ホロヴィッツ その2

とは言え、火のないところに煙は立たないと申しますのでこうした誤解や偏見が生まれる要素がホロヴィッツ自身の演奏にあったのではないかと思うのです。 例えばホロヴィッツが尊敬するラフマニノフのピアノソナタ第2番変ロ短調作品36の演奏を見てみましょう。 フォルテシモで咆哮する時どうしたらこの様な鋭く大胆な音を響かせることが出来るのかと考えてしまうのです。 それでありながら、響きにはある種の余裕が感じられます。 その上でさらに激しい走駆が聴き手に向かって襲い掛かって来る状況にさらされます。 ホロヴィッツのテクニックについていまさら述べることなど、はなから必要ないと言えそうな確固たる弾奏が聞こえてきます。
ラフマニノフの難解なソナタ第2番のこの様な演奏を聞かされれば常軌を逸したピアニスト、悪魔に魂を売り渡そうとした限りなく灰色に近いピアニストだと誤解し偏見をいだくのも無理のない事だと言えます。 圧倒されピアニストの前にひざまずく聴衆の構図が出来上がります。 それはホロヴィッツが行くところどこにでもついて回ります。 噂が噂を呼び、押しも押されない、唯一無二のピアニストが我が道を行くのです。 神経症を患い、何度も引退の危機に見舞われ、一時期は演奏会をキャンセルすることが日常的になってしまった「小心者」のピアニストの演奏であるにも関わらず、こう言って良ければその演奏が悪魔的に響き技巧の尋常ではない練達さを浴びせられる聴衆がいれば伝説めいたものが生まれ、独り歩きを始め、人間としてのホロヴィッツは実態からかけ離れて認識され、誤解と偏見の嵐の中にホロヴィッツは投げだされていくのです。

ラフマニノフのソナタ第2番の演奏で特に耳をそばだてて聴いて頂きたいのはフォルテッシモが炸裂する時の響きです。 現代の製造技術の勝利品たるコンサートグランドピアノの歪の無い有無を言わせないフォルテの響きではない音色が聴き取れます。 敢えて、あくまでも敢えてですが、敢えて言わせて頂ければその響きはシューベルトなどの時代の「フォルテピアノ」の響きに近いものが聴き取れます(実はラフマニノフはフォルテシモの指示を控えめにしか出していません)。
そんな音がどこにするのだ、耳がおかしいのではないかと言われれば素直におかしいのかもしれませんと述べておきます。
なぜその様な印象をいだくのか考えてみましたが、一つにはホロヴィッツの使っているピアノがラフマニノフを演奏した時点で既に古い世代に属するピアノであったからと推測されるからです。 もう一つはやはりピアノの調律がホロヴィッツ向けの特別なものであったと考えられます。
あたり前の事ですが、ホロヴィッツがシューベルト的な音を表現しているのかもしれません。 ラフマニノフの演奏にそんな事があるはずがないと言われるかもしれませんが。
ホロヴィッツの使用したピアノは1912年製のニューヨーク製スタインウェイであるのは有名な話です。 そうしたことを書いた本も出ております。 ここで取り上げた演奏がそのピアノを使っているか筆者は存じ上げておりません。
ホロヴィッツの使うピアノの調律については証言や憶測が乱れ飛んでおり、フランツ・モアやそのほか大勢の関係者の話しは興味深いのですが、いくら調律が大切で多くの聴衆は調律に無頓着すぎるのは事実だとしても、その視点からの見方はホロヴィッツに関する本章ではこれ以上触れない事に致します。
(つづく)

ラフマニノフ・ピアノソナタ第2番変ロ短調作品36:(https://www.youtube.com/watch?v=-JaY0IZEy90):ウラディーミル・ホロヴィッツ(Pf)