ホロヴィッツ その8

クライスレリアーナの晩年の方の演奏と同じ様にシューベルトの最後のピアノソナタD,960にも静寂の香りが漂います。 このソナタのよるべきところは「諦観の念」です。 その解釈や指さばきがシューベルト的ではないと批判する人がいるようですが、十二分に諦観の念が響いているのです。 ホロヴィッツは信じなくても良いのですが、アルフレート・ブレンデルより真面目にこの変ロ長調のソナタを弾いているのです。 生真面目なブレンデルでさえ省いた第一楽章の最初に戻る指示の反復をホロヴィッツは弾いているのです。 ホロヴィッツも晩年には派手なパフォーマンスとは無縁のピアニストになったのです。 テクニックの衰えなどと言う皮相な見方をする必要はないはずです。

少しだけドビュッシーの演奏に触れておきます。 ホロヴィッツの演奏は正しい演奏とは言えないのです。 ホロヴィッツはしばしばピアノを叩きすぎるように思います。 ドビュッシーはホロヴィッツ流の音色とテンペラメントには合わない作曲家だと思います。 その響きは時としてハッとするものをもたらしますが、およそドビュッシーの響きとは言えないと思います。

ホロヴィッツは大変に不運な人生を送ったことはあまり関心を持って語られない様に思います。 強烈なピアノの弾奏がその陰にある「人間ホロヴィッツ」に思いが行くことを妨げていると言えるかもしれません。 ピアニストである以上人間ホロヴィッツなど確かに気にする必要はないのかもしれません。 トスカニーニとの確執、ワンダ夫人とのあれこれ、子供の不幸、ルビンシュタインとの関係。 神経症によるキャリアの危機。 それらは知らなくても良い事かもしれません。
しかし、晩年のホロヴィッツの演奏に耳を傾け、その真価を味わいたければ、すくなくともホロヴィッツが肩で風切り、ホテルの最上の部屋と念入りに用意された環境を求めるのが、我が儘とか、単なる高飛車で高慢な気持ちから来ているのではなくそうしなければ安心できない弱い精神の表れであろうと理解しなければならないとも思えます。

ホロヴィッツに、後継者は出来ませんでした。 あれほど多くのエピゴーネンを輩出したと言うのに、彼のエコールは何処にも見出だせません。 それは無理からぬことでありましょう。 誰もが、例えアルゲリッチがどの様にホロヴィッツを巧みにまねして見せても、ホロヴィッツの代わりになることは出来ないからです。 偉大なピアニストは誰もが唯一無二の者であり、代わりなどいないのです。 それでもエコールは自然に出来上がるものです。とりわけホロヴィッツの様な強烈な個性であればあるほどそうだと思われがちです。 だけれども、ホロヴィッツはあまりにも特異現象であり過ぎてエコールにならなかったのかもしれません。 唯一無二のピアニストと呼ぶのに最もふさわしいピアニストは他ならぬウラディーミル・ホロヴィッツかもしれません。

ホロヴィッツは最後に残されたピアニストの神秘であったのです。 ホロヴィッツの死とともに神秘は消え失せてしまいました。 20世紀とはまだかろうじてピアニストが神秘のベールの向こう側にいることが出来た時代です。ウラディーミル・ホロヴィッツはその最後の一人だったのです。

(完)

Vladimir Horowitz
1 October 1903 - 5 November 1989
Russian - American pianist
Royal Festival Hall
RFH
18 May 1982
credit: Clive Barda / Arenapal