第9回「バイエルン国立歌劇場」

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バイエルン国立歌劇場 天井シャンデリア

バイエルン国立歌劇場

狂王ルートヴィッヒ 2世の名の下に神々の黄昏が響く。バイエルン王国の威信と栄光がこの歌劇場には宿っている。ミュンヘンはドイツの南部を代表する大都市であり商業都市でもある。見本市や有名なオクトパーフェストのある時などは宿を取るのにも苦労する。だがそうした躍動感あふれる活動とは裏腹に高い建物の建設を規制するなどして都市全体は落ち着いた雰囲気を漂わせている。春に訪れれば直近にまだ雪に覆われたヨーロッパアルプスの一端が望め八時を過ぎてもいつまでも明るい空の下で白く輝いておりミュンヘンが大都会である事を忘れそうになる。東の都ヴィーンから特急に乗ってミュンヘンの中央駅に着きホームに降り立つと都会らしい躍動感あふれる雰囲気に驚く。ましてや全てがのんびりと動いている様な街ヴィーンから来るとその印象は一層強く感じる。南ドイツの経済の中心としての役割を担った街ミュンヘンは今も言った様に古都の落ち着きと経済都市の躍動感の同居する街だ。そうした街の歌劇場、バイエルン国立歌劇場へ旅をする事にした。ドイツ国内の歌劇場を訪ね歩いて思う事はバイエルン国立歌劇場に限って言えば珍しく明るい印象が感じられる。この明るい印象とはあくまでも私個人のささやかな印象であるけれど、賛同してくれる人もいると思う。この歌劇場もご多分に漏れず厄災の数々に見舞われているだろうがそうした苦難を感じないのはなぜなのだろうか。そうした思いを懐きながらバイエルン国立歌劇場の扉を押して見る事にしよう。

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1.教養の日々と風土

国の力、国力とはどういうものであろうか。ベルリン国立歌劇場への旅の時にプロイセンについて語った様に軍事力が国力であろうか。あるいは富国強兵と言う言葉のもう一端を表す富む事、すなわち経済力であろうか。確かにそれは現代のアメリカの様にそうだと言えるかもしれない。度々、この歌劇場への旅で書いているように歌劇場が単に文化教養や社交の為だけでなく国力を表すものとしての機能を合わせ持っているとするなら、歌劇場に傾注するのも国力の表現のあるいは表出の仕方であろう。あまり軍事大国としての立ち位置ではなかったヴィッテルスバッハ家の率いるバイエルン王国は文化立国として国力を示そうとした。文化芸術大国たらんとした訳だ。

ヴィッテルスバッハ家の教養政策のたまものかミュンヘンと言う都市には大都市の雑駁とした混沌があまり感じられない。この都市にも都市の文化の象徴のような美術館が威風堂々として存在する。ルートヴィッヒ 1世をはじめとする代々のヴィッテルスバッハ家の当主達がその生涯をかけて築き上げて来たアルテピナコテークだ。ラファエロだのデューラーだのブーシェだの目も眩まんばかりのコレクションを所蔵しながらも、その落ち着いたたたずまいを中心にミュンヘンと言う街は華美に走らないにも関わらず大都会であるという顔を持つ。もちろん歌劇場もその一翼をなす。歌劇場の近くの公園で一休みしながら、近くの教会から、有名なフラウエン教会の鐘だろうか、響く鐘の音を聞くと大都会の真っただ中であることをしばし忘れてしまう。いかに躍動的であろうとも、ここにはヴィーンと同じ雰囲気が感じられる。文化とか教養とか何やら過去の物になってしまったかの様なそうした言葉が生きている。

ナツィオナルティアターを、すなわちバイエルン国立歌劇場を支えているのはそうした教養とか文化のいかなるかを理解している人々なのだとふと思い至る。この歌劇場が持っている物はドイツ的と言っては語弊があるかもしれない言葉、形而上学的な雰囲気の様な気がする。いや、そう言うと何か言い方が違う様な気がする。理性的な思惟が劇場に流れているとでも言うのが良いのだろうか。何もドイツの歌劇場だからドイツ哲学的な物と無理に結び付けてバイエルン国立歌劇場を語ろうとしているのではない。思考の果てにオペラなどと言う享楽を選び甘受しているかのような物を感じる。この歌劇場を訪れて感じる雰囲気はミュンヘンが大都会であるにも関わらず内輪の集まりの様に思えることだ。内輪の集まりと言ってもけして閉鎖的と言う事ではない。

アルテピナコテークが世界でも最も古い方に属する公共の一般公開を目的とした美術館であることで代表される様に早くから優れた美術作品、芸術作品を開放して多くの人々に見せたヴィッテルスバッハ家の伝統がそのまままるで内輪の様に感じる集まりに仕立てているのだろうか。そしてどこの世界にもある南部の立地条件が醸し出すある種の華やかさと言ったものが内輪の様な中にも閉鎖的と感じさせない要素の一端となってもいるのだろう。ハンブルクやベルリンを語る時そこには必ず何かしらかの重さ、沈む様な威圧感、陰りの雰囲気を語らずにはすまないのに、ミュンヘンは同じドイツの都市でもかなり違った語り口になる。アルプスを越えてイタリアに出るとなるほど話では聞いていて理解している様に思っていてもその光と明るさ、人々の醸し出す雰囲気が軽やかだと嫌でも思い知らされるのだが、アルプスを越えイタリアまで行かなくてもミュンヘンを訪れこの先がアルプスを越えるのだと言う場所まで来るとその違いが如実に分かる。遠くハンブルクから列車に乗ってベルリン、ドレスデン、プラハ、ミュンヘンと南下してくると人々の雰囲気が次々に変わり次第に開放的な雰囲気になって来るのは不思議な光景でさえあり風土気候と言うものがこれほどまでに人々の気質を掌っているのかと思うと怖くもある。

こうした気候風土がバイエルン国立歌劇場にどの様な影響を与えているのだろうか。例えばミュンヘンオリンピックの記念公園にアウトバーンに乗って出掛けるとその公園でスポーツにいそしもうとする人々のグループがそこかしこに見られる。春に訪れるとお揃いの軽やかなスポーツ服を身にまとった人々がオリンピック公園をめざすのが目立つ。彼等達がドイツ人、と言うよりバイエルン人である事を除けば私達日本人にも違和感のない風景であり、春の日差しも見慣れたものの様に感じる。緯度が高いにも関わらず春の日差しはハンブルクやベルリンと比べるとそこでは見られない明るさであり、他の欧州人達にとっては制服で統一された幾組もの集団がそこかしこにいる事に、かつてのドイツ第三帝国を彷彿とさせる全体主義を見た気持ちにさせられるかもしれない。いやいやそれは考え過ぎと言うものだろう。ともかくそこには気候に恵まれた者達の醸し出す雰囲気が溢れている。誰もが知っているオクトパーフェストの陽気な騒ぎのそれに代表される雰囲気だろうか。隣にいる見知らぬ人も同じビールを飲む仲間だと肩を組み陽気に合唱する、そうした気の置けない印象が、皆が内輪の人間だと感じさせる気さくさが、国立歌劇場が内輪の雰囲気を感じさせる基なのかもしれない。先ほど大都会に関わらずと言ったが大都会にも関わらずミュンヘンが内輪の気さくさを持っているのは、明るい気候風土の為だと言えるかもしれない。それがそのままバイエルン国立歌劇場の気分と言うものを露わしているとも言える。

気候風土がそれほど影響するのかと言われるかもしれないが、場所を歌劇場に限って見てもハンブルク国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ドレスデン国立歌劇場そしてバイエルン国立歌劇場と北から下って来ると確かに気候風土を否が応でも感じざるを得ない。先ほど列車に乗って北から下って来た時に感じたのとまったく同じ印象を歌劇場に座しても感じると言う事だ。

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国立歌劇場内部 オペラがはねて帰路に付く観客達 オペラが終わった後はなぜか一抹の寂しさを何時も感じる。終わってしまった時間に未練が残るからだろうか。

それらの歌劇場にはそこでしか感じないそれぞれのアイデンティティーが如実に感じられる。バイエルン国立歌劇場はやはり親密さだろうか。強権的な軍事力や常に覇権を競った家柄ではないヴィッテルスバッハ家がその雰囲気を築き上げて来たのかもしれない。文化政策、文化大国としての道を探ったそのあり方がオペラハウスと言うと付いて回る観客同士の虚栄心の張り合いとかオペラの演目など二の次だと言わんばかりの社交に囚われた観劇のあり様とかがこのオペラハウスではあまり感じられない。

もちろん、そうした事は過去の事であって今の聴衆や歌劇場のあり様とは違うと言えるのだとは思う。今の聴衆はオペラを聞きに来る人々で、落日のある日の聴衆達とは違うのだ。だけれどもやはり残り香があるのだ。かつての聴衆達の残した雰囲気が、時には亡霊の様な物が今もあるのだ。それが伝統と言うものでもある訳だ。伝統とは事もあろうに亡霊の事でもあるとはからずも言ってしまった。間違いではないと思うが如何だろう?

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歌劇場前の広場はこの様に草が茂る場所だった。最初にご覧いただいた写真の様に整備されてしまうとそれが良かったのか悪かったのか判断が付きかねる。20年も前の写真。

2.儚き夢見る王

そうした残り香の中で今宵も幕が開くのだ。冒頭に述べた様にルートヴィッヒ 2世の名のもとに。だからバイエルン国立歌劇場を語る時、彼の若き国王とR・ヴァーグナーの事を考えない訳にはいかない。R・ヴァーグナーの楽劇の世界をノイシュヴァンシュタイン城の中に再現させる程に、タンホイザーのベーヌスベルクの洞窟まで再現している、ヴァーグナーにのめり込んだバイエルン国王と一介の作曲家との特別な繋がりなど他のパトロンと作曲家の関係とはいささか趣を異にしていると言わざるを得ない。端的に言えば世界で最も有名なヴァグネリアンがルートヴィッヒ 2世だと言える。しかも実際にヴァーグナーを援助し時には語り合った筋金入りのヴァグネリアンである。ルートヴィッヒ 2世は近代に続く例えばフランスの作曲家達の様に革命的な和声や音楽的手法に魅入られたのではない。耽美的なヴァーグナーに魂を奪われただけなのだ。それは子供の時観劇したローエングリンから始まったのだが、音楽がこれ程までに一国の運命を左右したのは後にも先にもルートヴィッヒ 2世の率いるバイエルン王国が歴史上唯一ではないだろうか。幸か不幸か彼はまだ十代の時にローエングリンを観てしまった。王であった父にもう一度ローエングリンを観劇したいとねだりローエングリンを上演させる程の御執心であったと伝え聞いている。ああ、なんと言う運命!私ごときがある時ヴァーグナーを聴いて初めてその魔力に捕えられ呆けた様に暫くを過したのとは訳が違う。それは王国の運命が間違いなくあらぬ方向に舵を切った原初の物語となってしまった。何はなんとあれ若き王となり最初に下した命令がワーグナーを招聘しろと言う事だったそうだ。いささか出来すぎの話だが、最初の命令でなくとも、最重要事項だった様な気がする。かくてヴァーグナーの運命も又、大きく舵を切った。言うまでもなく、この歌劇場のあるバイエルンの地において。

ヴァーグナーの音楽が如何に人を惹き付けるものかは今更言う必要がない。ヴァーグナーに魅入られて人生を誤った人達がどれ程沢山いることか!ルートヴィッヒ 2世はその一人であり代表者であり究極の人である。ローエングリンの公演など観劇に行かなければ彼の人生はもっと穏やかだったかもしれない。

この夢見る王がもたらした悲劇とわずかばかりの喜劇が今も観光資源として残り、ヴァーグナーの多くの作品を生み出し、ある時一人の狂気を帯びた者の背中を押し、あわや世界を破滅させようとした。あの狂気を帯びた者が、一つの民族を地球上から抹殺しようと企み、狂気に満ちた彼がこのミュンヘンを初期の活動の場としたのは単なる偶然ではないかも知れない。

いや、あらゆる危うい物が活躍出来る場所を与えられた街がミュンヘンではないだろうか。危ういものが住まう街。ミュンヘンは夢多きある時は狂気に捕らわれた王の残り香が、湖に身を投げて逝ってしまった王の残像が今に至るまで残っており、王の死の直後からそれらがミュンヘンにいる全ての人々を何かに駆り立てる様な気がする。ミュンヘンと言う街が明るく平穏で内輪の気さくさを持って、穏当な雰囲気に満ちていると感じるなら危うい印象、何かに駆り立てる印象と矛盾するのではないかと言われるだろう。だが平穏で平和な雰囲気に満ちている程、人間は勝手なもので危うい事に心ひかれるし、又、この街は自由を尊ぶ故に危険な思想でさえも自由に思う事が出来る街なのだ。バイエルン人は未だに「我々はバイエルン自由共和国」の一員であると思っているそうだ。自由とは何かと難しく論ずるのは避けるが、その様な雰囲気がミュンヘン一揆を勃発させもしたのだろう。怪しい骨董店の裏にあるいは地下に廻れば御禁制のナチスにまつわる「ブツ」を買えるなどと言う物騒な話はミュンヘンで聞いたのだが、それが本当かどうかは別にして、さもありなん、ベルリンではそうはいかないだろうなと納得してしまいそうな雰囲気をミュンヘンは持っていると発言すればそれは誤解だと叱られるだろうか。だが何かしら自由な雰囲気を時にはフランクフルトとかケルンとかよりより強く感じるのは事実であり、ある面では夢見る様な空気感をなぜか感じるのがミュンヘンと言う都市の様に思う。

若き王の、夢見る王のそれは、確かに残り香だろう。ツアーバスに乗り郊外のヨーロッパアルプスの突端にトリップすれば、フュッセンへの道をたどりリンダーホーフ城やホーエンジュバンガウ城や他ならぬノイシュヴァンシュタイン城へ至る。若き王の残り香が、いや残り香などと言う穏やかなものではなく夢の残骸が見事な姿を持って今日の私達に迫って来る。それはさながらR・ヴァーグナーの世界観に至る道でさえある様に思える。ヴァーグナーの世界に、観念にしたりたければ、バイロイトに行ったり、世界中の歌劇場の実際の舞台を観るまでもなく若き王の残骸に触れる方がよほど分かるのではないかと危うく思いかけている自らを見つけ出して慌てふためく。オペラは舞台を観るのがなんと言っても一番だと言う日ごろの言動をひるがえして若き王の遺産を観る方がなどとはなんという誤った考えだろう。こんな誤った思いに囚われるのはヴァーグナーの世界観、全ての観念が王の生きざまに現れ、ルートヴィッヒ 2世の事を語ればヴァーグナーの観念を語っている事になり、それゆえに観念をこの若き王の物語に委ねずにはらずにはいられなくなるからかもしれない。若き王がR・ヴァーグナーに全て囚われているなどとはとても言えないが、少なくとも国家財政を破綻に導く程に予算をつぎ込んだのはR・ヴァーグナーの世界を実現する為の若き王の無謀な企てであったのは間違いない。ミラノ・スカラ座にはヴェルディが君臨していると言える面を持っているが、若き王の下に君臨したR・ヴァーグナーの如き特殊な例ではありえない。ヴェルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の下に君臨なぞしなかったし、するはずもなかった。

バイエルン国立歌劇場にはR・ヴァーグナーに魅入られた若き狂王の「神々の黄昏」が今も響いているのだと感じる。多分それは間違いないだろう。この歌劇場であの「トリスタンとイゾルデ」が初演されたのだ。オペラとヴァーグナーに魂を奪われた経験のある者にとって「トリスタンとイゾルデ」は格別な演目である。このおそらくは最も官能的な楽劇は我々の心を陶酔へといともたやすく引きずり込む!ルートヴィッヒ 2世の名の下に響くに最も相応しい作品だ。夢見る王の儚き望みはこの作品を手中にすることで満たされたのかもしれないと感じて寂寥感に襲われる。もしそれが全てだとしたら、なんと寂しい人生だろう。例え歌劇場の椅子に座りそのまま息絶えたいと願っているオペラに人生を掛けた様な人達でもそれだけでは寂しすぎると思うだろう。だが、それで充分に輝かしい人生だと、ましてやヴァーグナーの傑作を手中に収めたのだと言う人々もいるかもしれない。儚き夢見る王のそれは幸福であったのだろうか。バイエルン国立歌劇場の前に立ち私は毎回の様にそう問いかける。

3.モーツァルトの夢を観て

「偽の女庭師」と「イドメネオ」はミュンヘンの依頼により生まれたモーツァルトのオペラだ。特に「イドメネオ」は選帝候カール・テオドールの依頼により作曲されモーツァルトの名を広めたオペラだ。今建つ建物ではむろんないがバイエルン国立歌劇場もプラハやヴィーンの歌劇場と同様にモーツァルトの作品と密接なつながりを持つ栄誉ある歴史を持っている。欧州の歌劇場への旅をしているとこの様に圧倒的な歴史を何気なく突き付けられて異国の旅人は恐れ入ってしまう。成る程、モーツァルトの作品にもひとかどならぬ思い入れがバイエルン国立歌劇場にもあるのだとしみじみ感じる訳だ。

モーツァルトが父に連れられ、あるいは職探しで数々の旅をしたのは周知の事実だが、考えて見ればミュンヘンはモーツァルトも生まれた街ザルツブルクから140キロしか離れていない。勿論モーツァルトの時代の交通機関のそれは140キロでは相当な遠方、遥かなる彼方であったであろうがそれでも140キロの距離にあるバイエルンとその首都ミュンヘンの影響はヴィーンなどより遥かにあったと言えよう。そうした距離的な親近感が尚、一層モーツァルトとバイエルンとの繋がりを強く感じさせる要因となっているのかもしれない。

私はある時バイエルン国立歌劇場の舞台左サイドの天井桟敷に陣取って、いやヴィーン国立歌劇場の様にハンカチを手すりに巻きつけて自分の場所を確保する事はしなくても良いので陣取るとは言えないかもしれないが(立見席でも席ナンバーが打ってあり場所が決まっている。そのかわりヴィーンの天井桟敷より価格は高い。)、舞台に向かって右側半分くらいしか見えない立見席でモーツァルトのオペラと出合ったのが忘れられない。文字通りモーツアルトのオペラ作品と「出合った」のだ。耳年増のにわかオペラファンは勿論モーツァルトの主要なオペラ作品を聞き知っていた「つもり」だった。だがその日の演目はモーツァルトのオペラに対する認識を改めさせるものだったのだ。

その演目はあまりに不道徳だと言う理由で当時は上演が禁止されていた「ドン・ジョバンニ」だった。モーツァルトが亡くなった1791年のその年に「イドメネオ」を依頼した選帝候カール・テオドールが上演を許可した「ドン・ジョバンニ」だったのだ。私はそうした故事来歴などほとんど頭に無く聞きに行ったのだから随分といい加減な聞き手だったと後になって反省するが、バイエルン国立歌劇場にとっては伝統のある重要な作品だった訳だ。

その夜観劇したモーツァルトに私は衝撃を受け、少しでも舞台全体を観たいと必死に手摺にしがみついて大きく身体を乗り出して、誠に危ないが、眼下に繰り広げられる舞台に魂を奪われたのだ。そして地獄落ちのシーンで震撼としたのだ。誠に遅ればせながら「ドン・ジョバンニ」がなんとすごい作品である事かを、モーツァルトのオペラの真髄を初めて味わった、味あわされたのだ。モーツァルトの他のオペラ作品のすごさにもこれがきっかけとなり気づかされたのだ。本物の白馬に跨った騎士長の亡霊がドン・ジョバンニに改心を迫る為に現れ!なんと言う演出だろう!私は己自身が地獄に落ちる強烈な気分を味わった。私に取ってバイエルン国立歌劇場とはその様な体験を通してR・ヴァーグナーでは無く、R・シュトラウスとでも無くモーツァルトと密接につながる特別な歌劇場なのだ。あくまでも私個人の思いでしかないがその様な運命的な舞台がかかるのもバイエルン国立歌劇場の伝統と歴史の故だと信じる。プラハはモーツァルトの街であるが、バイエルン国立歌劇場はモーツァルトの劇場かもしれないと何の根拠も思い浮かばないのに感じてしまう。

ルートヴィッヒ 2世の名の下にと言いながら、バイエルン国立歌劇場の根底に流れる通奏低音はモーツァルトなのではないかとの思いを懐く。天井桟敷でモーツァルトの夢を観ながら過す時、ミラノ・スカラ座では無くバイエルン国立歌劇場あるにも関わらずスタンダールと同じ思いを懐く。チマローザを想う事は残念ながら無いのだけれど。

だけれども強烈な一撃を持ってR・ヴァーグナーがそんな思いを打ち砕く。ヴァーグナーの毒牙にかかり天井桟敷に縛りつけられ逃れる事が出来なくなる時が来る。儚き夢を観る若き王は幸福であったろうかとの問いが自らに跳ね返って来る。それで幸福なのかと。親密な雰囲気に満ち、ドイツの歌劇場にしては穏やかで明るい気分に彩られたこの歌劇場が突如正体を表し、通奏低音の様に流れていたモーツァルトを飲み込み全ての聴衆を炎の岩山に閉じ込める。ここで永遠に眠るのかと。やはりこの歌劇場も魔力を持っているのかと思い知らされる。モーツァルトの夢を観ているだけでは済まなくなる。済まなくなるのだけれど、根底に流れるものはある。「よりによって」モーツァルトなのだと。モーツァルトの夢を観る歌劇場なのだ。

通奏低音と若き王の夢みた一撃を持つバイエルン国立歌劇場ではあるが、バイエルンの香りが、取り分けてもヴィッテルスバッハ家とルートヴィッヒ 2世の香りが漂っているのに、10年以上歌劇場を率いたピーター・ジョナス総裁はその在任中の時代にバロックオペラの、中でもヘンデルのオペラの上演を進めて来た。二十世紀も終わりのころから新しい千年紀に入った最近の傾向は忘れ去られたオペラの上演が盛んに行われる様になって来た事だ。オペラの世界もより広く世界が広がったわけだ。ヴェルディのあまり上演されなかった初期の演目の復活やバロックオペラの上演が一過性の物でなく定着してきたのは良いことかもしれない。

歌劇場は生きものなのだ。伝統と格式を重んじながらも常に革新を模索し発展して行くものだ。中には後退してしまうものも多々あるが、ここでは皮肉を込めて後退が日常茶飯事で悲しくもあると言うだけにしておこう。バイエルン国立歌劇場がバロックオペラの上演と言う新しい世界にいち早く着手出来たのもジョナス総裁の政策や度量だけではなく、やはり繰り返しになるがミュンヘンの明るい自由な風土がそれを許したのだと思える。あるいはやはりヴィッテルスバッハ家の当時としては革新的で不道徳なモーツァルトを舞台に載せる事を許した姿勢がもたらす文化大国たらんとした伝統と趣味嗜好がそれを許したと言えるのかもしれない。そうであるならバイエルン国立歌劇場はやはりモーツァルトを夢見るに相応しい歌劇場であると言う事だ。

4.国立歌劇場の成りたち

国立歌劇場は1654年にその前進が出来たそうだ。17世紀後半から18世紀前半、ミュンヘンはドイツのローマと呼ばれる程イタリア文化に彩られた都市だった。

しかし、1787年から1805年までしばしの間、国粋主義的な政策の故に歌劇の王道たるイタリアオペラの上演を禁ずる事までしてドイツのと、言うよりはバイエルンのアイデンティティーを確立しようとした時代があった。

1818年にマクシミリアンがカール・フォン・フィッシャーの設計の下に造らせた歌劇場は、この歌劇場への旅で度々触れた他の歌劇場と同様に厄災に遭いまずは火災で焼失し1825年に再建された。再建は市民からの義援金、寄付金により成し遂げられたとものの本には書かれている。既にして広く一般に開かれた歌劇場の効能が現れている。そして御多分に漏れず先の対戦で破壊されたが、魂を宿す入れ物が必要なのはミュンヘンにおいても自明の理であり1963年に再建された。ところで歌劇場の正面のマックス・ヨーゼフ広場に鎮座するのは広場の名前の通りのマクシミリアン 1世の銅像だか、最後のバイエルンの神聖ローマ帝国の選帝侯でありバイエルン王国の初代の王でありルートヴィッヒ 2世の曽祖父にあたる人物がマクシミリアン 1世である。

そのマクシミリアン 1世は貴族のプライベート席を第一義に考えない市民に開かれた歌劇場を指向し、文化大国たらんとしたヴィッテルスバッハ家の伝統を躍進させ、バイエルン国立歌劇場はマクシミリアン 1世の指向した歌劇場のあり様を具現化したものであった。私がこの歌劇場を訪れて感じた親密な印象はこうした成りたちを基として今日まで引き継がれた歴史あるものでもあった訳だ。改めて思うのだが、歌劇場の印象とはこの様に間違いなく歴史と伝統に根ざした根拠のあるものなのだと納得し感じる。ハンザ同盟の自由都市の歌劇場で市民の力によって建てられたハンブルク国立歌劇場の様なある意味では特殊な歌劇場を除けば、王侯貴族が関わっているにしろマクシミリアン 1世が建設命令を下した初手から市民に開かれた歌劇場を建設理念の中心に据えた様な歌劇場は私の旅した歌劇場の中ではおそらくバイエルン国立歌劇場だけではないだろうか。冒頭で述べたアルテピナコテークとまったく同じ思想が、すなわち教養政策が歌劇場にも採用された訳だ。だから歌劇場もその一翼をなすと述べさせて頂いたのだ。

気候風土がそれをもたらしたのだろうか。優れて文化的な王が代々続いたからだろうか。優れて文化的に「過ぎた」王が国家財政を危機に落とし入れはしたが、今にして思えば極めて平和的な政策は現在を先取りしていたと暖かい気持ちになる。軟弱な異国の旅人は戦に明け暮れた強面のドイツでは無いドイツがある事を知り安堵してやまない。当時の当事者ではないから勝手な事を言うと怒られるかもしれないが、国家財政を破綻に導いた原因がヴァーグナーの楽劇であったとは何とも頬が緩む穏やかな物語であり、かつてはそうした国があったのだ、その国は儚い夢の上に浮かんでいた国なのだとノイシュヴァンシュタイン城のお伽の国の様な姿を見ながら想いを懐く。とにもかくにも貴族から市民へと歌劇場をおろした政策はさらに時代が進むと特権階級からさらに大衆に歌劇場がおりて時代を先取りして行った。ナツィオナルティアターはその様に文化政策の賜物として今日の親密さを醸し出しているのだ。

陰謀や策謀が無かったとは言わないが、バイエルン国立歌劇場の成りたちは極めて穏当だと異国の旅人は思い安堵するのだ。

5.街にて

ミュンヘンの中央駅は先に書いた様に躍動感に溢れ活気に満ちている。どこの都市にもある都会の風景であり出発する欧州のそれぞれの都市に向かう列車がホームに入線し出発して行く。中央駅から地下鉄に乗りマリーエンプラッツで降りれば有名な新市庁舎の仕掛け時計を見上げる広場に出る。仕掛け時計の見事さを堪能した後通りを北に向かって歩けばバイエルン国立歌劇場は直ぐ近くだ。市電のナツィオナルティアター駅で降りれば目の前が国立歌劇場だ。ドレスデン国立歌劇場程に圧倒的な雰囲気に満ちてはいないが、バイエルン国立歌劇場はこれもまた威風堂々とした歌劇場だ。ギリシア風の円柱の柱が立ち並び、さながらパルテノン神殿を彷彿とさせる、と書くといかにもだが残念ながらギリシアを訪れた事が無いので写真のパルテノン神殿との比較の感想でしかないが。

国立歌劇場から離れてしばし街をそぞろ歩く。イザール河に架かるマクシミリアン橋の前で立ち止まりこの都市がやはりあのおぞましい大戦で60数回も爆撃を受けた事実を思い浮かべる。何故河のほとりでその様に思うのか考えたがおそらく我が国の広島、東京などで川で幾千幾万の人々が屍となった悲しい物語と重なるからだろう。百回でも千回でも、いや何万回でも言うけれど戦争などと言う愚かな行為など二度としてはならないのだ。オペラという罰当たりな芸術にルートヴィッヒ 2世のごとくに囚われる為には平和と安寧こそが必要なのだ。爆弾降り注ぐ中、オペラを観に出掛けるベルリンの市民達の様な異常な事態など誰も望んではいないのだ。当たり前である!

あの独裁者が活動した街であり、彼の反ユダヤ主義を増長させた思想家や活動家がいた街でありながらミュンヘンにはそんなイメージが今は無いと思えると言えるのは、何処か心の片隅で無いと思いたいと希望している様な気がしないでもないが、やはりヴィッテルスバッハ家の文化大国たらんとした、芸術の庇護者たらんとした日々があったからだろう。

若き王の祖父ルートヴィヒ 1世はラファエロの名作を手に入れる為に20年も歳月を掛けた。フィレンツェのテンピ家から辛抱強く交渉を重ねルートヴィッヒ 1世が手にしたテンピの聖母は慈愛に満ちた眼差しを今もアルテピナコテークで見せてくれる。その眼差しはバイエルン国立歌劇場の親密さに通じる様に思える。又、デューラーのきりりとして澄んだまなざしの見事な自画像はこれもバイエルン国立歌劇場の雰囲気を彷彿とさせる。ミラノ・スカラ座で述べたダヴィンチの名作と同様にその街にある絵画なり美術品なりは何処かしらその街にある歌劇場を物語っていると感じるのは私だけだろうか。アルテピナコテークに入り浸りゴッホの何点かあるヒマワリの内の一点がここにもあるのだと感心しながら、ミラノの様にダヴィンチの作品がある偶然に驚きながら、一日の大半を過しているとアルテピナコテークと今宵訪れるバイエルン国立歌劇場の雰囲気が混ざり合うか、同一のものだと言う気持ちにさせられるのは単に私の意識過剰で文化大国バイエルン王国の物語に囚われ過ぎていて、ルートヴィッヒ 1世や 2世の物語に侵されているからに過ぎないのだろうか。恥ずかしながら私自身はその答えは出せないままだ。

ミュンヘンはヴィーンとの繋がりが見受けられる都市である。現在においては特急列車一本で行き来するのはたやすい。すべてがのんびりした様なヴィーンからと冒頭で述べたがヴィーンはヴィーンで都市活動に相応しい活気があるがミュンヘン中央駅の躍動感とヴィーン西駅のそれを比べるとかなり違う。ヴィーンの都市としての活動がまったくお話しにならないと言う事では無い。ドイツとオーストリアの二つの都市を列車一本で行き来しているとどこかしら似たような印象が顔を出す。それは二つの国がかつてはバイエルン王国とハプスブルク帝国の首都としての往来と付き合いがあったからだろう。時代を下り歴史を紐解くとあまりにも有名な后妃エリザベートはヴィッテルスバッハ家の関係筋からヴィーンに嫁いだと言う事を知る。この悲劇の后妃の物語は今でも何かしらあまり後味の良くない印象を持って聞く。鉄道が全ての距離と時間を短縮した時代にあっては、迅速で性急な物語りの展開はゆったりと時間が流れたかつての時代とはいささか趣を異にする。お召し列車で放浪の旅を繰り返したエリザベートはシューベルトの冬の旅の主人公の様にあてどなく彷徨ったのだろうか。ルートヴィッヒ 2世の中に自らと同様の狂気を見出していたであろう后妃はまるで用意された物語をたどる様に悲劇へ向けて歩んだ。シシィの悲劇はまるでミュンヘンとヴィーンを一本の糸でつなげた様だ。建築物や街並みや政策や人々の趣味嗜好やあれやこれやも勿論そうだが、バイエルン国立歌劇場に時としてヴィーン国立歌劇場の影の様なものを感じるのはその為であろうか。親密さとは縁遠いヴィーン国立歌劇場にバイエルン国立歌劇場の光を覚える気がするのはその為であろうか。

気晴らしに春の日差しを浴びながら夏の離宮ニンフェンブルク城に脚を向けると溢れる光の中に共に悲劇的であった故に観光資源として現在も名の知れた狂王の使った金細工の馬車がみられるしヴィーンの王宮ではシシィのお召し列車をみる事が出来る。悲劇の主人公達の残したものをみるのは気晴らしには、ならない。ミュンヘンの明るい光の中でバイエルン国立歌劇場の親密な光を見出しながらもこうした悲劇が頭をかすめる。もしかしたら、そうした悲劇の一切を忘れただひたすらに親密さに浴したいからバイエルン国立歌劇場へと旅をしたいのかもしれない。経済活動の華やかな商業都市でもあるミュンヘンの街を歩いていて、思いは繰り返し歌劇場の夢幻の世界へ立ち帰ってしまう。私は不器用な人間だと思う。ただ楽しくミュンヘンの街を散歩でもしてビールでも嗜みながらただ今宵の出し物が私をどれ程楽しませてくれるのか期待して待っていさえすれば良いのではないか、そう思いながら、あらぬ思いに導かれそれが歌劇場の姿なのだと思える様になってしまうのだ。いつの間にか、そう、いつの間にか。

6.再び儚き夢を見る王の事を

ルートヴィッヒ 2世は何故に歌劇場の人と成り果てたのだろうか。いや、世に幾千万といるオペラファンの様に歌劇場にいる事を欲したのではなくヴァーグナーに魅入られたのだから彼をオペラファンと呼ぶのは間違いかもしれない。彼の若き王はヴァーグナーの造り出した夢幻の世界に生きたのであって歌劇場を己の場所だとは思いはしなかったのではないかと感じる。むしろ彼はヴァーグナーの造り出す舞台の上に自らも出演したかったのではないか、己自身が白鳥の騎士に、あるいはタンホイザーになりたかったのではないかと考える。いやそれは、歌手として、あるいは役者として白鳥の騎士になり、タンホイザーになり舞台に立ちたかったと言うのではない。本当に物語の中の白鳥の騎士そのものになりブラバント公国のエルザ姫の為に戦いたかったのだと、タンホイザーの様に教皇の杖に葉が芽吹く奇跡に浴したかったのだと念じてさえいたのではないだろうか。彼が歌劇場の人と成り果てたのはだから観劇する事を無常の喜びとする何処の歌劇場にもいる、とりわけスカラ座にいる天井桟敷の人々と同じではないのだ!物語の主人公そのものになる事を望んだのだ!現実逃避などと言う生易しい言葉で表す様な思いではなかったに違いない。まさに白鳥の騎士になる事が己の生きる様ではなかったのか、人生の目標であったのではないかと思えるのだ。

あの、ノイシュヴァンシュタイン城を見るがいい。あの城こそは儚き夢を見た王の生き様そのものではないか。未完成に終わった世界で一番美しい城はまさしく夢幻の世界に生きた王の夢の骸ではないか。わずか半年に満たない間しか過すことが出来なかった彼の城こそ若き王にとっては現実そのものであったのではないか。それ故にバイエルン国立歌劇場の観客となる度に私にはルートヴィッヒ 2世の名の下に響く神々の黄昏が聞こえるのだ。それは私自身がヴァーグナーとルートヴィッヒ 2世の物語に取り付かれたからかもしれないと正直に告白しておきたい。さてルートヴィッヒ 2世の呪縛が、彼の叫びが聞こえるにしてもそれと離れたところで冷静に考えると、今日バイエルン国立歌劇場に必要以上にR・ヴァーグナーの呪縛があまり感じられないのは何故かとふと思う。「トリスタンとイゾルデ」を「ラインの黄金」を「ヴァールキューレ」を「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を初演した歌劇場にヴァーグナーの呪縛をあまり感じないなどとはおまえの感性はどうかしているのではないかと怒鳴られるに違いない。だからこそなぜふとあまり呪縛を感じないのかと自ら自身に問いただすのだ。先の大戦の悪しき苦い思い出と関わりがあるのだろうか。忘れ去りたい、葬り去りたい過去が確かにあるには違いがないのだ。時にはR・ヴァーグナーの楽劇の響きと共にそれは亡霊の様に浮かぶのかもしれない。欧州の歌劇場を旅しているとどうしても彼の戦争の時代の残酷な物語を味わう羽目に陥るのだが、今日に至るまでそれは繰り返し蒸し返される話題でもある。バイエルン国立歌劇場は勿論ヴァーグナーを外している訳ではないし外せる訳など絶対にあり得ないのだけれど、ルートヴィッヒ 2世の激しい傾倒の事実があるにも関わらず、うまくヴァーグナーの呪縛から逃れている様な気がする。それは自由な、平穏な、親密な雰囲気のお陰だろうか。世界を敵に回したのはオーストリア生まれの、軍事強国プロイセンの威を借りた男であって自分達バイエルンとは何の関わり無いのだと考えているのだろうか。だからルートヴィッヒ 2世とR・ヴァーグナーは密接につながっているけれど、ヴァーグナーの楽劇が何か悪しきものと関わりがあったとは思わないと言うことだろうか。そうした考えは確かにあるだろう。ホーフブロイハウスへ日本人には、いや私には量の多い巨大な、大げさか、ジョッキで供されるビールを飲みに出掛けるとミュンヘン市内のどこにでもある他のビアホールとなんら変わらない陽気な雰囲気に満ち溢れていると感じる。過去の暗い物語の破片すら今日ではここで探す事が出来ない。全ては払しょくされ浄化されてしまったかのようだ。多分、既にして払しょくされ浄化されてしまっているのだ。バイエルン人達に取っては。

バイエルン国立歌劇場もホーフブロイハウスと同じなのだ。ヴァーグナーに纏わり付く暗い何もかもは全て振り払われてしまっているのだ。後に残るのは夢多き若き王と自己中心的な音楽の革新者との悲しげな物語だけなのだ。もう一度問うけれどその物語は悲しげな物語だろうか。若き王はもしかしたら十分に幸せであったのではないか。彼はブラバント公国に召され旅立っていったのかもしれない。彼の愛するエルザのもとへ。

私は再び歌劇場への旅を始めるに当たり何処の歌劇場に真っ先に行くかを考える。私はおそらく迷うことなくバイエルン国立歌劇場を選ぶだろう。ここには平安があるからだ。親密さに満ち溢れているからだ。ルートヴィヒ 2世の叫びが聞こえるにも関わらずこの歌劇場にある安寧に浴したいからだ。文化教養の育成に国運と国力を掛けたヴィッテルスバッハ家の雰囲気を美術館や街並みや教会やニンフェンブルク城や、レジデンツ内のヘラクレスザール、他ならぬ国立歌劇場で味わいたからだ。

そしてその後にやっと享楽の為にパリオペラ座を訪れ、何かなるものを得ようとザクセンを、ベルリンを訪れ、輝かしい喜びを味わう為にスカラ座に遊び、朽ちて果てる場所と定めたウイーンへ最後の旅に出るだろう。バイエルンこそは我が平安の歌劇場だ。私の個人的な思いだが、私はここで歌劇場にも親密さが存在しているのだと知り、そして何よりもここでモーツァルトに出会った。再び訪れる時に私はバイエルン国立歌劇場の席に深く座して心秘かに旅の始まりに乾杯するだろう。最後にたどり着くであろうヴィーン国立歌劇場の儚い夢を見ながら。