、晩年ついに自ら指揮して録音した。 モーツアルト管とのライブが商品化されたが、私はベルリン・フィルの方を選んでほしかった。

そのCDとなった録音は2012年11月、ウィーン、ムジークフェラインで行われた「アバド80歳記念コンサート」のライブ録音である。 80歳になって初めてシューマンの交響曲を指揮、「慎重居士」と言われた彼らしい取り組みである。 しかもこれは全集の第一弾であったらしい。 残念ながらアバドの逝去により、他の3曲は未完に終わってしまったが、他の3曲はどんな演奏になっていただろう。

フルトヴェングラーは振らなかったが、バーンスタインの数々の名演で満足満足、そういう交響曲というのが我が結論である。