ホロヴィッツ その4

いつも、いつも取り上げるベートーヴェンの「テンペスト」で話をするのは心苦しいのですが(いい加減にしたらと言われそうです)シントラーの証言に信ぴょう性が有ろうが無かろうが、この曲が「対話」だと了解出来るのは、ベートーヴェンがその様に造り導いてくれるからです。弾き手はこうして「対話」で表現すると言う羅針盤をベートーヴェンその人から楽譜を通じて示唆して貰えるのです。 ベートーヴェンは実は「心優しく」導いてくれる作曲家の最右翼でもあるのです。
ショパンはそうではないのです。「お好きなように」と、この以前も言いましたが、己しか見えていない自己中心的な男は、楽譜の中においてさえ自己中心的に曲をしつらえているのです。 ですから指標もお導きも、そんなものは自分で探すなり作るなりすれば良いのだ。 その結果として出来た演奏が如何に外れていようが、ひどい演奏であろうが知った事ではない、私はただ軽蔑するだけだとショパンはのたまうのです。
最初に謝っておきますが、この様な言い方は、一面的で大げさな言い方かもしれません。 あるいは間違っていると指摘される言い方であるのは筆者も承知の上です。 ここはお腹立ちになることなく、分かりやすいように「象徴的」に言っているのだと思って頂きたいのです。 全てがそうだとは言いませんが「象徴的」であるとは間違いなく一つの傾向を示しているのです。
ホロヴィッツのショパンの演奏が並外れて見事なのはこうしたショパンの気質にホロヴィッツの気質があっていたからだと言えます(CBSのレコードジャケットの見事な啓示があります。ショパンとホロヴィッツのイラストは二人を重ねる様に描いていますが、二人が大変似ていることを示唆しています。その裏側のショパンの肖像画とホロヴィッツの写真も念を押すように似ているのです。ジャケットの製作者は良く理解していたのでしょう。)。 姿が似ているからその芸術も似ると短絡的な事は申しませんが、思わずそう考えてしまいます。
ホロヴィッツのショパンの演奏については後程触れることにします。

話をベートーヴェンのソナタに戻します。 で、ホロヴィッツが置き去りにしたベートーヴェンの大切なものとはこのベートーヴェンが与えてくれる「お導き」です。 ホロヴィッツはベートーヴェンが残してくれた示唆を無視してソナタの演奏にまさしく「突入」するのです。 無謀な暴走行為ではありませんし技術的には大変な成果を上げているベートーヴェンのソナタ演奏ですが、ホロヴィッツの指の間からはベートーヴェンのエートスがポロポロと零れ(こぼれ)落ちてゆくのです。
どんなに圧倒的な指さばきと力量でもって嬰ハ短調ソナタ(通称「月光」第3楽章:プレスト・アジタート)、へ短調ソナタ(通称「熱情」第3楽章:アレグロ・マ・ノントロッポ-プレスト)のプレスト楽章が疾走しようとも、あるのは虚無を象徴するような練達の技です。 ホロヴィッツはおよそ大きな構想のソナタよりもどちらかと言うと小品に力量を発揮するピアニストではないかと感じるのです。 例の「星条旗よ永遠なれ」とかスカルラッティの曲とか、そしてショパンの曲も小品が多いのです。 これらの魅力的な小品の曲に思考が向かずに、ベートーヴェンのソナタなどの大曲にしか耳が行かないのはホロヴィッツを聞く上では恐ろしく不公平で随分偏向した聴き方ではないかと思う時はあります。
(つづく)