• クラウディオ・アラウ  その3

ピアノソナタ第17番二短調作品31-2、通称「テンペスト」をアラウの演奏で聴く事は一つの啓示です。そうです他に偉大な多くのピアニスト達も弾いているのに、それにも関わらずアラウの演奏が最もこの二短調ソナタの演奏に相応しいのではないかと考えます。
秘書と名乗った胡散臭い男シントラーがベートーヴェンに二短調のソナタの意義はと訊ねたところ「シェークスピアのテンペストを読め」と言われたと書いています。今では話半分にも受け取れない問題だらけの男の証言ですが、私はこの二短調のソナタに関しては確かにシェークスピアの戯曲「テンペスト」が関わっていると考えます。なぜならこのソナタは「対話」によって成り立っているソナタだからです。特に第三楽章アレグレット3/8拍子二短調は明らかに音楽でありながら対話でもあるのを如実に感じるのです。あたかも妖精とプロスペローの会話の様にさえ聴こえるのです。ピアノに向かい第三楽章を演奏して見れば休みなく続く音譜の連なりに「対話」が表れるのを感じます。
アラウの第三楽章は私の知る限り大変適切なテンポと表現力を持った演奏だと思います。
アドルフ・ベルンハルト・マルクスは「ピアニスト達はフィナーレをまるで練習曲の様にしてしまう(この言い方は、せわしない演奏を戒めている)。そうではなく、内的な動き、に応じて掻き立てられるのだ。」とベートーヴェンのソナタ演奏の手引きで弾き手に警告しています。
ほとんどの優れたピアニスト達が第三楽章を早く弾き過ぎている様な印象を持ちます。「内的な動きに掻き立てられる」からでしょうか?例えばエリック・ハイドシェックはライブで速過ぎるのではないかと言った調子で第三楽章を始めます。ライブ演奏で聴衆を前に過度に緊張してしまっていると感じられる演奏です。そのかわり当日会場で聴けば、これは緊張感に満ちた名演奏だと感じるに違いありません。後に録音で残された音源を聴いて冷静になってようやく速過ぎるのではないかと考える訳です。この様に度々現れるライブとレコードやCDとの違いは常に付いて回る命題だと言えましょう。
アラウの弾く第三楽章を緊張感に満ちた急流の様な流れでないからと物足りなく感じるとしたら、テンペストが「対話」で成り立つソナタである事を思い出して欲しいのです。それでなくてもアダージオ楽章の次に来る第三楽章の速度指示はアレグレット(やや早く)なのです。あくまでもやや早くでありけして、アレグロではないのです。
ドナルド・フランシス・トーヴィは演奏の注釈として「若い演奏者にはあまりに遅すぎて感じるが、私が弾く場合はテンポを♪=72より早くするする理由は何も無い。」としています。♪=72は今日の捉え方では遅い部類に属します。
テンペストの演奏を通じてアラウはその様にベートーヴェンが思い描いた境地に立つのです。演奏を通してアラウが生真面目な、真摯なピアニストだとこれほど感じる事もありません。アラウ自身の言葉にもそれを強く感じます。少し引用してみます。
「私は一般的な教養、知識、直観などの自己統合(ユングの言う)の必要性を信じています。その人の持つ全ての要素、全ての才能が演奏家としての個性に、そして演奏する音楽をよりよく理解するために演奏家は全宇宙を手におさめなくてはまらないのです。」
要するにアラウは優れたピアニストである為には「全人格者」にならなくてはいけないと言っているのです。アラウは言葉だけでなくこの様に生き、ピアニストとして活躍したのです。並みのピアニストでは出来ない生き方です。アラウの章の冒頭で尊敬するピアニストとしてアラウを上げるのに躊躇しないと、恥ずかしげもなく言ってしまったのもこうした思想と生き方に共感し、何よりもその演奏に深く共鳴したからに他なりません。

ピアノソナタ第17番二短調作品31-2「テンペスト」:(http://ml.naxos.jp/work/4905121)アラウ(Pf)

その4に続く

クラウディオ・アラウ(Pf)

*テンペストの第三楽章は版によってメトロノーム記号(♪=72)が記載されている。因みに手持ちのベートーヴェンソナタ全集のうちブライトコップ(1978年)には♪=72となっているが、他の版ではメトロノーム記号は無いヘンレ版のような楽譜もあった。

(♪=72)が記載されているテンペストの第三楽章スコア

*アドルフ・ベルンハルト・マルクス(1795年~1866年 ドイツ)
ベルリン音楽報知新聞の編集責任者、その評論はベートーヴェンも高く評価した、メンデルスゾーンとの交流、ベルリン大学音楽教授、ベートーヴェンの伝記の出筆など音楽評論の他に作曲も行っている。自伝も刊行している。「ソナタ形式」を初めて概念化し、理論立てて論文にした。ソナタ形式はマルクス以降に理論付けられた楽理と言える。**この件は改めて補足したいと思います。

*ドナルド・フランシス・トーヴィ(1875年~1940年 イギリス)
音楽学者、作曲家、ピアニスト。ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの友人であり、ブリタニカ百科事典の音楽項目の出筆も行った。