マイ・ニューイヤーズ・ミュージック2024

あと千回のクラシック音盤リスニング(12)

バッハ:無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調 BWV1013

バッハ:無伴奏チェロ組曲第1—6番 BWV1007-1012

モーツアルト:フルートとハープのための協奏曲ハ長調K299

〜 マイ・ニューイヤーズ・ミュージック2024、
        フルートとチェロの3点盛り 〜


①バッハ:無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調 BWV1013

  (フルート独奏)オーレル・ニコレ(Archiv 427 113-2)

②バッハ:無伴奏チェロ組曲第1—6番 BWV1007-1012

  (チェロ独奏)ピエール・フルニエ(Archiv 449 711-2)

③モーツアルト:フルートとハープのための協奏曲ハ長調K299

  トリップ(Fl)、イエリネック(Hp)
  カール・ミュンヒンガー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
  (LONDON SLC 6005)

 

元旦はお屠蘇に次いでおせち料理で正月酒をいただく。そして、飲みすぎないうちに二階の書斎に上がり、年始めに聴くCDを取り出す。
いつの頃からか、ずっとそのバッハの無伴奏フルートのためのパルティータイ短調である。素晴らしい曲である。
タンノイのスターリングTWWが朝日を浴びながら待ち受けている。アンプの電源は起きるとすぐに入れてある。ここ10年来、ラックスの真空管プリとQuad 606の組み合わせで鳴らす。

バッハの無伴奏フルートのためのパルティータ、LPの時代にはランパル盤であったが、CDの時代に変わってからはニコレ盤に代わっている。
思い込みも当然あるだろうが、スイス人という、その冷ややかな響きが何かこう元旦のきりっとした空気にぴったしだし、正月という、このオケージョンによく合っている。また、フルトヴェングラーに請われてベルリン・フィルのフルートの主席をやり、さらにフルトヴェングラーの最高の録音はシューマンの第四番という人なので、今ではフルートのこの最高の傑作にふさわしいディスクはニコレ盤しかないと信ずる。
この無伴奏パルティータはバッハもフルートも苦手だと言ってきた私でも最高の名曲だと思う。とりわけ第三楽章のアルマンドの気高く、深い響き。しかも、全体でも、たった12、13分の曲なのである。
この曲との出会いもはっきりと記憶にある。研究公務員としてスタートを切ったのが福山だった。そして、翌年結婚、当時は高度成長期の後半とは言っても、公務員の住宅事情は厳しかった。宿舎は家賃は安かったものの、九坪官舎と呼ばれる木造の二軒長屋、風呂は五右衛門風呂であった。
それは、我が家もまだ長女が生まれて間もない頃であった。近くに小さな喫茶店が開店した。日曜日の朝、家族三人でその喫茶店に入った。まあ、ささやかな贅沢ともいうべき時だった。
今でも覚えているが、プレーヤーとかアンプの記憶はないものの、スピーカーはローディHS500が壁の棚に乗せてあった。そのスピーカーから流れている、渓谷の清流を思わせるような清々しいフルートの響き。とっさに、若い店主に問うてみた、「今流れているのはバッハの無伴奏ではないでしょうか」。そう、確信があったのである。どんな曲だろうかと、思い巡らせていたのだ。まだレコードを簡単に買える時代ではなかった。壁に架かっているローディにしても高級スピーカーで10万円弱の値段だったと思う。
そして、店主の答は、まさに「そうです、バッハの無伴奏パルティータです。好きなんですよ、この曲」であった。
ほどなくして、私はようやくこの曲のレコードを手に入れた。そのレコードはランパル盤で、バッハのフルート・ソナタ全集のエラート盤が、2枚組の廉価版で出た時であった。そしてその後、ランパルの再録音の演奏をCDでも購入し、そのランパル盤に満足していた。
なのに、どういう訳かニコレ盤を加えたのである。ランパル盤の華やかさみたいな艶を抑えた、できるだけ楷書体の演奏を求めた結果かもしれない。ニコレ盤はレーベルもArchivというのがこの作品の性格と合っていて、より厳かな雰囲気がありそうだった。
上に書いたフルートの重力の不足感とか、きらびやかすぎる響きとかを少しでも自分が求める方向にシフトした演奏を求めたのであろうか。今ではニコレの録音のLPまで中古で手に入れ、さらに満足している。それに元旦には儀式のような作業が加わるアナログ・ディスクの方が雰囲気としても合っている。さらに、このレコードはリヒターがチェンバロを弾いている「バッハ:フルート・ソナタ集」の最後に置かれている。リヒターからインスパイアーされたに違いない、きっと。後の再録ではその霊感が消えているような気がする。
それはそれとして、自分でもなぜにこれが正月用の音楽としてこんなに思い入れがあるのか分らない。ただ、一つの理由は「春の海」から来ていることは確かである。小学校時代から「春の海」はお正月の音楽であった。この琴の音に乗った尺八の音、これから宮城道夫の音楽に興味を持ち、かっては箱に入った彼の全集を買い込んだりした。また、それよりずっと前にルネ・シュメーというフランスの女性ヴァイオリニストと宮城道夫の協演盤、確か17cmのEP盤を聴いていたような気がする。

次いで、今年はバッハの無伴奏チェロ組曲全曲である。私にとってこの作品のお気に入りはフルニエ盤である、Archivの方の。
もちろん世評高いカザルス盤はCDはもちろん、カートンボックスに入ったGR盤2枚組も所有している。ロストロポーヴィッチも全曲の映像盤や短調の第二と第五番の組み合わせのLP(ソ連時代のLP)もある。トルトウリエとビルスマもそれぞれ新旧両方と揃っている。しかし何故かフルニエなのである。
まず録音が素晴らしい。Archivなので録音など二の次なのかもしれないが、チェロのプリンス、フルニエの高貴なチェロの響きが生々しく再現される。この生々しくが大きなポイントである。タンノイStirlingからふくよかな、でも力強いチェロの音が溢れ出る。朗々としたチェロの響きに酔ってしまうほど。
チェロ一挺で全宇宙を描き出すような大バッハ。「このおっさんには敵わんでー」というのが、私の「バッハ苦手」の理由の一つに違いない。一気に第一番から第六番までを通しで聴いてしまう。どれも傑作、甲乙つけがたい。敢えて一曲選ぶとすると短調好きの私は第五番を選ぼうか。

今年の3枚目はモーツアルトの名曲「フルートとハープのための協奏曲ハ長調K299」である。これも「春の海」オリジンかもしれない。
この作品はアマデウスが1778年3月、パリでド・ギーヌ侯爵と侯爵令嬢のために作曲した作品である。双方ともフル-トとハープを巧みに奏でたらしいのだが、言ってみれば「アマチユア」奏者なのである。なのであるが、素人のための音楽といえども、こんな傑作が生まれるのだからモーツアルトの凄さを再認識する。
さらに、フルート、おまけにアマデウスのハ長調、避けたいはずなのに魅せられてしまう不思議さ。アマデウスの魅力が飛び散るような名曲である。
ただ、私がアマデウスの音楽に魅かれる最大のもの、それは転調で、とくにさっと影が差すような短調への見事な転調、そのパーツが少なすぎる気がする。しかし、フルートとハープという似た者同士のような、華やかさを演出する楽器の組み合わせでもこんなに見事に調和する名品を書いたのだから凄い。それに全編に漂う典雅そのものの雰囲気が正月にぴったしである。全く以て素晴らしい。
最初に買ったレコードはランパル&ラスキーヌ盤である。しかし、定番のエラートの新盤の方ではなく、同じパイヤールの指揮なのであるが1958年録音の古い方で、選んだ理由は廉価盤だったためである。かっては1枚でも多くレコードを買いたかった。
その後、グラーフ&ウルズラ・ホリガー盤、トリップ&イエリネック盤、ランパル&ノールマン盤などを、新しいところではパユ&ラングラメ盤などを手に入れた。
このコンチェルトはどの録音でもよい演奏に聴こえる作品のようだ。名盤選で全く登場しないヴァルター&ツオッフなんかも捨てたものではない。オケはスウィトナー指揮ドレスデン・シュッタッツ・カペレなので悪かろうはずがない。
今回は愛聴盤の一つであるトリップ&イエリネック盤を取り出した。オケはミュンヒンガー指揮ウィーン・フィルである。録音はDECCAだし、おっとりしたウィーンの美女を眺めているような、そんな優美な演奏である。華やかで丁々発止のランパル&ラスキーヌ盤と対照的な演奏とも言える。第三楽章のロンドの優雅さ、特に締めの部分、カデンツァ風にハープの独奏、続いてフルートが継いで、一気にコーダに入って行く。ここがたまらくいい。第二楽章のアンダンティーノだって、シェーンブルン宮殿のお花畑で遊んでいるような、そんな雰囲気に溢れている。
ただ、ミュンヒンガーというのが気に入らない。先入観もあるかもしれないが、もっといい指揮者がいなかったのだろうか。 DECCAとの契約でミュンヒンガーとなったのであろうが、クリップスの方がまだましなのではと考えてしまう。でもぱっとしないか。プレヴィンはどうだろうか。あのピアノ協奏曲第24番をあのように弾いてしまうネアカ人間、最高に美しい音楽に仕上がりそうな気がしてならない。
アメリカにいる頃、ウイスコンシン大学マディソン校のユニオンのホールでミュンヒンガー率いるシュトットガルト室内管弦楽団の演奏を聴いた記憶があるが、どんなプログラムだったか、どんな演奏だったのか、全く記憶が蘇ってこない。レコードでも、このコンビのヴィヴァルディ「四季」を名盤と評する評論家もいたが、四角四面の全く面白くない演奏で、バッハもリヒターのような彫の深さや劇性に欠ける録音ばかりである。
フルトヴェングラーは「私の後はミャンヒンガーが継ぐ」と言った。また「ショルティが継ぐ」と云ったとも言われている。巨匠は人を見る目がなかったようだ。
ベームはこの作品には大物過ぎるであろう。一連のセレナードの録音から、何となく向いていない気がする。録音もあるにはあるが。

さて、来年の選択が楽しみである。