1957年カラヤン&ベルリン・フィル第1回来日公演を振り返って

1957年カラヤン&ベルリン・フィル第1回来日公演を振り返って

NHK交響楽団に客演し、およそ1年後の1955年4月にカラヤンはフルトヴェングラーの後継者としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第4代常任指揮者並びに芸術監督として任命された。そしてその2年半後の1957年11月にはNHK招聘により手兵ベルリン・フィルを率いて第1回目の来日公演を果たした(写真1 1957年来日公演プログラム表紙)。布張りの表紙に銀色のおしゃれなドイツ文字による体裁も格調高い。またチケットも同様に当時のセンスの良さをうかがわせる(写真2)。公演は11月3日招待制による内幸町・旧NHKホールの特別公演を含め、東京・名古屋・八幡・福岡・広島・大阪(宝塚)・神戸・仙台の8都市、延べ16公演を数えた。うち仙台公演のみカラヤン発熱のため急遽副指揮者として同行したウィルヘルム・シュヒターが代行した(写真3 公演日程/写真4 見開きページ、カラヤン&ベルリン・フィル全面写真/写真5 歴代指揮者写真とベルリン高等音楽院講堂における75周年記念公演スナップ)。
さてこの来日公演に際し日本までの長旅の苦労話をひとつ紹介してみたいと思う。この1957年(昭和32年)ではまだまだプロペラ機が主流でダグラス「DC-6B」/「DC-7C」の時代であった。欧米でも当時最新鋭の「ボーイング707型」ジェット機がようやく一部で就航しはじめたか否かの時代ではなかったかと思う。最終的にこの来日公演ではSAS機(スカンジナヴィア航空)のプロペラ機(DC7-C?)で南まわりルートを飛行しおよそ45時間余りをかけて東京に到着したそうである(写真6 ベルリンフィル一行の羽田に降り立つスナップ。合同演奏会プログラムから1957.10月31日)。
またプログラム演奏曲目にも一つ興味深い点があった。それはストラヴィンスキーの舞踊音楽「火の鳥」(組曲)が取り上げられていたことである(写真7)。カラヤンは結局この作品をレコード録音しなかったのでこの公演は貴重な生演奏になった。また公演の最終日には「東京体育館」でNHK交響楽団が協演するプログラムも組まれていた(写真8 N響協演・演奏会単独プログラム表紙)。NHK交響楽団は当日プログラムのメインを飾った「ベートーヴェン/交響曲第5番」をベルリン・フィルと協演した(写真9 N響協演コンサート演奏曲目/写真10 来日時のスナップ、以上ベルリン・フィル・N響協演コンサート単独プログラムから)。
最後に大変貴重なカラヤンのスナップ写真を3枚紹介してこの稿を閉じたいと思う。この来日公演では移動に列車も使用されている。撮影日・撮影者等は不明だが寝台車の前に立つカラヤンのスナップ(写真11)、画像から寝台車の形式は「マロネ(フ)49」とかすかに読み取れる。これは国鉄(1957年当時)の「2等寝台車」で現在の「A寝台」に相当する。調べたところこの当時「上野-青森間」の急行「十和田」に連結されていたらしい。これから察すれば、定かではないが東京から仙台への移動の際に一行が利用したのではないかとも推測される。(写真12)はプラットホームで気さくにサインに応じるカラヤンの姿を捉えた1枚、そしてこれも駅名等は特定しがたいがプラットホームで撮影されたカラヤンのスナップである(写真13)。いずれの画像もだいぶ以前にインターネットからの取り込んだものだが当時の日本演奏旅行の断片を垣間見ることができるスナップである。

写真1 カラヤン&ベルリン フィル 1957年11月初来日公演プログラム表紙

写真2 11月19日の日比谷公会堂公演のチケット 1957年

写真3 プログラム見開きページ 公演日程 1957年

写真4 カラヤン&ベルリン フィル 全面写真

写真5 ベルリン高等音楽院講堂における75周年記念公演スナップと歴代指揮者紹介

写真6 1957年にベルリンフィル一行が羽田に到着して花束を受け取るカラヤン

写真7 1957年公演ではカラヤンがレコード録音しなかったストラヴィンスキーの「火の鳥」が演奏された

写真8 ベルリン フィル&N響協演演奏会プログラム表紙 1957年

写真9 ベルリンフィル&N響合同公演演奏曲目 1957年

写真10 1957年来日公演時のスナップ

写真11 カラヤンと旧国鉄寝台車マロネフ49 1957年

写真12 プラットホームで気さくにサインに応じるカラヤン

写真13 プラットホームにてカラヤンのスナップ 1957年