ポリーニその9

ポリーニはピアニストとしてはかなり特異なのかもしれないと言いました。 私個人の印象ですが、一つにはポリーニの演奏はいかなる作曲家の楽曲であっても老成した痕跡が無いという事です。 歳食ってピアニストの「完成形」に近づいたとほとんど感じません。 成熟したという事ならその様な見方は出来ない訳ではありませんが、例えば晩年のヴィルヘルム・ケンプとかクラウディオ・アラウの様な印象が無いのです。 ポリーニはテクニックの衰えが指摘されている今でも老成したピアニストではなく今を生きるピアニストなのです。 そうした意味では20世紀に軸足を置いた20世紀のピアニストだとしてポリーニを取り上げることはお門違いと言われるかもしれません(出発点が20世紀ですので軸足は20世紀ということでお許しください)。

二つ目には何度か触れましたが、テクニック優先で語られるピアニストと言う不幸を抱えてしまったことでしょう。 楽曲を十分に表現できる技術を持ってさえいればそんなことはどうでも良いことなのですが。 まあ、スポーツの様に超特急で飛ばす超絶技巧を聴くことはある種の快感であり音楽を聴く喜びの一部であることは否定しませんが、そんな見方ばかりしていてはピアニストも聴衆も不幸になるばかりです。

三つ目にポリーニの演奏活動の範囲があります。 リヒテルなどはそれこそ工場や倉庫で演奏することをいとわずそこにピアノさえ有ればどこにでも出かけて行きました。 クシシュトフ・ヤヴウォンスキーは来日した時に人口数万人の田舎町の30人が入るかどうかのピアノ教室のスタジオでリサイタルを行っています。

ところがポリーニは限られた大都市でしか演奏しません。 ヴィーンやミュンヘン、パリ、東京の様な都市でしか演奏していません。 本国イタリアではそれなりに地方都市でも演奏しているようですが、他国では大都市か首都でしか演奏を披露していないのです。

これはどの様な意思や主義主張によるのか良く分りません。 推測でしかないとお断りをしておきますが、あるいは自身の演奏は本当に理解してくれる限られた聴衆にしか聞いて欲しくない。 その数少ない理解してくれる「見識の高い聴衆」が集まる場所は人口の多い、そしてトップクラスの識者たちが最も多い首都クラスの都市だけだとでも思っているのでしょうか? 聴衆が聞きに行くピアニストを選ぶ権利があるなら、ピアニストも聴衆を選びたいのだと(いや、ピアニストも選ぶ“権利”があるのだと)。 こうした考えは特別な考えではなく、また、非難される考えだとはことさらに思いませんし、打ち明け話の様にそう言うピアニストもいます。 いささか偏向した見方かもしれませんが、限られた大都市でしか演奏会を開かない理由はそのくらいしか思い浮かびません。本当の理由はさて、どの様なものなのでしょうか? ウラディーミル・ホロヴィッツなら「旨いお気に入りのレストランがそこにしかないから、そこでしか演奏しないのさ。」とでも言うかもしれませんね。