グルダ その3

だけれど、再度同じ事を言うのは心苦しいのですが、あの、ベートーヴェンのピアノソナタの演奏を聴いた時にそんな分かったような意見は吹き飛んでしまいました。 グルダにはよりいっそう、一生涯ベートーヴェンのピアノソナタを弾き続けてもらわなくては困るのだと思ったものです。 それほどグルダの演奏は、月並みは表現で恐縮ですが、素晴らしかったのです。
32曲あるソナタの演奏のどれを取り上げるのが良いのかなかなか難しいものですが、初期の1番や「悲愴」の直前の7番辺りを取り上げてみようかと思いましたが、先に最後のソナタ第32番を取り上げましょう。
その前に「名演だとか感動したとか・・・衝撃、敢えて言いますが超える演奏に出あわない・・・。」ミケランジェリの章でその様に書いてしまった手前、なかなか第32番の演奏に言及するのが臆病になってしまうと本音を述べておきます。 ミケランジェリの演奏を除外した平常心のつもりで話を進めます。
グルダは第一楽章でこのソナタがベートーヴェンの最後のソナタで、従って、彼岸の彼方へのソナタであるかのようになど演奏していません。躍動感に満ちたまるで初期の第1番や7番の様に、若々しく弾いているのです。 上行、下行するフレーズ、スタッカートの処理などは今、生まれたての様に響くのです。 ふとグルダが即興演奏に傾倒しているのに気が付きます。 即興演奏的な佇まいがあるのです。 ここではジャズにおけるインプロビゼーションのようなものとは無縁ですが、ベートーヴェンが生きていて私たちにこのソナタを聞かせてくれたら、即興の大家ベートーヴェンの演奏はこんな感じになるかも知れません。
生き生きした若々しい演奏を晩年も繰り広げたルドルフ・ゼルキンの32番のソナタの演奏を単独で聴くとやはり躍動感を感じますが、グルダの演奏と比較するとやはり最後のソナタらしい、人生の意味が全て含まれるような、重みが感じられます。 また、アナトール・ウゴルスキーは音符の一つ一つに意味を込めるように弾奏してこのソナタの深遠を表現しようと試みているように思います。
グルダはまるで人生の意味など考えていないようにある意味では軽快にと表現しても間違いではない弾奏を第一楽章では試みているのです。 だけれどもこの演奏にはやはりベート-ヴェンが最後のソナタに与えた深遠が顔をのぞかせているのです。 他の31曲のソナタと特別に区別するような何かを求めてグルダは演奏していません。 敢えて言えば全てのソナタに同じ意味を与えようとしているのですが、第一楽章に見られる闊達な演奏には32番の重みが、形容矛盾ですが、宿っているのです。

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op. 111:http://ml.naxos.jp/work/4457590:フリードリッヒ・グルダ(Pf)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op. 111:http://ml.naxos.jp/work/4410609:アナトール・ウゴルスキー(Pf)

その4に続く

一例だが赤丸で囲んだ部分の躍動感、生まれたてのような響きが グルダの演奏には感じられる。