イエルク・デムス その2

ところで試しにベートーヴェンの最後のピアノソナタ32番ハ短調作品111のライブ演奏を聴いてみれば上に言ったことと印象が違う演奏が聴けると思います。 この演奏では第一楽章の走駆がやけに早くせわしないのです。 若干のミスタッチも見受けられます。 どこに「少し肩の力の抜けた」演奏があるのか訝しく思われるでしょう。 まず、第一に実際の演奏会における緊張感がせわしなさにつながっていると推し量れること、第二にそれゆえ(緊張感ゆえ)にハ短調ソナタの求める「方向」に向かって肩の力が抜けていない印象につながってしまったと言えるからです。
どの方向なのかですが、デムスも同僚のグルダと同様にベートーヴェンの最後のソナタだから何か特別な曲であるように演奏しようとはしていないと言う事です。 霊験あらたかなる最後の楽曲ではなくベートーヴェンにとっては第33番に向かっての通過点であるのだと言う視点で活き活きと弾いて見せようとしたわけです。デムスの様な熟達者であっても緊張感が影響して表現の支点がずれてしまうこともあるのです。
又、同じ様にドレスデンのゼンパーで行ったベートーヴェンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調(月光ソナタ)の演奏でも第一楽章をことさら例えば幻想性をいっそう印象的にこなすことより第2、3楽章に活力を見出そうとするための序奏の様に解釈している節があります。 最終楽章の走駆が滑らかに流れない様に表現するのが聞こえてきますが、デムスはここでは流れより躍動感を与えようとしているのではないでしょうか。 いずれにしろ、残念ながら最上の演奏とは言い難いものがあります。
しかし、ソナタ第14番と同じ日に演奏されたピアノソナタ第27番ホ短調作品90の演奏を聴くとデムスのベートーヴェンのソナタに対する姿勢が良く分かると思います。  先に「デムスの弾く・・・ピアノソナタには道を踏み外さなかった・・・趣味の良さ・・・少し肩の力の抜けた表情・・・」などと述べましたがホ短調の演奏を聴くとデムスのベートーヴェン演奏がどんなものか分かるのです。
前作品から4年も期間を空けて、しかもわずか2楽章形式で書かれた、あまり「評価の俎上に上がらない」このソナタを、それゆえでしょうか、緊張感とか使命感とかから開放されたようにデムスは活き活きと弾いています。  ここには見事な曲への共感があります。 ベートーヴェンはここで「速く、そして終始感情と表情をともなって」と長い注釈をつけていますが、デムスは特に表情付けが見事です(以下の楽譜と注意書き参照)。

ベートーヴェン:ピアノソナタ第27番ホ短調 作品90より

譜例1

第1楽章冒頭の但し書き「速く、そして終始感情と表情をともなって」デュミニエンド、リタルダンド、イン・テンポの指示

こうした細かな指示をピアニストは自身の中で消化して弾かなければなりません。 なぜならこの指示はベートーヴェンが冒頭で求めた「感情と表情」の表現を履行するためにはけしておろそかに出来ない要であるからです。

 

 

 

 

 

 

ベートーヴェン:ピアノソナタ第27番ホ短調 作品90より 

譜例2

第2楽章冒頭の但し書き「速すぎないように、そして十分に歌う様に奏すること」クレッシェンド、3小節に渡りクレッシェンドの指示、テネラメンテ(やさしく)

デムスは流れの中で一貫して感情の発露と表情付けにこの指示をさりげなく聴こえる感覚で弾いています。 それが活き活きとした楽想につながっていくのです。

楽譜に忠実に弾く行為は一見当然の様に思えますが、細かな指示をどう表現するか、いえ、表現出来るかは各々のピアニストの資質にもよる為、解釈の違いとして現れるのです。 演奏自体は従って人智を超えた何かにゆだねられると考えてもおかしくはないとなるわけです。 微妙な音量の変化など曲を聴いている時には気になりません。 それはベートーヴェンが求めたように曲の感情や表情となって聴こえるのです。