ポリーニ その7

ポリーニももう70歳を過ぎているのです。 今もまるでショパンコンクールの覇者であった時の様に、考えていてはならないのです。 最近ようやく歳を経たピアニストに向けられるにふさわしい、そのような論調がみられるようになってきた気がします。

ポリーニのベートーヴェンのソナタの演奏における見方の一つは楽曲を進める推進力にあると言えます。 それは全てのソナタの演奏における特徴とも言えます。 その代わり、その推進力の故に直接にベートーヴェンの精神性が、見えにくいのだと思われます。 楽想が躍動するため深い瞑想に至らない様に感じたとしても間違いではないのです。 それがポリーニと言うピアニストのベートーヴェンのソナタの演奏なのです。

ポリーニを語るのにベートーヴェンのソナタ演奏を支点にかなりの字数を費やしてしまいましたが、ベートーヴェンの演奏を語らずにポリーニの演奏を語ることなど出来ないのです。 先に作曲家の代弁者になり技術的な事ばかり言う人々を「見返してやろう」と考えたと言いましたが、ポリーニが取り上げた作曲家がベートーヴェンであったのは、偶然ではないのです。 ポリーニがベートーヴェンを選んだのは自らの精神世界に最も近い作曲家だったからです。 構造的な積層形態、ソナタ形式の追求、フーガの在り方、伝統と革新の狭間、情熱と熱狂の様、実験的な作曲技法と作品の斬新さ、演奏における確実な技術力の要求、そして即興性への限りない可能性、即興の大家ゆえの表現力、上に言いました推進力、こうした諸々のベートーヴェンのソナタに潜んでいるあれこれはまた、ポリーニが持つ演奏の求めるものと相重なるものです。 ショパンコンクールで勝利したゆえにまるで「ショパン弾き」のごとく振舞わなくてはならない雰囲気さえ流れてしまっても、ポリーニはベートーヴェン弾きの道を歩もうとしたのだと思うのです。 その演奏が所謂、伝統的な演奏の枠から外れていても(再度言いますが、シュナーベルやバックハウスなどが構築したソナタの伝統的と認知されている在り方から)ポリーニは新しい解釈をその様にピアノソナタの演奏に見出して今日まで来たのです。即興演奏の大家、ベートーヴェンのあるべき姿に到達せんとしたのです。

参考までに申しておきますとシュナーベルの演奏も当時は斬新に思われ、これはベートーヴェンのソナタではないと批判されたと聞いています。 世代が交代するたびに伝統的でない云々と言われるのはいつの世でも、また音楽以外でも何時の時代でも言われ続けていることです。

ショパンコンクールで勝利するのは諸刃の剣だという事です。 一躍有名になり演奏する機会がもちろん劇的に増え、収入も見込め、クラシック音楽のピアニストとして食っていくことが可能になります。 しかし聴衆はショパンの夕べを求め、ショパンがプログラムに載らないと怨嗟の声さえ上げます。 「ショパン弾き」と言うレッテルを外すためにショパンコンクールの優勝者や高成績を上げたピアニストはかなり苦しみます。 スタニスラフ・ブーニンなどはある意味ではその犠牲者の一人です。 だから、アリシア・デ・ラローチャはコンクールに反対するのです。

(つづく)

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集:(https://ml.naxos.jp/album/00028947941217):マウリツィオ・ポリーニ(Pf)