ラローチャ その5

ラローチャが盛んに取り上げる楽曲に所謂お国ものとしてのスペインの作曲家のものがあります。
アルベニスとグラナドスなどの演奏では端正さや清々しさを感じます。 そして躍動感をも、あるいは端正な中に荒々しさえも。 そもそもこの二人の作曲家のピアノ曲をラローチャが演奏するまで私たちはこのようなピアノ曲があることさえ意識にしなかったのです。 いや知っている、誰それのピアノ演奏を聴いた、もしくはレコードを持っていると訳知り顔に言う人もいるでしょう。 だけれど本当にその真価が明らかになるのはラローチャの演奏を待たなければならなかったと、言い過ぎでしょうか。 誰もが本気で偉大なジョン・フィールドやフェリックス・メンデルスゾーン、フランツ・リスト、フレデリック・ショパン、そしてローベルト・シューマンの次に続き連なるピアノ曲がここにあるのだと気が付いていなかったはずです。 気が付いていたなどと言う人は本国のスペインの人々を除けば、随分後出しジャンケンの得意な方々でしょう。
ラローチャがこうしたお国ものの演奏に傾注するのは、もちろん、作曲家と曲が優れているからに他なりませんが、エンリケ・グラナドスがラローチャの母と叔母の先生であったことも関連しているのです。 子供時代を回想してラローチャは彼女の最初のおもちゃが叔母のピアノであったと言っています。
ラローチャはもしかしたらお国ものを演奏するピアニストになるように生まれながらにして運命付けられていたのかもしれません。
大変に残念に思うのはラローチャが取り分けてもベートーヴェンの後期のピアノソナタにあまり関心を払ってくれなかったことです。 デッカにはベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲と7つのバガテルが残されていますが、ベートーヴェンのソナタは見当たりません。 ない物ねだりをしても仕方がないのですが、モーツァルトのピアノソナタは残してくれたのだからと残念に思います。
モーツァルトは例えばピアノ協奏曲第25番ハ長調の演奏を耳に留めてみればラローチャの打鍵が大変しっかりした明快な音であることが快く思われます。純粋無垢な音が響くのではなく、凄味があるのにそうは聞こえない、モーツァルトにみるハ長調のエートスが垣間見える演奏です。 細部の表現が緻密で構築的な方向を目指しているようです。 その代わりモーツァルトのコケットな面が薄れています。 この協奏曲には「ドン・ジョバンニ」への道筋が垣間見える面がありますが、ラローチャはどちらかと言うとそちらに向かって曲の本質を導くように演奏して行きます。 ハ長調でありながら下属調平行調に当たるニ短調を起想させるような響きを明確な中にも忍ばせている様に感じさせる演奏です。

(つづく)

アリシア・デ・ラローチャ(Pf)