シフラ その2

多くの聴衆は真面目にジョルジュ・シフラを第一級のピアニストだと思っていなかった様に見受けられます。 第一級と言う言い方を定義するのは難しいですが、芸術家であると認められることが含まれている様に思えます。
シフラは芸術家であるのか否か、違った言い方をすればショウマンにしか過ぎないのか、真摯なクラシック音楽の解釈者であるのかないのいかという訳です。 では、フランツ・リスト当人はショウマンであったのでしょうか? この様な事柄を述べていると、シフラその人に行きつく前に息が切れてしまいますので、それはまた後程にしますが、リストその人が大変な誤解を受けたまま今日まで来ている(もう21世紀だと言うのに!)のはもう何度か申し上げています。 そしてリストと同じ様にシフラも又、誤解されたままでいるのではないでしょうか。

シフラは9歳の時にフランツ・リストの孫弟子にあたるドフォナーニに認められリスト音楽院に入学したそうです。(*指揮者のクリスト・フォン・ドフォナーニの祖父)12歳の時には既にコンサートを開いていたので良くある天才物語の一人であったわけです。 天才も20歳過ぎればただの人と言われてしまうのは「凡庸」な「天才」だからです(何やら矛盾したことを書いていますがいつもの事ですので読み飛ばしてください)。
シフラは良くある天才物語の消えてゆく儚い少年ではなかったという事になります。 先ほど無尽蔵の技巧と書きましたが、シフラの演奏をその指さばき見ながら聴いているとまさしく無尽蔵に技巧が溢れ出し駆使される様が見えるのです。 シフラよりすごい技巧を持ったピアニストはいるでしょうし、一人シフラだけが卓越した最高の技巧の持ち主だなどとは言いませんが、シフラが他の偉大なピアニスト達と技巧の面で違って見えるのは(聞こえるのではなく見える、です)全ての困難なパッセージを弾く時の余裕綽々とした姿です。 シフラの演奏を見ていると難解で最高難易度の曲を弾いている時でさえもまるでツェルニーのピアノ学習者向けのエチュードを弾いている様に見えるのです。
他の偉大なピアニスト達だってもちろん余裕綽々でしょうけれども、シフラの様な振る舞いは感じ取れません。 シフラの場合は本当に困難な個所など無いのだとしか思えない身振り手振りでピアノに向かっているのです。
それは、その様な演出をしているからかもしれませんし、あるいは持って生まれた天分かもしれません。 たぶん天分の要素の方が強いと思います。 指先や手首が硬直するような難曲をいとも易々と弾き「飛ばして」いる様に「見える」シフラの演奏は、それだからこそ数々の誤解を生みシフラの奏でる音楽を真面目に受け取ることを妨げ、ショウマンにしか過ぎないと切って捨てられることになり、既に故人なった一人の偉大なピアニストの存在に関心を向けることをおろそかしてしまったのではないかと考えるのです。

(つづく)