第6回「ベルリン国立歌劇場」

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ベルリン国立歌劇場 天井シャンデリア

ベルリン国立歌劇場

伝説の指揮者フルトヴェングラーがこの歌劇場のオーケストラピットに佇んでいる姿を想像する。ナチスとの途方もない緊張関係の中で彼の指揮者がいかにより良い演目を上演する事に心をくだいたかは想像に難くない。フルトヴェングラーはただ素晴らしい音楽をドイツの伝統の元で実現したかっただけだろう。その事は又後ほど語ろうと思う。

1.プロイセンの威圧と第三帝国

ウンターデンリンデン。菩提樹の下と言う何ともロマンチックな名前の大通り沿いに国立歌劇場はある。王宮から狩り場に行く並木道がウンターデンリンデン通りの由来だ。西の方からブランデンブルク門をくぐりしばらく歩いて行くとやがて右手に歌劇場の建物が見えて来る。特別に威圧的であるとか豪奢である様な建物では無くさりげなく辺りの他の建物と調和してひっそりとたたずむ建物が国立歌劇場だ。調和して?威風堂々たるザクセン国立歌劇場の様な建物を想像して初めて訪れた時、同行者にあれがベルリン国立歌劇場だと言われた時は即座に認識出来なかった。ベルリン国立歌劇場と言う名前には圧倒的な何かを表現している様な巨大さや威圧感さえ感じていたからだ。それはかつての大ドイツ帝国の、あるいはプロイセンの威圧的な空気を連想させる響きを持っているからだ。強国プロイセンの首都ベルリンと言う街の歌劇場と言うゆるぎない雰囲気に満ち満ちているからだ。フルトヴェングラーとナチスの軋轢の舞台ともなった歌劇場だからでもある。プロイセンと第三帝国、ベルリン国立歌劇場を語るにはまずこの二つの力の論理で周囲の諸国を押さえ付けた強面の国家の事を考える事から始めよう。

我々は第一次、第二次世界大戦で世界戦争の中心となった強面のドイツは遥かな昔から強力な統一国家を成していたと自然に思ってしまうが、世界史を学ぶと実はドイツが統一国家となったのは1871年だと言う意外な事実を学ぶ事になる。そしてさらに中世の昔から統一国家として中央集権を築き上げて来たパリやロンドン、ヴィーンなどの諸都市と違いベルリンはある時突然大帝国の首都に成りあがった事実を知る。ドイツはそれまでバイエルンやザクセン、プロイセン等の王国がそれぞれ国家であった。鉄血宰相ビスマルクが登場していささか強引にプロイセン主体で統一がなされプロイセンの王ヴィルヘルムT世がドイツ皇帝となった。ドイツはそれまで統一された国家では無く幾つかの王国の集合体だったのだ。この統一ドイツ、現在のではない、をナチスは第二帝国とし、自らの帝国を第三帝国と不遜にも呼んだ。では第一帝国はと言うとそれは神聖ローマ帝国なのだそうだ。

こうしてベルリンはドイツ帝国の首都に成りあがった。あなたがベルリンを訪れその空気に触れた時に他の国の首都と違った何かを感じたならあなたは非常に鋭い感性を持っていると思って良いかもしれない。それはベルリンの壁で仕切られた歴史のせいばかりでは無く、いきなり帝国の首都に成りあがった街の特異性を感じたからだと言えるかもしれない。

地図を眺めるとベルリンがドイツの国土全体から見たらずいぶん東の方に位置している事に気が付く。少し離れているが大河エルベの東に位置しているのも分かる。私は欧州での列車の旅が好きで時間に余裕がある時はなるべく列車の旅をする様にしている。スイスの列車の旅などはそのアルプスの圧倒的な風景を車窓に眺めながら至福の時を過ごせるので大好きだが、そうでなくてもやはり列車の旅は特別に鉄道マニアでなくても楽しいものだ。それにしても列車の旅をなるべく希望していてもドイツ国内を移動するときにはなぜか時間の余裕がなく列車をめったに利用しない。そんな中でもミュンヘンからドイツ国内ではないが、ヴィーンへの列車の旅は何度か楽しんでいる。車窓の豊饒な大地の恵みを感じさせる風景や時折現れる教会を中心とした町を飽きることなく眺めて過す。ザルツブルクを過ぎリンツを経て行く旅は列車の旅を充分に楽しませてくれる。そんなある時ベルリンからドレスデンへの列車の旅をする事になりうきうきした気持ちで列車に乗り込んだのを覚えている。だがその車窓の風景は私に少しも列車の旅の楽しさを与えてくれなかった。雑然とした殺風景な灰色の風景がずっと続いているのだ。大きな町がある訳でもなくただ荒れ野の様に見える畑や小さな町が時折思い出した様に現れる風景に大地は何も恵みを与えてくれないのだろうかと寂しい気持ちになった。秋の枯れゆく風景だけを見て判断するのは間違いだろうがそれ以来ベルリンからドレスデンへの列車の旅はする気が起きない。後になぜその様な寂しい印象しか得られなかったのか、その理由をあれこれ考えたがなかなかこれはと思う理由が浮かばなかった。

ある時ドイツの歴史の資料を読んでいるとエルベ河の東は植民地だったと記述があった。丁度、日本の北海道の様な感覚だろうか。未開の原野が広がっておりそこに入植地としてベルリンが出来た事になる様だ。神聖ローマ帝国の時代からブランデンブルク辺境伯が統治していた史実が初めて理解出来た様な気がした。「辺境伯」とは文字通り辺境の地を統治する事だったのだ。成る程、植民地、未開の原野、辺境の地、その雰囲気や印象や実質的な状態が未だにベルリンからドレスデン間には残っていてそれがうら寂しい風景を形造っていたのだ。ホーエンツォルレン家にしろ他の支配者にしろそうして未開の地の辺りを開墾しながらベルリンをゆるぎないプロイセンの首都に作り上げ、富国強兵のもとに威圧感たっぷりの軍事大国を成していったと言う事だ。オーストリア継承戦争ではマリア・テレジアからシュレージエン地方を分捕り軍事大国の力を見せつけ領土拡大の実利さえ得たのだ。

プロイセンと言う威圧的な響きを持った強面の王国は力の理論で領土を拡大しやがて大ドイツ帝国のトップに落ち着く。バッハやモーツァルトの本を読めば必ず出て来るフルートの名手でもあり名手クヴァンツを擁するフリードリッヒ大王はプロイセンの王であり彼の物語を読めば成程プロイセンと言う軍事大国であり威圧的な強国があった事が理解出来よう。フルートの名手と言う装飾語にごまかされるが強面の王は富国強兵の後のビスマルクに通じる政策を推進したのだ。又、フルートの名手だから音楽芸術を深く理解していたなどと誤解してはいけない。音楽が好きであったのだろうけれど音楽を理解していたかどうかは別の問題だ。御膳演奏で大バッハにいきなり6声の即興を求めるなど、後の音楽の捧げものの事をからめて言っているのだが、いかに名手バッハと言えども無理難題だ。大バッハに恥でもかかせたかったのだろうか。大王にとって音楽は自己顕示欲と権力誇示の一部でしかなかったのではないかと思うし多分そうであろう。R・ヴァーグナーの楽劇に溺れたルートヴィッヒ二世の様に狂気と純粋さの紙一重のところに己の運命を投げ出した愛すべき、そして悲しき芸術の守護者とは根本的にまったく違うのだ。

その富国強兵の威圧の下にプロイセンはナポレオンとの負け戦を経験し、ビスマルクの思惑にのり、第一次大戦の敗戦国となり、享楽的な1920年代を過し、未曽有の不況を経て、そしてあのおぞましい第三帝国へと道を歩む。ナチスが政権を取ったその瞬間に全ての正義は凝固して動きを止め、絶望におおいつくされた日々の幕が開いたのだ。ヴィーンで画家になりたかった男が、画家にはならず、いやなれずに独裁者となり民族の抹殺を声高に叫び破滅に向かって前進を始めたのだ。

ベルリン国立歌劇場は第二次大戦で敗戦を迎え再建されるまでこの破滅の帝国の首都の歌劇場となり否が応でも厳しい体験を強いられる事になった。統一された大ドイツの首都になど成り上がらなければこんな過酷な運命をたどることも無かったかもしれない。もっと平和で安らかな歌劇場の歴史が積み上げられたかもしれない。歴史にもしもは無いけれど率直にそう思わざるを得ない。

2.過酷な運命

先にベルリン国立歌劇場を即座にそれと認識出来なかったと述べたが、格別歌劇場の建物が貧弱な訳ではない。個人的な思いがいささか強かったと言うだけの事だ。なんといっても歌劇はまず楽しみの為にそして喜びの為に、あるいは人生を思う為にある物だからであり特別な感情や偉大なるもの強大な物を祭る殿堂ではないのだから、建物が威圧的であったり目だったりする必要は何も無いのだ。もちろん支配者の、都市の、教養の高さを示す為の装飾として歌劇場が存在する面は否定はしないがそれは本質的なものとはほとんど関係ないものだ。

改めてウンターデンリンデンの対岸から国立歌劇場を眺めると写真で知られた建物がそこにありそれは親しみのある表情をしている。ここで今宵は「ドン・ジョバンニ」をあるいは「トリスタンとイゾルデ」を或いは何でも良いのだが聴けるのだと言う期待は、プロイセンの威圧的な何かとは関わりの無い別の感情を持って湧き上がってくる。もちろんそれは他の歌劇場と何も変わらぬ感情で特別なものではない。オペラを聞くのだと言うただそれだけの事なのだ。では何がベルリン国立歌劇場を他の歌劇場と違う雰囲気に満ちさせ、何か特別で何か過剰な思いを懐かせ、あるいは区別したくなるものを持っている様に私に感じさせるのだろうか。

ベルリンと言う都市はいきなり帝国の首都の成りあがったという事の他に独特の歴史を持っている。もちろん誰もが知っている冷戦時代の東と西に分けられた特殊な状況の事だ。運命はベルリンの壁と言うたった一本の線で分けられてしまった。栄光と伝統あるベルリン国立歌劇場は東ベルリンの物となった訳だ。その共産主義に付随して起こった停滞と言える状況がベルリン国立歌劇場を他の歌劇場と区別する何かを生み出す要因として感じるのであろうか。

確かに思想弾圧を平然と行う主義主張を持った政治体制が常に自由な主義主張を発信する芸術と相入れないのは自明の理だが、とかくそうした冷戦時の後遺症、あるいは弊害に自然に目が向いてしまうのは、東西分裂と言う尋常ならざる出来事の前ではある程度致し方のない事ではある。いやいや、第1次、2次世界大戦の前どころかフリードリッヒ大王の時代から存在するベルリン国立歌劇場が、かつては当たり前だが宮廷歌劇場だ、共産主義の下に何か特別な物を得た、あるいは失ったが故に他の歌劇場と違うのだなどと議論するのはおかしな事だ。何も得なかったどころか失う物の方が遥かに大きかったであろう。敢えて言わせて貰うなら失う物が大きいから他の欧州の歌劇場と違うと言うならそうかもしれない。

だがそれ以上にこの歌劇場はやはり冒頭に述べた様に伝説の指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの思い出と密接に関わりがあるのだ。そしてそれ故にベルリン国立歌劇場は他の歌劇場と区別すべき特別な物を持っていると考えたとしたらそれは間違っているだろうか。フルトヴェングラー以前から続く歴史の中に他の歌劇場には無い何かがあったのではないかと言う考えはひとまずおいてフルトヴェングラーとの関わりの中からベルリン国立歌劇場について考えてみたい。

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ベルリン国立歌劇場正面

あのおぞましい全権委任法が国会を通ったその祝典でフルトヴェングラーはベルリン国立歌劇場で「マイスタージンガー」を振っているのだ。ナチスの血なまぐさい弾圧と破滅が始まるその前奏曲として。フルトヴェングラーはそんなおぞましい祝典の指揮などしたくは無かったかもしれないが、当時のドイツ国民の大多数が支持したナチスの正体はまだ露呈してはいなかったので祝典の指揮を執るのは致し方が無かったかもしれない。いや、フルトヴェングラーと言えども祝典の指揮を断る蛮勇を振るえる様な世情で既になかったのかもしれない。フルトヴェングラーは彼なりの考えと行動によりナチスと対決を繰り返したが、どう見てもゲッペルスをはじめとするナチスの方が上手でありフルトヴェングラーは次第に追い詰められていった。戦後、なぜドイツに残りナチスに協力したのかと断罪されたフルトヴェングラーであったが、ドイツに残る限り、そして指揮台に立つ限りどの道ナチスに利用されるのは避けがたい事であった。断罪者達は利用されるのは分かっていたはずでありそれを承知で残ったのだから協力したのと同義語だと主張する。なるほど消極的なナチス肯定と取る事は出来よう。だが、そんなに単純な事であったろうか。フルトヴェングラーの行動を見ているとけしてナチスを肯定している様には受け取れない。むしろ自分の主張が通るはずだと言う子供じみた思いがあった様に見えて仕方が無い。ヒンデミット事件しかりであり、ユダヤ人音楽家擁護しかりである。フルトヴェングラーは偉大な音楽家として認められている自分が擁護すればそれは通るはずだと見込んでナチスにたて付いたと読み取れる行動をしている様に思えてならない。

何故ドイツに残ったのかを推測してみる限り、それはやはりどんなに酷い国になり果ててもそこが懐かしく麗しい祖国であったからであると言っても言い訳にもならないのかもしれないが、それでもそうとでも考えなければフルトヴェングラーがドイツに残った理由が思い当たらない。フルトヴェングラーはカラヤンの様に時の権力者を利用して高みに行こうなどと言う野心は無かった。いや、当時のフルトヴェングラーは既に音楽家としては最高の地位にいたではないか。フルトヴェングラーにあったのは「ドイツ」音楽に対する愛と忠誠心であった。それと、少しばかりの他者に対する嫉妬心がないまぜになっている。

そしてフルトヴェングラーが望もうと望まざろうといずれにせよ運命の日に「マイスタージンガー」の指揮棒を振りおろしてしまったのだ。過酷な12年を送る為に、よりによってこのベルリン国立歌劇場のオーケストラピットの中で。

その事実がベルリン国立歌劇場をプロイセンの威圧やワイマールの乱痴気騒ぎ以上に重く強迫的な物を感じさせる歌劇場にしているのかもしれない。そして戦後の共産主義統治の時代。我が国においては親しみのあるオトマール。スウィートナーが率いる歌劇場であるにも関わらず重く陰鬱な影を感じるのはこの歌劇場が時代に、時の権力者に翻弄されて来たからからでありそれも他の欧州の歌劇場とは違い、ナチスと言う特異な権力者の直接の支配下におかれた歴史があるからだと言えようか。それに続く共産主義の時代も含めるとその重さや陰鬱さはさらに倍加した印象になる様な気がする。

長らく音楽監督を続けているダニエル・バレンボイムはそうした歌劇場の歴史的位置を最も敏感に感じ取っている音楽監督ではないかと思う。ヴィーンの新年の指揮台上でパレスチナの地に安寧が訪れる様に発言したバレンボイムはフルトヴェングラーの信奉者であるからでもあるが、それだけではなく、かつてこの歌劇場を支配したナチスの亡霊と今も如実に存在するユダヤ人差別に一矢報いる為に、さらにはそれゆえに起こる悲劇を断ち切ろうとする為にベルリン国立歌劇場を率いている様に感じるのは深読みに過ぎるだろうか。

多分、欧州中の他の全ての歌劇場とは違いベルリン国立歌劇場は劇場内部における権力闘争では無く近代の国家の権力者の権力闘争の表舞台に引きずり出された不幸な歌劇場と言えるのではないだろうか。歌劇場の実権を握る事がそのままナチスの内部における権力の掌握につながり、フルトヴェングラーは見事に利用されたのだから。王侯貴族の時代では無く近代においてその様な歌劇場はベルリン国立歌劇場だけではないだろうか。もちろん現代においても歌劇場はある種の権力闘争の舞台になりはするが、その歌劇場に関わる支配権がそのまま国家を揺るがし体制を変えるに影響する権力闘争の舞台となったのはこの不幸なナチスの時代が最後であった様な気がする。文化大臣、教育大臣が更迭されるなどと言う控え目な現代の権力闘争とは訳が違うのだから。もっと有態に言うなら幾百万の人が殺戮され幾百の都市が破壊されるか否かの違いでさえもあったのだ。その過酷な運命をベルリン国立歌劇場は眺め、運命の舞台となり、大げさに言うなら過酷な運命を担わされたのだ。ベルリン国立歌劇場はオペラハウスとしての喜びに満ち溢れた歴史を刻んでこなかった、いや、出来なかったオペラハウスだったのだ。それであるからこそ、この歌劇場の事を思った時に暗く陰鬱な印象を懐かざるを得ないのだと思う。だから、他の歌劇場とは違った何かを感じ取る事になる。

3.ベルリンの壁

フルトヴェングラーの時代は遥か昔の事になってしまったがオトマール・スウィートナーの時代もまた昔の事になってしまった。当時はもちろん東ドイツ圏の歌劇場であり共産主義体制の下で運営されていた。西ベルリンでは対抗してベルリンドイツオペラを国立歌劇場に変わるものとして再編成した。我が日本にベルリン国立歌劇場が来日公演を行った時はタンホイザーの牧童役で出演した歌手が亡命騒ぎを起こして音楽やオペラに関心の薄いマスコミでも話題になった。ここで当時の共産主義体制を語る事はしないが、彼の主義や体制がいかに進歩と言うものと相いれなかった、芸術の革新に不向きであったか、芸術の革新を阻んで来たかは「共産圏のオーケストラには昔の古き良きドイツの音が残っていた。」と言う言葉で表わされるだろう。典型的な例で言えば頭の悪い当時の各国の共産党の支配者達は前衛芸術の存在が理解出来ず、自分に分からない物は禁止した。「存在が理解出来ず」と記した。「前衛芸術が理解出来ず」では無い、それ以前の問題だ!何故芸術が前衛的な方向に向う一面を持っているかと言う必然性を理解出来ず前衛芸術が登場する意義が理解出来なかったのだ。まったくお気の毒にと言うしかない。あるいは前衛芸術の革新性を容認していると共産主義と言う人間性を無視した体制がいかに愚かしいかが露呈してしまうから理解出来ないふりをした若干頭の良い支配する側の馬鹿も皆無ではなかったかもしれないが、人間の深い精神活動の根源を理解出来ずとも、少なくとも感じる事が出来ない、感じないふりをする馬鹿が支配者になれば人間性を否定する政治に直結するのが分かると言う70年もかけて証明された不幸な例だ。

それらを不幸な時代であったからと言うは容易い。複雑な政治と世界情勢と国家間の野望とを取りまとめて不幸な時代と言えばそう言える。又、ナチスに続き共産主義が支配権を獲得した時代も不幸な時代が重なったと言えるだろうが、安易に一言で言い表す事は何かお手軽に過ぎて言葉を飲み込んでしまう。事もあろうにベルリン市民の心の支えである栄誉あるベルリン国立歌劇場にベルリンの市民の半分が観劇に行く事が出来なくなってしまった。ベルリンの壁と言う一本の線の為に。

1989年にそれこそあっと言う間に崩れ去ったこのベルリンの壁は何だったのだろうか。とどのつまりは路上の土産物売りが並べているコンクリートと石の塊でしかなかったのだが、この壁の為に幾千の人々が犠牲になり幾万の悲劇が繰り返されたわけだ。厳しい犠牲の数々を横に差し置いてベルリン国立歌劇場に観劇に行くことが出来なくなった「西」ベルリンの人々も悲劇だったと言うと、たかがオペラを見る事が出来なくなった程度で何が悲劇だとお叱りを受けるかもしれないが、何時も通っていた歌劇場にある日突然行けなくなれば悲しいものだしオペラファンにとっては悲劇であるのは間違いない。先ほど述べた様に西ベルリンではベルリンドイツオペラを国立歌劇場の対抗馬として擁護し発展させた。やはりオペラハウスは必要なものなのだ。このベルリンドイツオペラについては又、別の機会を設けて話をさせて頂ければと思っている。

繰り返すがベルリンの壁とは一体何だったのだろう。力の理論で押し切ろうとしたプロイセンや第三帝国に対する周辺諸国の復讐だったのだろうか。ソビエト共産党と自由主義経済圏との衝突の最前線であった今さら言うまでも無い歴史的事実や自由を求めて西側に流出する国民を囲い込む為の力ずくの手段と勿論それは分かっているが、それにしても随分と直情傾向的な手段に訴えたものだと異国の旅人はブランデンブルク門の前に立ち思う。強面の軍事大国ドイツなど解体してしまえと周辺諸国は本気で考えたかもしれない。分断や解体は望むところだった。何も共産主義対自由主義の反目の最前線としてのベルリンの壁だけでなくドイツ解体のシンボルと虐げられた周辺諸国は思ったかもしれない。

しかし、東ドイツ、東ベルリンと同じ様に共産主義に取り込まれた周辺諸国も、いや周辺諸国の国民も共産主義に苦しめられる様になった。プラハの春が象徴しビロード革命へとつながるうねりは止めようがなかった。ハンガリーが国境を開放してあっと言う間にベルリンの壁は崩れ去った。あの壁は単に人間が愚かである事の具象でしかなかった。壁の破片を舐めれば苦い人間の愚かさの味がするかもしれない。

ベルリン国立歌劇場は再び全ベルリンの下に戻って来た。既に西で大きな存在感を示しているベルリンドイツオペラとの兼ね合いなどの諸問題は今でもあるけれどともかく国立歌劇場が全ベルリンの市民達のものとなって戻って来たのは喜ばしい事だ。周辺諸国は再び統一の成された大ドイツに警戒感を露わにしたが、幸いな事にクーデンホーフ・カレルギーの唱えたEU共同体へと邁進した「ヨーロッパは一つ」の思想がかつての強面の強国ドイツの印象を薄めてくれた。ドイツは己の分をわきまえかつての様な強権的な行動や発言を一切控えて親密感を打ち出した。全ての諸問題は解決に向かい万事めでたしで終わるはずだったのだが、ドレスデン国立歌劇場の章でも述べた様に資本主義が挫折し深刻な経済停滞が蔓延し始めて劇場経営を圧迫しだした。さらにベルリンの壁が崩れたその日に恒久的な世界平和も訪れると単純に思っていたがそうはならなかった。同時多発テロが新しい不安の時代の幕を開けた。今度は文明の衝突だそうだ。世界平和はかくて崩れ去り、資本主義はそのシステムが硬直化し始め国家間の新たな対立の火種は引きも切らない。やれやれうまくは行かないものだ。

4.軍事大国

ベルリンの郊外に電車で出掛けると直ぐに深い森の中を列車が走りだし、大都会から今しがた出て来たばかりとは思えない風景となる。西に向かえばベルリンの中央から半時間程でポツダムに到着する。そう、日本人なら必ずこの街の名前を聞いたことがある街、ポツダムである。ベルリンの衛星都市の位置づけになるだろう。中央駅にはショッピングセンターがありそこのスーパーマーケットでチョコレートやお菓子を買えば立派お土産になる。それはそうとこの街はフリードリッヒ大王の街でもある。大王は首都ベルリンで政治を司らなくてはならないのにポツダムのサンスーシ宮殿に籠り生涯の半分を過した。成る程ポツダムはベルリンなどに比べると明るく華やかな光を感じる。大王がお気に入りだったのが何となく分かる。そしてこのサンスーシ宮殿の敷地のさらに奥にはフルトヴェングラーが暮した家もあった。いまでこそフランス風の名前が付けられた宮殿など文化的側面が押し出されるポツダムだがかつては軍事大国プロイセンの軍隊駐留地だったのだ。強面のプロイセンの面目躍如たる街でもある。我が日本の明治政府がなぜその範をドイツに取り他の欧州諸国を範としなかったのかは、振興著しい当時のプロイセンこそこれから世界にのしてゆく日本の良い手本だと考えたからに他ならない。要するにドイツの尋常ならざる成り上がりぶりにこれから成り上がろうとする日本は憧れを頂いたのだ。当然軍隊中心の政治をプロイセンさながらに行った。

拙い模倣はその程度でしかなかった。軍事大国への道ばかりを模倣したが、文化的な側面を模倣する事、あるいは自国の文化を伸ばす事は極東の文化後進国には出来なかった。強面のプロイセン、軍事大国へと向かったフリードリッヒ大王でさえ、ベルリン国立歌劇場の前身ベルリン宮廷歌劇場の建設を指示し1741年に工事が始まっている。成る程だてにフルートなんぞを己のアクセサリーに携えている訳ではないのだと取り敢えず納得する。

何度も話すことになるが、歌劇場はある時は文化に理解のある事を示す格好の材料であるし、社交場としての機能を持ち、政治的決断を下す場でもあった。当然娯楽の場でもある訳だが、王侯貴族が歌劇場を建てよと指示を出すのは純粋な音楽、オペラ芸術の庇護者たらんとする為だけではない。あらゆる種類の、と大げさに言うが、あらゆる種類の思惑、下心を内包していると邪推して間違いない。とにもかくにもこうして強大な軍事大国の道を歩む富国強兵のプロイセンに似つかわしく無い文化と芸術の殿堂ベルリン国立歌劇場の歴史は始まった。残念な事に軍事大国としてのドイツは第三帝国において最高潮に達してしまった。大王の時代から300年も休むことなく軍事大国であり続けたドイツは総統の自殺をもって第二次大戦が終結するまで軍事大国のままだった。まったく御苦労さまな話である。軍事大国などと言う物がいかに非生産的であるのか300年かけないと分からなかった訳だ。いや、花の1920年代を忘れていた。この時ばかりはワイマールの華やかな退廃の香り豊かな文化が咲き誇りはした。それは一過性の熱病の様なものだった。あっと言う間に弾圧と恐怖の第三帝国がそれらを退けた。1929年の世界恐慌を忘れたわけではないが、それはきっかけでしかなかった様な気がする。

ベルリン国立歌劇場とは軍事大国プロイセンの、つまりは大ドイツ帝国の、すなわち第三帝国の歌劇場であった。他の欧州の歌劇場もその様な、国家の歌劇場と言う色彩を帯びたものがかなりあるにも関わらず、ことさらベルリン国立歌劇場が重く感じられるのは、軍事大国の歌劇場であり、フルトヴェングラーの悲劇が強く対比するからだ。ヴィーン贔屓の、マリア・テレジア贔屓の私などは「汝は結婚せよ」との政策により大帝国を築いたハプスブルク家からどさくさにまぎれて軍事力により領土を奪った強面のプロイセンに共感などおぼえない。軍事大国プロイセンの武力による強引さがベルリンの壁の悲劇へと直結していると思えて仕方がないのだ。ベルリン国立歌劇場はその悲劇の犠牲者でもあったと思えてならないのだ。

5.歌劇場の椅子に座り

さて軍事大国の歌劇場の話はこれくらいにしておこう。歌劇場はやはりオペラの話をしてこそ楽しく実りあるものだ。フルトヴェングラーの名前を上げたが、この歌劇場は錚々たる歌手と指揮者達の活躍の場ともなって来たしこれからもそうであるに違いない。何時も欧州の各歌劇場の事を考えて思うのは名前を上げるのも億劫になるくらい大勢の歌手と指揮者達が彩って来た歴史があると言う事だ。マイヤーベーアやスポンティーニ、ニコライ、メンデルスゾーンやヴァーグナーから名前を上げて行けばR・シュトラウス、も名を連ねているのを確認する事になり、エーリッヒ・クライバー、ワインガルトナーと偉大な人々の名前が続く。こうした事柄で威圧されるのは大歓迎だ。

先にウンターデンリンデンの対岸から国立歌劇場を眺めると親しみのある表情をしていると述べたが、正面入り口から入場してもその親しみやすさは変わらない。劇場内部のロビーや廊下回りは格別豪華だったり広かったりする訳ではない。内装が豪華であるかはさせておいて、親しげな雰囲気に支配されている。最初はなぜそうなのか気が付かなかったが、正面入り口のロビーはパリ・オペラ座の様な大きな空間が用意されていないからだと気が付いた。何処かの小さなコンサートホールか小劇場のエントランスの様に感じる。その扉の向こう側に座席数1300の歌劇場が用意されているとは思えない雰囲気だ。 伝統的で典型的な馬蹄形の客席を持った内部に入ればもう心は夢幻のオペラの世界に飛んで行く。

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正面のロビー 控え目な雰囲気が漂う

何度も述べているかもしれないが、押し出しの強さや権力、財力、教養の高さなどもろもろの事柄を誇る為に歌劇場があるのは一面の真実だがプロイセンの歌劇場があまりそれを感じさせないのは矛盾であり不思議だ。今の国立歌劇場はフリードリッヒ大王の命により建てられたかつての建物ではなく火災や改修、第二次大戦の戦禍で破壊され再び再建された建物だ。戦争などと言うばかばかしく愚かな行為が人的にも文化的にも物理的にもいかに損失を生む無駄な行為であるかはゼンパーオーパーでも述べたが、ベルリン国立歌劇場も同じ様に再建の茨の道を通って来たのか考えるとため息がでる。それにしてもフリードリッヒ大王の古の歌劇場はもっと威圧的な姿や造りだったのかもしれない。ならば現代のベルリン国立歌劇場が小劇場の様な控え目なエントランスを持つのはなぜだろうと考える。思うにベルリンは数多くの劇場のある街でもある。芝居小屋が実に沢山あるのだ。それこそ1920年代に盛んだった退廃の香りも豊かなキャバレーやヴァリエテ等のマジックやアクロバットも行う娯楽施設としての猥雑な小屋の名残が今もあり、もっとまじめな芝居小屋にはベルトルド・ブレヒトゆかりの芝居小屋からモダンな芝居小屋まで、古典から前衛まで多種多様な芝居小屋のある都市がベルリンなのだ。オペラもオーケストラ伴奏による歌付き芝居と捉えるなら国立歌劇場と言いながらも多種多様な芝居小屋の中の一つと数えられる。そんなベルリンの街が持つ芝居小屋に対する嗜好や雰囲気が歌劇場だけを特別視しない造りにしたのだろうか。数ある芝居小屋の中の一つと捉えて建設したのだろうか。あまりにも強権的、軍国的に過ぎる国家戦略が露骨に見えたのでせめて歌劇場だけは穏やかで平和に見えるように工夫でもしたのだろうかと勘繰りたくもなるが、他の歌劇場でもエントランスがむやみやたらにご立派に過ぎる歌劇場ばかりではない事を考えるとそれは確かに勘繰り過ぎと言うものだろうと気が付く。

この歌劇場はアンサンブルによる運営に力を注いでいる。決められた歌手達が、決められたチームを組みそれぞれの演目をこなすシステムで、昔は多くの歌劇場でも力を入れて採用していた極普通のやり方だったのだが、最近はその他大勢の配役などはそうであっても主要キャストが実力のある名の通った歌手でアンサンブルが組まれているのにはなかなかお目にかかれない。人気のある歌手達が飛行機で世界中を飛び回り、破格のギャラが飛び交う現在では安定したアンサンブルの団員を確保し固定化しておくことが非常に難しくなりつつあるのだろう。アンサンブルの水準を保つためにも大変な努力と労力が要求される。又、こうしたアンサンブルを維持するには多額の予算も必要となり、資本主義の理論が働くとゼンパーオーパーで述べた事を繰り返すしか書くべきものが無くなってしまう。どちらにせよ時代の要請に合わなくなりつつあるシステムである訳だ。それだけに数多くある素晴らしい長所が失われるのは残念でならない。欠点などはあまり思いつかない。強いて挙げれば人員が固定化されることによって生じる慣れ合いで緊張感の乏しい舞台になる危険性と反対にチーム内の対立が心配されるくらいだろうか。スター歌手があまり登場しないのではないかと寂しく感じる事があるかもしれないがアンサンブルで組まれた舞台の方が良い様な気がするし、それこそが伝統と言う物ではないだろうか。それとも伝統に即したアンサンブルは「伝統とは怠慢の事だ!」と切って捨てたマーラーの言う通り怠慢なものなのだろうか。伝統をいかに守るか。反対に伝統をいかに打破して革新を遂行するのかと言う話は尽きる事のないテーマではあるけれど、それだけで一冊の本が書けてしまうのでここでは触れないが、アンサンブルは本来の常設の歌劇場ではあるべき姿の一つである事は確かだと思う。

多くの注目すべき出し物を掛け盛んに活動をしているベルリン国立歌劇場の現在の姿は取り敢えず安心して観劇に出掛けられる内容であろう。ハリー・クプファーの演出による一連のR・ヴァーグナーなどはバレンボイムの指揮の下に充実した演目として認知されていると思う。先にバレンボイムが長らくこのオペラハウスの音楽監督でいるのは過去から続く差別へのうんぬんと述べたが、そのバレンボイムであるが、どうも我が国のオペラファンはあまり高く評価していない様に感じる。ピアニストであることの印象が強いのだろうか。フルトヴェングラーの亜流、もしくは物真似との見解が固定観念となっているのだろうか。いずれにしろ歌劇場などと言う罰あたりな舞台音楽演劇演奏組織を率いてこれだけの長きに亘って音楽監督を務められるのは単に政治力があるからとか言うだけではないと、やはり指揮者として優れているからだと素直に思うが如何なものだろうか。彼のヴァーグナーは納得するに十分な舞台であると私は評価するがどうであろうか。

6.ベルリンの街

それにしてもベルリンはまるで冗談の様にめまぐるしく変化している街である。新たな統一ドイツとしての体裁を取り戻す為に改造しなくてはならない所だらけなのだろうが一時期は工事の多さと落ち着きの無さにいささかうんざりしたのを覚えている。再開発の必要のあまりないクーダムに逃れて一時の安らぎを得たものだ。最近は落ち着きを取り戻し始めたのかもしれないが、引き裂かれた過去を取り戻そうとするかの様に、事実取り戻す為でもあるが、至る所で改修に次ぐ改修を繰り返し新築のラッシュで大いに盛り上がっている様をみると都市の躍動感とか活動の息吹などと言うよりさらにより大仰なものを感じる。ポツダマープラッツ周辺など昔は恐ろしく深い巨大な穴が掘られ遥か下で作業員達が工事をしていたのが見られたし、至るところが工事中で埃っぽい事この上なかった。国立歌劇場のあるウンターデンリンデン通りなど表から裏通りまで工事をしていない所を探すのが難しい程ゴタゴタしていた。オペラを観劇する楽しみは、玄関を出て道を歩き、市電あるいは地下鉄やバスに乗りオペラハウスの前にたどり着きと言う部分からすでにオペラの楽しみは始まっているのだが、オペラハウスにたどり着く前がこうもゴタゴタしていると興ざめであったのは確かだった。もっともそれは過去の話となって来た。ベルリンは落ち着きを取り戻しオペラハウスへの道はこれから楽しむオペラの出し物の事を考えながらそぞろ歩くに丁度良い雰囲気に満ちている。

歌劇場はそれがある街の顔だと歌劇場が街に無いのが当たりまえの異国のオペラファンはそぞろ歩きながらその様につくづく感じる。フリードリッヒ大王の時代や王侯貴族がオペラを楽しんでいた時代はさて置いて、歌劇場が街の顔なら第三帝国の時代、ベルリンが威圧的な表情をかつて持っていた時代にベルリン国立歌劇場も又、威圧的な雰囲気を身に纏っていただろうか。そうではない様に私は思う。私にはベルリン国立歌劇場は救いの一つではなかったかと思える。ベルリンの街、過酷だった運命の街は救いの無い絶望が重くのしかかっていたではないか。そんな時に荒れ果てた心にひとすじの光を与えてくれたのがベルリン国立歌劇場ではなかったか。威圧的なベルリンの街にあってそれだからこそ逆に歌劇場は威圧的であるはずがなかったのではないか。ベルリン国立歌劇場がおぞましい権力闘争の舞台であるのは権力者達の間だけの事であり、オペラに光を見出した普通の人々には救いであったのではないか。それ故に爆弾が降り注ぐ中オペラなんぞと言う夢幻を見に行くのは愚かだとか現実逃避だとかそんな単純な言葉で表現出来るものではないと思う。それは神の与えてくれるひとすじの光以外の何物でもなかったのではないか。今、この瞬間に生きている、それも充分幸せに生きていると言う思いが例えオペラが演じられている間だけしか味わえなくても得られる事は救いの光以外の何物でもなかったと思う。

帝国の首都に成り上がった街ベルリン。破壊された街ベルリン。分断された街ベルリン。再び首都に返り咲いた街ベルリン。首都に返り咲こうとも威圧的な帝国の幻影に決別した街ベルリン。ベルリン国立歌劇場はその様な街の、都市の、歌劇場だ。つくづく東西に分断されていた時代の西ドイツの首都が田舎町ボンであったのは救いだったと異国のオペラファンは思う。フランクフルトなんぞが西ドイツの首都であったなら統一後の首都をどこにするかで内戦が勃発したのではないかと、勿論冗談だが、要らぬ心配をするところだったろう。例えそもそもの始まりが成り上がった首都であろうともベルリン国立歌劇場が誠にベルリンの国立歌劇場である為には「首都ベルリン」の歌劇場である事が重要であるからだ。それが何に属しているかの属性の問題であり歌劇場の存在意義でもあるからだ。ベルリがベルリンであるからこそベルリン国立歌劇場は輝いて見えるのだ。

そしておぞましかった過去を飲み込み、消化して、席に腰をおろし今宵の出し物が始まるのを期待しながら待っている時、ベルリン国立歌劇場は他のいずれのオペラハウスと何も変わることなく同じ様に微笑みかけてくれるのだ。数々の困難は今もあるけれど、絶望が支配する様なあの時代とは比較にならない程の安寧があるしそれを感じられる。幸せな時代に、今一度言うがそれでも数々の困難や不条理はこの世の中に沢山あるけれど、兎にも角も幸せな時代にオペラなんぞに現をぬかしてられると感謝せずにはいられない。

旅を続けていて思うのだ。心に纏わり付く重い気分を、残酷な歴史とか不幸な過去等の重い気分をそのまま歌劇場の有り様にすり替える悪しき思考は立ち切らないとならないと。ベルリン国立歌劇場も重々しい何かが支配している訳ではないのだと気が付かなければならないのだと。大切な伝統と過去の不幸な出来事とは別の事なのだと。今、舞台の上で繰り広げられるオペラを素直に甘受する為には今が大切なのだと。勿論過去を否定しろなどと言う極端な意味合いは一切含まれない。そして舞台上に「神々の黄昏」が訪れるのを見るのだと。

勝手に懐いていた偏見や思い込みから解放されて改めて見る事が出来た歌劇場がベルリン国立歌劇場だ。親しみのあるどちらかと言えばもっと小さな芝居小屋にさえ見えるのがベルリン国立歌劇場だ。旅して出会ったのは、過去の歴史や伝統も大切だが素直な目で今を見る事も大切な事だと教えてくれた歌劇場だ。オペラの演目そのものにも、オペラハウスの建物にも、出演する全ての歌手や楽員にも素直な気持ちで接するべきだと思い出させてくれた歌劇場だ。私はこの街を訪れてやっと聞きかじって来た過去の事柄から解放されたのだ。何かにつけオペラ以外のあれこれが纏わり付いて気になった歌劇場が実は親しみの持てる極々普通の芝居小屋であったのだと気が付いたのだ。ベルリン国立歌劇場の本来の姿に気が付いたのだ。この街で、ベルリン国立歌劇場で。幸いな事に。

※ 現在ベルリン国立歌劇場は改修工事の為、仮小屋で上演されている。仮小屋となっているシラー劇場は地下鉄のエルンスト・ロイター駅が最寄り駅となる。2013年まで仮小屋上演となる。劇場の緞帳は本家と同じデザインが使われておりリンデンオペラの雰囲気は充分味わえる。

※ ゼンパーオーパーでも触れなかったが歌劇場オーケストラはコンサートオーケストラとしても活躍しておりドレスデンシュターツカペレの演奏は素晴らしい。それと同様にベルリン国立歌劇場オーケストラもベルリンシュターツカペレとして素晴らしい演奏を聞かせてくれる。この歌劇場への旅ではこれらのオーケストラに言及する事がなかったが機会があればこれらオ-ケストラに付いてもその内語らせて貰いたいと思う。