ドヴォルザーク:交響曲第八番 ト長調Op.88

あと千回のクラシック・リスニング(13)

ドヴォルザーク:交響曲第八番 ト長調Op.88

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団

DECCA 417 744-2


どちらがお好きですか、「新世界」、それともドボ8? ”

 

ゲヴァントハウス1月例会でヴァーツラフ・ノイマン指揮ウィーン・フィルの交響曲第九番「新世界より」を聴かせていただいた。

ノイマンと言うと、1974年2月、ウィーンのムジークフェライン大ホールでのチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」がとても印象に残っている。オケはウィーン交響楽団で、前プロはボフスラフ・マルティヌーのチェロ協奏曲だった。前プロはともかく、メインの「悲愴」は凄演であった。ノイマンはスケールの大きな構築を試み、顔面真っ赤にしてののめり込み、第三楽章のクライマックスでは大ホールの木製の椅子が振動し始め、お尻がむず痒くなったことを思い出す。そして何よりフィナーレのアダージョ・ラメントーソにはいたく感動した。大きくて深いアダージョだった。

さて、私はノイマンがウィーン・フィルを振ったという情報は持っておらず、まずこの事実に驚かされた。しかも定期演奏会に招ばれての登場なのである。

さらに、メイン・プロがドヴォルザーク「新世界」交響曲というのにも。ウィーン・フィルの定期であれば、「新世界」はポピュラー過ぎて、第八番の方が選ばれそうな気がしたためである。

また、ドヴォルザークが好きな人は、最高傑作として第八をとる人が多い。純粋にチェコで作曲した第八とアメリカ的要素と郷愁が加わった「新世界」では同じ土俵で評価できないような気がする。後者と同じ背景で作曲された傑作としては、私は弦楽五重奏曲第三番とか弦楽四重奏曲Op.106、それからチェロ協奏曲を選びたい。

ドヴォルザークの交響曲第八番、結論から言うと、私にとってのベストのレコードはカラヤン指揮ウィーン・フィルの旧盤である。英DECCAのブラームス第三交響曲と組み合わされたCD、このCDはあまりにもかけ過ぎて、ケースが壊れているほどである。メインはブラームスの方で、最初から聴くとドヴォルザークから始まる。

ところが、カラヤンが指揮したドヴォルザークの第八交響曲と言うと、最初に聴いていたのは同じウィーン・フィルとの1985年1月録音の新盤の方である。

1986年頃、私はまだCDプレーヤーを持っていないにも拘わらず、3枚のCDを購入していた。その中の1枚がカラヤン指揮ウィーン・フィルによるドヴォルザークの第八(DGGの新盤)だった。秋葉原に出た折の衝動買いのCDで、演奏時間37 分という贅沢なCDであった。

1986年つくばに転勤となり、その翌年、研究所の先輩がCDプレーヤーを選んでほしいと言うので、欲しかったが、自分にはとても手が届かなかったルボックスB226を彼に薦めた。そのプレーヤーが納入された時、装置の結線等で彼の宿舎に招待された。彼のセットはヤマハのラインで、スピーカーがNS690、アンプがA2000であった。

まず、手馴らしにアナログでラインホルト・バルヒエットとロベール・ヴェイロン=ラクロワによるバッハのヴァイオリン・ソナタのLPをかけた後、さてとCDをトレイに載せた。

息詰まる中、カラヤン指揮ウイーン・フィルの、新盤の方のドヴォルザークの第八交響曲の三楽章が鳴り響いた。何という麗しい音!出だしの弦の音に陶然とした気分になった。しかし、もっと驚嘆したのは、第四楽章冒頭のトランペットのソロである。その定位感と、気も遠くなるようなトランペットの響き!CD恐るべし。その時の記憶が鮮やかに蘇る。

この新盤も立派な演奏だと思うが、私のこの一枚となるとカラヤン&ウィーン・フィルの旧盤である。

この曲は田舎臭さがよい。カラヤンがベルリン・フィルを振って豪華に仕上げてもどこか違和感が残る、そんな交響曲である。

田舎っぺが都会のモダンなコスチュームを纏ってすましてみてもどこかおかしい。田舎の素朴なお菓子にはそれなりの美味しさが詰まっているのである。

かと言って、チェコの本場もの、これにもどうも触手が伸びない。なので、まだウィーン・フィルがローカルな味を残していた1960年録音というのが効いている旧盤、その選択となる。少し遡れば、クラリネットはレオポルト・ウラッハが吹いていたかもしれないのだ。しかもこの録音をプロデュースしたのはかのジョン・カルショーなのである。

さらに素晴らしいのがカラヤンのイメージが浮かんで来ない点である。例の勿体ぶった、ナルシズムがチラチラするような、あるいは人工的なカラヤン臭さが全くというか、ほとんど出て来ないのである。

ウィーン・フィルが自発的に伸び伸びと、勢いに任せて演奏したようなスポンテーニアスな雰囲気に溢れている。まるで、一発録りのようだ。

思うに、この録音当時のカラヤンは幸せの絶頂期にあったに違いない。天敵であった先輩指揮者フルトヴェングラーの幻影から解放され、ベルリン・フィルのみかウイーン国立歌劇場監督のポストも手に入れ、エリエッテ夫人との間には長女イザベラが誕生してというような時だったのだ。そんな幸福感がもろにこの演奏に滲み出てはいないだろうか。

この時期のカラヤン&ウイーン・フィルの録音はすべてウイーン・フィルの持ち味が最大限出るような余裕の指揮ぶりで、人工的なベルリン・フィルとの録音とは好対照である。

さて、ここで話変わって、「新世界」と、いわゆる「ドボ8」こと交響曲第八番、あなたはどちらを選択されるであろうか。

私の結論はドボ8もよいけれど、「新世界」かな、である。あのケルテス指揮ウィーン・フィルの名盤の故に。レコードでの話ではあるのだが。

ドボ8とも付き合いは長い。最初の愛聴盤はワルター指揮コロムビア響のLPであった。これは購入した訳ではなく、大学生の頃、実家に帰ってNHK北九州放送局のFM放送を聴いていて、「曲当てクイズ」で当選した景品であった。老ワルターが慈しむように、この愛すべき交響曲を振った名盤で、B面にはシューベルトの交響曲第五番が組み合わされていた。

実演では米国に着いてようやく生活が落ち着いた1980年10月にシカゴ響の定期でクーベリックが振ったコンサートを思い出す。自作の短い作品の後、クリフォード・マイケル・カーゾンをソリストとしてモーツアルトのK488の協奏曲の後、休憩を挟んでこの第八交響曲が演奏された。

このコンサートはWFMTシカゴによってFMで放送され、私はエアーチェックを試みた。シカゴ響のコンサートは基本3回同じプログラムで、放送は最初のコンサートの録音のようであった。というのは、私が聴いたコンサートではクーベリックはこの作品の全四楽章を、連続して交響詩のように指揮したが、放送ではちゃんと楽章ごと間を置いて演奏されていたからである。放送ではK488の後に、ディレクターのノーマン・ペレグリーニのクーベリックへのインタビューが放送された。チェコ訛りのひどい英語であるものの、自作を取り上げるのは好きではないが、という言い訳に始まる興味深いインタビューではあった。

クーベリックはかって1950年代にここの常任指揮者をやっていた。ところが軌道に乗り始めた頃、当時シカゴの音楽評論のトップであるキャシディ女史にこき下ろされ、辞任に追い込まれた。穏健なクーベリックが「あの女め」と称し、シカゴ響とも縁を切った、と物の本には書かれていたが、その放送のアナウンスでは「シカゴで最も歓迎されている巨匠」と紹介されていた。

そのエアーチェックした録音カセットを久しぶりに聴いてみたが、それほどの感激には至らなかったことを思い出す。マディソンから家内の運転(当時は、私は日本で言うところの若葉マーク)でシカゴを訪れ、オーケストラ・ホールの向かい側のシカゴ美術館に家内と娘を待たせており、それが気になったせいかもしれない。何せ、クーベリックのドヴォルザークなのである。それに、フィナーレ冒頭のトランペット・ソロは全米一と言われていたアドルフ・ハーゼスだったのだから。

さて、ドヴォルザークの交響曲で最高傑作はどれかを考える一つの材料として、ここでフルトヴェングラーに登場願おう。

巨匠の判定ははっきりしていて、 コンサートで取り上げたのは「新世界」が18回、

第八は全く振っていないのである。一方、カラヤンは拮抗していて、「新世界」が47回、

それに対し第八番は48回である。両者の好みの差が明瞭に出ている。

巨匠のドイツ音楽信奉ははっきりしていて、「新世界」の後にベートーヴェンの第五を置くなどという、プラハでの政治色が強いコンサートの記録もある。

まあ、ドヴォルザークは典型的なメロディ・メイカーで、このタイプは音楽を深く極めることがない。アマデウス然り、シューベルト然りである。ただ、アマデウスは大天才、シューベルトは梅毒に罹患し、死を覚悟して「あの世」を観てしまった。それが晩年の作品に投影されている。これに対し、ドヴォルザークの作風はと言うと、「田舎のとっつぁん」である。

しかし、そこがよいではないか。第八交響曲はト長調でボヘミアの情景や心象風景を、伸び伸びと描いてみせた傑作である。

ト長調で作品88、ここでハイドンの「V字」を思い起こす。交響曲でト長調、そして作品88と88番という数字、どちらもロンドンの出版社から、さらに「イギリス」と「V字」という内容と全く関係ない呼称、単なる偶然に過ぎないのだが、何となく相似形のような趣があるような。