第10回「幕間3(休憩)オペラの秘密」

オペラの作曲は難しいのでしょうか。いや、おかしな事を言いました。才能ある偉大な作曲家達だからこそ作曲が出来てその中で優れた作品が後の世まで残るのですから、作曲が簡単な訳がありません。モーツァルトやヴェルディだって悩みに悩んで作品を仕上げているはずですから。特にモーツァルトは天才の化身の様に言われていて何の苦労もなく勝手に曲がペン先から譜面に書かれていくイメージで誤解されていますが、神ならぬ身ですから、悩み苦しみ曲を生み出していると近年になって理解される様になって来ました。一部の興味本位の媒体では未だに天才神話をあおり立てるだけで、真剣に人間モーツァルトを理解しようとする姿勢が感じられない情けなさも見受けられますが、そのうち是正されると信じでおります。

オペラ作曲家は当時で言えば流行音楽の作曲家と言う事になります。ヴァーグナーだって売れっ子作曲家になりたくてパリに出て来たのです。パリでロッシーニは大成功してお金持ちになりました。ヴァーグナーはロッシーニに好印象を持ったと伝わっています。お金持ちだからではなく人物に良い印象を持ったそうです。借金王ヴァーグナーだってお金で人は判断しませんでした。そのロッシーニですが、実に巧みに数々のオペラを作曲していたのは皆さんご存知だと思います。切り継ぎと切り張り、使い回しの天才ロッシーニです。

かつてバロック時代以降かなりの時代までパスティッチョなるオペラが大流行りしました。素晴らしい形式の、パリで流行ったグランドオペラに負けないオペラの流れです、とここでは言っておきます。このオペラはどんなオペラで誰が作曲したのかと言いますと、作曲は全ての有名オペラ作曲家です。パスティッチョとは「継ぎ接ぎオペラ」の事を言うのです。何を継ぎ接ぎしたのか、全ての有名作曲家と言えばもうお分かりの事と思います。有名な、流行りのオペラの聞きどころを抜粋して繋ぎ合わせて造ったオペラの事をパスティッチョと言ったのです。

序曲はタンホイザーを使い、ヴェルディの黄金の翼にで合唱団がおぜん立て、華々しく主役が俺が街の何でも屋で登場し、ヴィオレッタが花から花へで後をつなげ、ライバルのルチアが狂乱の場を歌いあげ、カニオが短剣を振りかざしルチアを刺殺し、罪におののくレオノーラが修道院で神の許しを乞い祈りをささげ、最後にザックスがドイツ芸術を讃えて幕になる・・・どうです素晴らしいオペラが一丁上がりです・・・現在の我々にとっては頭が痛い作品ですね。オペラ名曲アリア集の様に歌手の芸術に触れるのではなく、そこに費用と手間を掛けて舞台を造り上演してしまったのですから、考えようによってはすごい事です。つくづくオペラが娯楽であったと思い知るパスティッチョオペラの存在です。楽しければ、観衆を喜ばせ、興業収入がバンバン入れば全ては良いことだったのですね。

ロッシーニはパスティッチョオペラとは関わりがありませんが、どうやら継ぎ接ぎなどで自分自身のオペラ作曲ではパスティッチョに近い事をしていた様です。有名な話では「セビリアに理髪師」の序曲は少なくとも3回は使い回しをして他のオペラの為に作曲したものだったり、アリアも一部他の作品の流用だったり、勿論全て自作作品からの流用ですから非難するに当たりませんが、パスティッチョ並みに作品を仕上げて行ったのです。「セビリアの理髪師」序曲はなんと悲劇作品の序曲だったとか・・・。当時の流行オペラ作曲家がいかに場当たり的に作品を生み出して行ったかが分かります。娯楽作品ですから文句を言う筋合いのものではないのですが。

又、ロッシーニは自作の流用でしたが、当時のオペラ界では他人の作品の流用だってかなりあったそうです。ある場合流用は作曲者に敬意を払う事だったりしたそうです。有名なあなた様の作品を題材にさせて頂きましたと遜り(へりくだり)媚を売り引き立てて貰うと言う訳です。オペラではありませんが、ベートーヴェンのジョヴァンニ・パイジェッロ作曲、歌劇「水車屋の娘」から「我がこころはもはやうつろになりて」の主題による6つの変奏曲などに見られる様に有名な作品を題材として作曲する事は普通の事でした。

オペラ作品にはこうしたパクリ、継ぎ接ぎ、流用、変造等の手練手管を多用して世に出たものも結構ある訳です。流行作家が同じ様なテーマで、あるいは使い古された手法を改変して何作も書くのと似ています。時流に乗れると収入も増え、知名度も上がり名士の序列に並べられるのですから、作曲の方法なんて売れればどうでも良い事になります。

「セビリアの理髪師」を又、例に取り上げますが、ジョヴァンニ・パイジェッロが既に「セビリアの理髪師」をオペラにしていて当時かなり人気があったそうです。同じ台本、同じテーマを平然と取り上げ作品を造るなどと言う事も日常茶飯事だったのですね。そのパイジェッロにしてから、先輩作曲家のペルゴレージの「奥様女中」と同じ台本でオペラを作曲しているのですから何をか言わんやです。人気のある物語だから俺も一丁曲を付けて売り出してみるかと言う訳です。著作権とか言う意識があまり顕著で無かったからかもしれませんが、それよもやはり漫才や落語の様に何よりも娯楽だったので、聞く側の観衆も勿論ですが、造る側の台本作家や作曲家も気楽に捉えていたのかもしれません。

ヴァーグナーやヴェルディがオペラを完全な芸術作品に押し上げるまではオペラは娯楽の要素の方が遥かに強かった芸能だったのです。いえ、反対意見や非難があるのは分かりますが、少なくともこの二人のオペラの巨人がオペラを芸術の領域に押し上げたのは確かだと思います。けしてそれ以前の作品が芸術では無いとは申しておりません。モーツァルトの諸作品は人類の宝、文化遺産です。とは言いながらモーツァルトの作品は、我々や他ならぬモーツァルト自身がどう捉えていたかは別にして、当時は間違いなく娯楽作品だったのです。プラハの人々が、靴屋も肉屋もパン屋も紳士淑女もフィガロを口ずさんでしたのですから流行歌、娯楽音楽だったのは確かでしょう。モーツァルトも誰も彼もがフィガロですと喜んだのですから、娯楽である事を認めている訳ですよね。

そうそうモーツァルトも「ドン・ジョバンニ」の中でビセンティ・マルティン・イ・ソレルの「珍事」やジョゼッペ・サルティの「漁夫の利」の旋律を使い、自身の「フィガロの結婚」の一節も使っています。これは当時人気のあったオペラより俺の作品の方が上だと言うモーツァルト流の皮肉と自己主張ですから流用とかパクリとは意味が違いますが、それでも他の作品の一部を使う事がけして特別な事ではなかった事が伺えます。

売れれば何でも良かったからこそ玉石混合、多種多様な作品が乱立しその中から、私達の心を捕えて離さない芸術作品も生み出されたと肯定的に捉えればオペラの迷宮を歩くのも楽しいものだと思いませんか。事によるとパスティッチョだって楽しめるかもしれません。何しろオペラの聞き処だけが満載の舞台ですから、お手軽に名シーンを味わえて楽しめます。現在では特別な催しものでも無い限りゲテモノ的なパスティッチョなど誰も聞きたいとは思わない時代ですが、冗談で誰かやってくれないかなと思ったりします。

作曲の時使い回しをしたりやライバルと同じ題材を取り上げたりとオペラ一曲の作曲にも色々な思惑が隠されているのです。個々の作品の制作現場を覗いてみると色々と人には言えない制作側の秘密があるのですね。これは現在の舞台シーンでも言える事だと思います。内緒だけれどあのシーンは本当は○○だったけれど本番では××になってしまった。良くある事ですね。前にあまり舞台裏には触れたくないけれど舞台裏の事を知るのは面白いと矛盾した事を書きましたが、作曲でもオペラの秘密と言うか舞台裏があるのが分かります。オペラの秘密は作品そのものにもあるのです。秘密を知りたいか否か!知ったからと言って命にかかわる様な事はけして無いので気楽に秘密を探るのもオペラの楽しみの一つですね。

秘密を楽しみましょう。