レオンスカヤ その3

悪魔的なピアノ演奏の名人を聞くことを望み、その名人芸を聞きたいと思うことがあっても、間違った望みではないですし、聴衆を抗いがたい弾奏で引き付ける、あるいは圧倒的なブリオを身に浴びる演奏を聞きたくなるのは音楽の楽しみの一つであることは否定しません。
レオンスカヤはそうした楽しみを得ようとして聞くピアニストではないのです。 そう、聴く側の人間が自身の内に語り掛ける事をしなくては、あるいは出来なければ、なかなか、理解し難いピアニストです。 どこか哲学的な言い回しと思われるかもしれませんが、そんなに高度な精神世界の事ではありません。
要は聴衆の側が、自身が持つシューベルト感はいったいどんなものなのかをある程度認識し自覚していないと、レオンスカヤが何を表そうとしているのかが掴み切れないという訳です。 聴く者は己の心のうつろいが、シューベルトのソナタのどこに喜びを見出そうと臨んでいるかを己自身に問いかけながら聞くのでなくては、一向にレオンスカヤの演奏が腑に落ちてこないという事です。 シューベルトのピアノソナタとはそういう楽曲なのです。 ですから、シューベルトの夕べに行き、納得のいかない印象を抱えて帰路に着く事になる場合もあると言うわけです。
そのような聞き方など「煩わしくて」やりたくないと考えるのも一つのピアノ音楽を聞く流儀かもしれませんが、自分から楽曲や演奏家に近づいて行かなくては得られないものもたくさんあるのです。 人一倍努力とは無縁の筆者が言うのは恥ずかしいですし、はばかられることかもしれませんが、今、演奏会の会場で一番欠けているのは、努力して理解しようと務める、聴き手の側の姿勢だと思います。 自身の音楽に対する深い理解や、こういって良ければ愛情が欠如していると言う事でもあります。 これはレオンスカヤに限った事ではありません。 全てのピアニストの演奏会に共通して言えることです。 それでも、とりわけレオンスカヤのピアノの夕べを訪ねると、その様な思いを感じるのは、レオンスカヤが心密やかに音楽を愛することの意義を演奏に込めているからだと思う訳です。
もちろん、こんな風に述べて、あまり喜びを得られなかったピアノの夕べの一夜を擁護するわけではありません。 一人レオンススカヤの演奏という訳ではなく他の全てのピアニストに言えることですが、喪服を着たくなるような悲痛なピアノの夕べに出会うと、何と言って良いのか身の置きどころに困ってしまいます。 それは認めざるを得ません。
少し脱線しますが、例えば「教科書の様な」とか「楽譜に忠実な」と言ってその一夜のピアノの夕べの演奏に否定的な事を言う人達がいます。 要約すれば面白くない演奏だという訳です。 でも、積極的で挑戦的な演奏をピアニストが試みて鍵盤を外したり余計な音を出したり、先走しった演奏を聞かされると「技術が無い」とか「無謀な演奏」とか批判するのです。 あなたは何が聞きたいのですかと問いたくなります。 己の中に本来持つべき楽曲への理解を欠いているのに、己が感動出来なかったのは、ひたすらピアニストの責任であると断罪して平気な人達がたくさんいるのです。

(つづく)