第5回「プラハ国立歌劇場」

プラハは古びた歴史ある建物が残る美しい街だ。ヴァルタバ川の岸辺にはスメタナの記念像が立っており、その脇にある売店のテラスで美味しいビールを飲みながら「モルダウ」の一節を想い浮かべ川の流れを見ていると古に思いが飛んで行く。この街にはボヘミアの人々の思いがこもった劇場がある。プラハ国民劇場だ。スメタナとかドボルザークなど郷土の誇りある作曲家の演目を「チェコ語」で上演する為の劇場だ。この国民劇場の話をする事は次回に譲り今回はプラハのオペラハウスの話をしようと思う。

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1.モーツァルトの街プラハ

モーツァルトが本来の成功を勝ち取った街はヴィーンでは無くプラハであったのは周知の事実であろう。「ここでは誰も彼もがフィガロです。」モーツァルトはそう父への手紙に書き記した。冷たくよそよそしい街ヴィーンに比べればこの街でモーツァルトは暖かな空気を感じたに違いない。ヴィーン、音楽の都?モーツァルトを結局は真に理解し得なかった街ヴィーンが音楽の都?何かそういうのはお門違いの様な気がする。その事はヴィーン国立歌劇場の話をする時にでも改めて触れる事にしよう。

プラハはモーツァルトを受け入れモーツァルトはプラハの為に「ドン・ジョバンニ」を作曲した。そう、モーツァルトの最高傑作の一つに間違いなく数えられるオペラを。プラハがモーツァルトに贈った暖かな賛意と歓迎の気持ちにモーツァルトはもちろん自身が持つ最高のもの、つまり音楽で感謝を示したのだ。「ドン・ジョバンニ」は残念な事に、誠に残念な事に、多少の皮肉をこめて言うのだが、残念な事にヴィーンなどには与えられはしなかったのだ。しかも、初演の指揮棒を取ったのは誰あろう他ならぬモーツァアルト自身だった。このプラハ国立歌劇場でモーツァルトが初演の指揮をした、と言うと史実と違うと指摘されるだろうけれど、現在、「ドン・ジョバンニ」の初演が行われたエステート劇場、チェコ語上演の国民劇場、コロヴィラート劇場、そして国立歌劇場により構成されるプラハの劇場統括組織を一つのものととらえれば国立歌劇場は直接にモーツァルトにつながり国立歌劇場で指揮したと言ってもそれほど的外れではない様な気がする。少し強引な解釈かもしれないが。

だから、プラハこそがモーツアルトの街なのだと無謀にも言うことにする。賛否両論がある映画「アマデウス」を撮影する時にヴィーンを舞台にした場面でもプラハの街並み使ったそうだ。モーツァルトの時代のヴィーンを再現する為にはもはや今のヴィーンでは無理だったと言うのがその理由だそうだ。まるでヴィーンがモーツァルトを冷たくあしらいプラハがモーツァルトを受け入れたのと同じではないか。ヴィーンでは無理だと言う情けない自体は何とも200年以上の時を経ても変わらぬモーツァルトに関わる皮肉以外の何物でもないではないか。

プラハこそモーツァルトの街であり交響曲第38番が「フィガロの結婚」の前にプラハで初演されてもいるのもプラハがモーツァルトの街であるが為だと言いたい。事前に作曲されていた為プラハを想定したとは言いかねる曲でありながら、故に第38番は初演の栄誉を込めて俗称で「プラハ」と呼ばれている。ヴィーンでこの交響曲が演奏された形跡は無い!ヴィーンなどで演奏などしてたまるかと言うモーツァルトの声が聞こえてきそうだ。いや、あくまでも私の耳にだけだが。しかもこの交響曲はメヌエット楽章に当たる第3楽章が省かれた3楽章で構成される。何故メヌエット楽章が省かれたか定かではないそうだが、モーツァルトは舞曲であるメヌエットを外すことによりお高くとまって優雅そうに振舞うヴィーン的なるものを排除する為に舞曲であるメヌエット楽章を葬り去ってしまったのではないか、ヴィーン的なるものを否定する為に3楽章形式にしてしまったのではないかと思えて仕方が無い。まったくの私見である事をお許し頂きたいが。再度皮肉を込めて言うのだが、第38番においてもモーツァルトはヴィーンなどに曲を与えはしなかったのだ。過激な発言であったならお許しを頂きたいが、名だたる音楽学者や歴史家、モーツァルトの研究者達が言ってもいない事を発言する不遜さはこの場に免じてお許しを頂きたいと切に願うばかりである。

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2.自由の風

モーツァルトが愛した暖かく自由な雰囲気で溢れたプラハの街。あの共産主義の不幸な時代に最も自由を愛し共産主義圏の国としては異例の自由な雰囲気の漂っていた街プラハ。それはモーツァルトを受け入れた精神がそのまま脈々と受け継がれて来た事の表れだと思える。そしてベルリンの壁が崩れ去った事に象徴される共産主義の崩壊も、ハンガリーとスロバキアを含めたチェコが勝ち得たソビエト連邦の呪縛から解放された故に成し得た国境の開放と、西に向かう東ドイツの人々の流れを阻止しなかった歴史的出来事。所謂ビロード革命から始まった自由への旅立ちなどは、けして大げさな言い回しでは無くそこにはモーツァルトに花を送ったプラハの人々の精神の表れがありその様な精神があればこそ無血の大変動が東ヨーロッパを席巻したのではないかと思われてならない。それはプラハ国立歌劇場のあり様にたどり着く。

このプラハに立つオペラ座はやはり他の欧州の歌劇場に比肩する伝統と格式と人気とを誇っているのだ、と言うといささか違う様な気がする。確かに現存する「ドン・ジョバンニ」初演の劇場、エステート劇場は先に行った様にモーツァルト自らが「ドン・ジョバンニ」を指揮した誇るべき歴史を持っている様に、他ならぬ国立歌劇場も又、伝統と格式はもちろん他の欧州の各歌劇場に比肩するに足りるものだが、人気とかと言う話になると一歩下がる様な気がする。むしろ極めてローカルな雰囲気が漂っていると思えて仕方が無い。ハプスブルク帝国の街、チェコの首都プラハの国立歌劇場が郷土的と言うと叱られてしまいそうな気がするが、ここにもモーツァルトを受け入れた精神の表れが見える様な気がする。すなわち外に向かって何かを言い、外の意見を気にするそうした物とは違う雰囲気、自由な雰囲気、誰も彼もがフィガロを口ずさむ雰囲気、プラハはあくまでもプラハであり何者にも束縛されたり影響されたり支配されたりしないし何か外に向かってあからさまにこれでもかと自己主張したりしないと言う思いと雰囲気があるのだ。国立歌劇場は私達の歌劇場なのだと言うゆるぎない思いと誇り。プラハの歌劇場とはチェコ語で演じる国民劇場と同じ様に、あるいはそれ以上にと言っていい様に思うが、そう言う思いに満ちた郷土のあるいは民族の誇りでもある歌劇場なのだ。そうした事はこの歌劇場の歴史をたどっても分かると思う。確かにドイツ語の劇を上演する事を目的に創設されたのがプラハ国立歌劇場の前身であるドイツ劇場であるのは事実だが、それを持って郷土のとか民族のなどと言うのはお門違いではないかと言うのは大きな歴史のうねりの中の細かな事、あるいは始まりの意義に囚われているだけの様な気がする。この現在の国立歌劇場にあるのはチェコの民衆の心を映す鏡にも似た姿である。つまり再三言う様にモーツァルトに花を送ったプラハの人々の心がこの歌劇場の魂なのだと言えるだろう。そうなのだ、「魂」が宿っているのだ。歌劇場は単なる建築物でしかないがそこに人々の思いが注がれると「魂」が入りただの建物では無くなるのだ。だから多くの人々はそこで上演される演目もさること歌劇場と言う建物に、組織に、有形無形のあらゆるものに魅入られるのだ。特にプラハ国立歌劇場はモーツァルトから、勿論それ以前からでもあるが連綿と続く「魂」の居場所になったのだ。だからその為かもしれない。奇跡的にこの歌劇場はあの忌まわしい第二次大戦下でも幸運な事に破壊されずに済んだ歌劇場でもある。これは非常に幸運な事だ。ドレスデンもミラノも、ベルリンも他ならぬヴィーンも戦禍を被らなかった歌劇場を探す方が大変なのだから。

3.祖国の歌劇場

ドン・ジョバンニの初演を行ったドイツ劇場たるエステート劇場が現在の国立歌劇場の前身となると先に記した。1888年ニュルンベルクのマイスタージンガーで?落しを行った国立歌劇場は国民劇場と統合されたり、大戦中は閉鎖を余儀なくされたり他の欧州全ての歌劇場と等しく苦難を味わって来た訳だが、1992年晴れて国立歌劇場と名乗れる様になったのだと言う。

グスタフ・マーラー、ツェムリンスキー、ジョージ・セルなど素晴らしい指揮者がこの歌劇場の歴史を飾って来た。だから最初の方でローカルな雰囲気が漂ってなどと言うのは的はずれな言動ではないかと言われても仕方が無いかもしれない。だが先に言った様にここにはやはり郷土を愛する人々の精神が漂い、あるいは魂がと言い直しても良いと思うが、その雰囲気を永遠の物にしている。郷土のと言うのがあまりにも単位が小さいと感じるなら祖国と言い直しても良いと思うが、そうしたものがプラハ国立歌劇場では感じる。国と言う物はいくつもの郷土が集まって成りたつものだと考えるなら祖国と言う概念はそのまま郷土の事を指示すと言っても良いと思う。

ところでプラハで貴族を揶揄する様な内容のフィガロが流行ったのは、ハプスブルクに反骨するチェコの貴族達も含めた支配される立場にあるプラハの人々の心にうまく合ったからだと言う意見がある。だがブラームスが晩年のある時の手紙のなかで「私にはフィガロの結婚は奇跡だ」と言った曲が単に時流に乗るだけで流行り、プラハの多くの人々に歓迎され、いまも至高のオペラとして残ったりするだろうか?やはりプラハの人々は素直にモーツァルトのすごさに敬意をはらい、モーツァルトを認めたのだ。

先にも述べたが歴史的に見れば国立歌劇場がモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」の初演を行った名誉ある劇場ではないが、初演を行った今も現存するエステート劇場は先に言ったプラハ国立歌劇場の前身たるドイツ劇場でもありその精神はそのまま国立歌劇場にも、そしてプラハの街の至る所に漂っているのだ。プラハの街とはそうした雰囲気が如実に感じられる所でもある。あれほどヴィーンこそ我が街と、あれほど思っていると言うのに、プラハに安らぎを感じるのだ、モーツァルトが感じたであろう安らぎと同様に。

古の建物が数多く残っているからだろうか。古都の雰囲気に満ちているからだろうか。ヴァルタバ川が美しいからか。プラハ城が素晴らしく、ビート教会が荘厳だからか。あるいはビールが美味いから・・・だろうか。そうでもありそうでもない。この街には快い「郷土」の雰囲気が、もとより最初から背伸びをする事のないありのままの雰囲気が漂っているのだ。先に行った様に「郷土」と言う言い方が小さいと言うのなら「祖国」の雰囲気と言い換えても差し支えないが、ハプスブルク帝国の帝都として片意地張ってそびえ立つヴィーンなどには所詮この解放された自由な雰囲気などありはしないのだ。モーツァルトを捨てた街と拾った街とのわずかな、しかし、決定的な違いがここにはあるのだ。もちろん、古くからある街の頑なさはプラハにだってあるが、ヴィーンや京都の様な厭くの強い嫌みたらしさはフィガロを愛した人々の雰囲気の為かあまり感じられない。やはり自由を愛し共産主義さえ揺るがせ、当時のソビエト連邦が慌てて軍事介入に走らざるを得なかったこの街の、チェコの雰囲気がそこに如実に感じられる。あの有名なプラハの春での事でありその雰囲気の事でもある。

祖国、郷土と言う言葉がどれ程重要であるかを述べる必要はないと思う。時の流れの中で国民劇場もエステート劇場も国立歌劇場も、ルドルフィヌムも、スメタナホールも祖国の劇場へと浄化されて行ったのが明らかに分かる。それを推し進めて行ったのは外圧であり、強国の支配であり、祖国を誇りに思う虐げられた人々の思いであろう。これらの劇場は単にオペラや音楽を奏で聞きに行くホールではないのだ。今一度言うのをお許し頂きたいが魂の居場所に成り変わるものなのだ。

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4.ドイツと言う呪縛

チェコは4ヶ国からなるヴィシェグラード・グループの一員だ。1991年にポーランド、ハンガリー、スロバキアと相互協力を行う国家関係を築いた。なんと14世紀に同じ様に4ヶ国の首脳が、当時は王と言うわけだが、会議を開いた地がヴィシェグラードでその地で再び600年の時を経て相互協力が約束されたそうだ。この4ヶ国は地続きであり、かつての共産主義国家であったと言う共通点はむろんあるが、それ以上に、強力な近隣諸国に蹂躙され他国の支配下におかれたと言う歴史を共有している。音楽好きな我々が真っ先に思い浮かべるハプスブルク帝国であったり、近年では恐怖のナチスドイツであったりした訳だ。

そうした歴史を抱えているからだろうが、これらの4ヶ国に育まれた芸術は民族意識が非常に高く発露している。音楽に関して言えば、ポーランドではショパンでありハンガリーではコダーイでありチェコではスメタナやドヴォルザークであるのは今さら言う事でもないであろう。抑圧された歴史が音楽により強い民族意識を醸成していったのは想像に難くない。ましてやロマン派の時代である。ロマン派の時代に大きく発展した「表題音楽」や「交響詩」はそうした民族意識を端的に表現するかっこうの表現手段であった。

ここに先ほど述べた「郷土」の「祖国」の意識や雰囲気が濃厚に漂う根源を見る様な気がする。あまりにも有名な「我が祖国」はスメタナの代表作であるばかりか、まるでチェコの国歌の様である。本来の国歌は「我が祖国はいずこ」と言ういかにも支配者によって祖国が奪われた民の歌の様な題名の曲だ。こうしたものを考えると支配される側にあった民族の、それ故に持たざるを得なかった、虐げられたものへの憐憫の情や慰めの心、弱きを助け強きを挫く精神の有り様、堪える為の忍耐力などを感じ、プラハ国立歌劇場の入り口の扉を開いた瞬間にそうした雰囲気を浴びる事になる。いや、そもそもがエステート劇場から始まるドイツ劇場が前身ではなかったのかと問われるであろう。ドイツ人の歌劇場なのにチェコの民族意識をどこで感じるのかと問われそうだ。それには次の様に言う事が出来ると思う。「プラハに暮らすドイツ系の住民」の要求による歌劇場なのだからとである。ドイツ語で話し、血のつながりがドイツ人であろうとも、プラハに根を張って暮らす人々はチェコ人である。確かに1883年に開設された国民劇場に刺激を受けて1888年に開設された劇場と言う歴史的な流れを見ていると対抗している様に受け取れるがそれは誤解だ。

フランツ・カフカに付いて述べる時にその論調はとかくドイツ系ユダヤ人であった事が強調させる様に記述されるものが多い。プラハの出身で有ることは偶然にしか過ぎないとさえ言っている記述さえある。ドイツにそのアイデンティティーを寄りかけようとする論調は確かに決定的な間違いではないが、プラハで生まれプラハで育ちプラハで生涯を過した者が、ましてや繊細な心を持ったカフカが、その属するコミュニティーがどこであろうとチェコ人でなかった訳はなく、ましてやプラハ人でなかったなどと言える訳が無い。一体こうした不毛な論調がなぜ出て来るのかまったくわからない。プラハ国立歌劇場も又、しかりではないだろうか。まぎれもなくプラハ国立歌劇場にはチェコの、プラハの風を感じる。ドイツ劇場であったからと言って、ドレスデン国立歌劇場やベルリン国立歌劇場と同じ様なものだと言うのはあまりにも乱暴に過ぎると言うものだ。歌劇場はその建った土地の風土や人々の有り様に間違いなく影響され添い従うものだ。プラハ国立歌劇場はやはりプラハの歌劇場であるし、言って良ければボヘミアのチェコのスラブの歌劇場なのだ。そこには「郷土の」歌劇場の姿が間違いなく有るのだと言える。その歴史の始まりから直接にドイツの精神的支配を受けておりドイツの呪縛に捕らわれた歌劇場なのだと誤解したままではプラハ国立歌劇場の有り様を過つであろう。試しにプラハ国立歌劇場に入ってその風を感じてみればその誤解は解けると思う。

5.国立歌劇場の成りたち

プラハ国立歌劇場は冒頭から述べたヴィーンなどとの比較の様に威厳や権威にまみれた他の歌劇場に比べれば遥かに親しみ易い身近な存在をそこに見出すのだ。何度も言うが「郷土の」あるいは「祖国の」雰囲気である。それはプラハの街並みにもよるのだろうか。プラハは中世が色濃く残る街である。別名百塔の街とも言われている。神聖ローマ帝国のカレル4世の当時、だから600年も前にプラハは今の佇まいを既に持っていた。カレルいや、カール4世は芸術に深い理解を示した王だと言うがそうした歴史がプラハの雰囲気の根源にあるのだろうか。この王の時代にプラハは神聖ローマ帝国の首都になった。「郷土的」だなどとかつての神聖ローマ帝国の首都にまでなった街を評するのは何か間違いを犯している様な気にさせられるが,そうとでも言うしかない雰囲気を感じそれを拭い去ることが出来ない。又、この歌劇場の公演プログラムを見た時、そこに登場する歌手にしろ演出家にしろ、指揮者にしろチェコ語の表記と共に紹介される人々があまり馴染みのない事もあり地元の出演者というイメージが付いてしまいローカルな感覚が助長されてしまうと感じる為にますます「郷土的」と思ってしまう側面があるのかもしれないと正直に書いておく事にする。

プラハにこの神聖ローマ帝国時代の王から続く雰囲気と言ったものが感じられるだろうか。国立歌劇場に付いて言えばそうでもありそうでもない。この歌劇場はヴィーンの設計事務所フェルマー&フェルナーとカール・ハゼナウアーが設計しプラハの建築家が工事を行った。やはりハプスブルク帝国の都市である。建築設計にもヴィーンのおおいなる影響が働いていたのだ。ハゼナウアーはゴルフリート・ゼンパーの弟子にあたりリンクシュトラーセ沿いのブルク劇場を設計している。偶然だがリンク添いのブルク劇場が完成したのも1888年でプラハ国立歌劇場と同じ年だ。ハプスブルク帝国の歌劇場はこの様に微妙なつながりを持つのはやむを得ないと言うことだろう。歌劇場はやはりどの様な雰囲気に満ちていようとも皇帝等の支配者とその勢力圏と共に語らなくてはならない側面があることは避けて通れない。と言いながらプラハ国立歌劇場は劇場を求める人々の募金活動などにより建てられたとも聞いたので、皇帝の命令で建ったものではなさそうであり、親しみ易さが感じられるのも的外れな感想ではないかもしれない。

1990年代初頭にはプラハに行くにはビザが必要だった。わざわざチェコの大使館に赴いてビザの発給を申請したものだ。パスポートに一ページ分の大きなビザ証明の捺印を貰うと妙に厳粛な気持ちになったものだ。今でも勿論ビザの申請が必要な国は沢山あるが、現在旅人にとってチェコがビザの申請を必要としないのはありがたく気楽であり、プラハの雰囲気をそのまま感じることでもある。ビザの扱い一つに現れる様に、ベルリンの壁が崩れ去ってから現在に至るまでの間にどれ程の変化がプラハに訪れただろうか。昔を知る人の話を聞くと有名なカレル橋も人の姿はまばらで自由に歩けたそうだが、今では観光客で埋まり通り抜けるのもままならない。「郷土的」であろうとなかろうと国立歌劇場も観光でプラハを訪れる人々を積極的に受け入れる姿勢だ。オペラと言う大きな予算を必要とする芸術を維持して行く為にはもはやその歌劇場のある都市に住む地元民の観客だけでは難しくなりつつある昨今において当然の流れだろう。ヴィーン国立歌劇場も観光客の聴衆で持っているのではないだろうか。

6.プラハの街並み

自由を手にするとともにプラハも否応なしに市場経済の波に洗われ始めた。ゼンパーオーパーの章では資本主義に負けたのだと過激な発言をしてしまったが、このプラハでも経済体制の変化による影響は著しい。ビロード革命直後、まだ顧客サービスなどと言う意識があまり感じられない場面を見聞きした時に比べると急速にプラハは観光都市としての居心地の良さを手にしている。最近ここを訪れた人々の話を聞くとヴィーンなんぞよりよほど観光客への対応が柔らかく心地良いと口をそろえる。モーツァルトどころか現在の観光客からもプラハの評価の方が高いぞ、何をやっているのだヴィーンとつい言いたくなってしまう。

欧州のどの街でもそうかもしれないが、プラハでも広場が中心となり都市の機能や人々の流れや、時には思想や、政治的な動きが起こる。ヴァーツラフ広場やヤン・フスの像がある旧市街広場は観光の名所にもなっている。プラハの春で蹂躙された広場であったり、民主化運動で人々が集った広場である。ヤン・フスの悲劇的な物語は宗教改革の先駆者としてルターや、カルヴァンより100年も前にキリスト教の真正な道を説いた英雄として今でも語られている様だ。チェコやこのプラハを思う時に、歴史の流れを先取りしていた街と言う印象が強い。それでいながら歴史的な建造物が数多く残り過去の遺産を大切にしている不思議な魅力に溢れた街だ。プラハ本駅の側に位置するプラハ国立歌劇場もそうした魅力の一部を成してる。温故知新と言う言葉が浮かぶ。歴史を先取りする様な動きは、歴史を知り、古い物を愛でる意識がなければ出来ないのではないか、プラハとはそういう街であり歌劇場はそう言う歌劇場なのだ。歴史を先取りすると言えば直ぐに前衛的な演出と時代の先端を走る思想とを押し付ける、今一度言うが押し付ける!出し物を舞台に乗せようとする現代の歌劇場を思うかもしれないが、プラハ国立歌劇場は歴史を知り、古い物を愛でる事の方に遥かに大きな比重がある。無意味な演出や歌劇場の舞台の上で歴史を先取りしなくてはならないと言う強迫観念に支配されてはいない。穏当な出し物が多いけれどそれは好ましい事の様な気がするのは保守的な者の繰りごとに過ぎないかもしれない。いやはっきり言えば「トリスタンとイゾルデ」の第一幕の冒頭で登場する船が豪華客船でデッキチェアーが並べられ青空の下、物語が始まる事を、あるいはタンホイザーが吟遊詩人でなく画家であるなどと言う事態を受け入れがたい者には、例え保守的で年寄り染みた考え方だと笑われようと演出の暴走を他人事のように見ているのは耐えられない者には、現在のオペラの演出が自身過剰で、独りよがりで、意味不明で、脅迫観念的で、極端な舞台経費の節約を強いられていて、読み替えが過ぎていて、要するに革新の為なら何をやっても許される、歌劇場とは実験の場なのだと不遜に言う輩をおかしいと思うのだ。実験の場になど立ち会いたく聴衆は沢山いるのだ。人を実験の比検体になどしないでくれと思う聴衆は沢山いるのだ。オペラは最後には音楽と歌手が最高の演奏と演技をしてくれれば確かに背景となる演出のあれやこれやの不可解さは薄れるが、それにしても解釈の実権場の様な舞台は度が過ぎると思うのは私だけだろうか。

話がそれてしまったが、プラハには自由を愛し自由を尊ぶ人々がいるが、自由とは何をやっても良いのだと勘違いしている雰囲気は感じられない。プラハ国立歌劇場はそんな雰囲気を感じさせる。ハプスブルクの都市であった事が関係しているのだろうかヴィーンと同じ様な赤に塗り分けられた市電が行き交う街中で火薬塔などの古い建築物を観、カレル橋を渡り、坂を上ってプラハ城にたどり着けばプラハの街の香りと空気と風を感じる事が出来る。そして今宵、国立歌劇場に足を運べばプラハの歴史が語りかけるような気がする。歴史がである。無用な思想だの解釈だのを押し付けるいやらしさが無い。前衛的な演出がなされる時でも節度を感じる。同じ演出を他の歌劇場でやればきっと嫌みたらしさを感じるかもしれない演出でもプラハでは素直に受け入れられる様な気がする。信頼を感じるからかもしれない。ここではどの様な出し物でもオペラの持つ本質的なものを醜く変形させてしまう様な事はけしてしないと感じさせてくれるのだと思う。プラハの街をそぞろ歩き、街の声を聞くと自然にそんなふうに思えて来る。

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7.そして国立歌劇場とは

この歌劇場で過去の演目を見るとヴェルディの椿姫(トラビアータ)がかなり頻繁に上演されている。それは確かにトラビアータは世界的にも人気のある演目であるし、本日世界中の歌劇場の演目に目をやれば何処かで上演していると言える演目ではある。事実あまり観劇する機会に恵まれているとは言い難いにも関わらずトラビアータはあちらこちらの都市と歌劇場で観劇して来ているのを思うとトラビアータが人気の演目で頻繁に上演されているのは認めざるを得ないが、なぜプラハではトラビアータをこれ程多く上演するのだろうかと考えてみたくなる。それは今までの話の様に自由に生きるヴィオレッタの姿に自由を愛するプラハの人々が自由そのものを感じたからだろうか。最後にヴィオレッタが死んだ時、初めて永遠の自由が得られるとの思いを重ね続けて来たからだろうか。単に人気があるからと言うだけではない何かがある様な気がする。

毎年毎年回を重ねて上演されるトラビアータに何か特別な意味を見出そうとしても無駄かもしれない。こちら側の思い込み以外の何物でもないからと笑われるかもしれない。プラハの人々がその出し物が観たいだけなのかもしれないからだ。モーツァルトの様に旅が人生の一部だった作曲家と違い、引っ越しこそけた外れにおこなったが、あまり旅をしなかったベートーヴェンがこの街を訪れている。プラハに刺激されて、あるいはプラハの為に作曲された曲がある訳ではないが、ベルリンへの旅の途中に訪れたハプスブルク帝国の都市をベートーヴェンはどう感じたのだろうか。勿論トラビアータは後の世の作品だが、ベートーヴェンも自由の風を感じたろうか。若きベートーヴェンにとってのプラハとはどの様な街であったのだろうか。

あれやこれやを止め処なく想い浮かべプラハの街を彷徨い歩くとやがて天文時計の前に出る。1410年に制作され度重なる改修、改造と戦禍に遭いながらも今も時間を刻む時計台を見上げて思うのだ。プラハ国立歌劇場は天文時計に比べればかなり後年のものではあるけれどそこに存在する物に対する慈しみの心が同じ様にあるのだと思うのだ。存在を普遍へと誘う、「ある物」を「あるべき物」へ昇華させる魂のけして声高で無い囁きが感じられるのだ。

旅の続きで出会ったのは、民族の誇りたり得る歌劇場だ。けして大仰では無い、むしろ密やかに、己の有り様を指し示す歌劇場だ。そこにはなんと多くの想いが込められている事か、それをこちらもなんと多く感じる事か。密やかに、そして質素に。

※プラハ国立歌劇場の中はかなり豪華な気分にさせてくれる。それはそれで正しい事だ。歌劇は一夜の夢幻の世界でもあるのだから。密やかに、質素にと気分をあらわした言葉を続けたが、歌劇場自体がシドニーの様に実質的に質素と言う表現では馴染まないと思う。欧州の典型的なオペラハウスの嗜好と姿を持っているのは当然と思う。