アルゲリッチ その4

ピアニストは孤独な演奏家です。 一人でオーケストラの向こうを張れる楽器を操れる演奏家ですが、それゆえにリサイタルなどでは頼れるのは自分ただ一人となります。 ステージのピアノに向かう時に途方もない孤独感に襲われ逃げ出したくなると告白するピアニストもいます。 私たちほど孤独な人間はいないと胸を締め付けられる思いに駆られるそうです。 舞台に立てば他に誰も味方がいない現実を突きつけられる思いだそうです。
確かに、楽器を弾く行為自体はどの楽器も極めて個人的な行為であり責任を誰かが取ってくれることはありません。 だけれどもオーケストラの楽員として楽器の演奏に携わっているとき周りは味方が囲んでくれているのです。 ここで言うのは精神的な感覚を主に言っています。 隣の同僚がより気持ちと演奏を高めていけば、自身もその気持ちが乗り移るように高まって行きます。 相乗効果を得られ、孤独の思いはどこにもありません。 ピアニストはそうは行きません。
もちろんバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ、無伴奏チェロソナタを弾く演奏家も同じですが、ピアノ以外の楽器では独奏は滅多にありません。 逆にピアノは独奏が当たり前の楽器です。
たった一人で舞台に立ち聴衆に向かって演奏するのがピアニストなのです。 これは恐ろしい行為です。 大げさに表現している訳ではありません。
繊細なピアニスト、アルゲリッチはこの恐ろしい行為に挑戦することをほとんど放棄してしまったのです。 他のピアニストに比べてみたらアルゲリッチは室内楽の専門家かと思うほど他の演奏家との競演はしているのに独奏による演奏会をほとんど開かなくなりました。 アルゲリッチは輝かしいショパンコンクールで勝利した昔から、実は舞台に引っ張り出すまでは大変な思いを周囲の関係者にさせるピアニストだそうです。 ほとんど我儘な子供のように「ぐずる」らしいのです。 開演のベルが鳴り渡ったと言うのに「今日は弾きたくない!」と動こうとしなくなると聞きました。
突き進む女流のマタドール。 アルゲリッチをそう形容したら賛同を頂けるのでしょうか? 冒頭でそう言葉を投げかけましたが、舞台に登場して、いえ、ピアノに向かって最初の一音を叩き出した時からはそうだと言えたとしても、舞台袖から舞台中央にあるピアノにたどり着くまでの長い距離をアルゲリッチは克服しなくてはならなかったのです。

その5に続く

Martha Argerich, London , United Kingdom, 1971. (Photo by Jeremy Fletcher/Redferns)