nobuの秘蔵ライヴ音源紹介 第15回
小澤征爾のライヴ音源を振り返る
(ベルリン・フィル編 後編)
1981年1月、ザビーネ・マイヤーという21歳の若いクラリネット奏者がベルリン・フィルのオーディションを受けた。演奏を聴いたカラヤンは「彼女以外にいない」と絶賛したが、オーケストラ側は初の女性奏者を受け入れる事に難色を示し、1982年11月、最終的にオーケストラ内で試験採用するかどうか投票が行われた結果、不採用と決まった。この結果に激怒したカラヤンはベルリン・フィルとのコンサート数を制限し、次第にウィーン・フィルに接近していった(その後ザビーネ・マイヤーは世界的なクラリネット奏者となった)。このカラヤン不在の時期に奮闘したのが小澤征爾で、1984年は6月に4つのプログラムを指揮するという大車輪の活躍だった。ただFMで放送されたのはその内の2公演で、高い評価を得たチャイコフスキーの交響曲第5番を含むプログラムが放送されなかったのは残念だった。6月15日がバッハの管弦楽組曲第2番、第3番からマーラーの編曲版による5曲、バッハのブランデンブルク協奏曲第5番、現代作曲家ジーメンスのヴィオラ協奏曲、メシアンの「異国の鳥たち」。6月19日がベルクの「抒情組曲からの3楽章」、ツェムリンスキーの交響的歌曲、ブラームスの交響曲第1番というプログラムだった。編成の大きなバッハは好みの分かれるところだが、第3番の「アリア」などはたっぷり歌った美しい演奏であるし、安永徹のヴァイオリン、カール・ハインツ・ツェラーのフルート、内田光子のピアノによるブランデンブルク協奏曲第5番も、息の合ったアンサンブルを聴かせている。しかし、この演奏会の白眉はメシアンの「異国の鳥たち」だろう。この演奏を初めて聴いた時の強烈な印象は今でも心に残っている。ベルリン・フィルの、打楽器、木管楽器、ブラスセクションによる分厚い響き、内田光子の鋭い感性、小澤の複雑な曲想をまとめ上げる見事な手腕。これらが一体となった稀有の名演である。抒情交響曲で知られるツェムリンスキーの交響的歌曲は、黒人詩集「アフリカは歌う」のテキストによる7曲からなるバリトンと管弦楽のための作品で、ドイツの名バリトン、フランツ・グルントヘーバーが歌っている。交響的というだけあって、ティンパニを含めたオーケストレーションは賑やかで、グルントヘーバーのスケールの大きな歌唱が素晴らしい。ブラームスの交響曲第1番は、ボストン響やウィーン・フィルとの来日公演、1987年のサイトウ・キネン・オーケストラとの初のヨーロッパ演奏旅行、2010年のニューヨーク、カーネギーホールでの復帰公演と、節目節目で取り上げてきた曲だが、ここでの演奏は、並々ならぬ気迫が感じられ、気合いの入った熱気がひしひしと伝わってくる演奏だ。カラヤンが不在でも、ベルリン・フィルは小澤の指揮に助けられ、このピンチを脱したのだった。
1982年5月に演奏されたハイドンのオラトリオ「天地創造」も、声楽を伴う大曲を得意とする小澤の珍しいレパートリーの一つだ。小澤のハイドンというと、正規盤では少ないが、演奏会では比較的多くの曲を取り上げている。交響曲が中心だが、「天地創造」のライヴ録音が残されていることを喜びたい。力みのないふくよかな響きと、快活なリズムのバランスが絶妙。ソリストでは特に天使ガブリエルとイブを歌うキャスリーン・バトルのソプラノが素晴らしい。やはりバトルは魅力的な声を持っている。バトルといえば、わがままでエキセントリックな性格が指摘され、批判に晒されることもあるようだが、私には良い思い出しか残っていない。1992年の来日リサイタルでは、通常のプログラムが終了した後、アンコールが始まり、延々と10数曲を歌ってくれた。サントリーホールを後にしたのは22時過ぎ、忘れられない感激のコンサートとなった。ちなみに、ベルリン・フィルとのハイドンは交響曲第73番、第86番、第93番、協奏交響曲が演奏されている。
1985年は11月に演奏されたピエール・アモイヤル独奏によるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番とブルックナーの交響曲第2番を取り上げたい。ブルッフは1979年のパールマンとの名演を思い出すが、アモイヤルのヴァイオリンも、伸びやかに歌う美しい音色と技巧の冴えが魅力的で、小澤の指揮も充実している。小澤のブルックナーは、「ブルックナーは小澤に向いていない」という声も聞かれるなか、高い評価を得るには至っていないようだ。そもそも、向いている、向いていない、という基準はどこにあるのだろう? 聴き手が良かったと感じる演奏であればそれで良いのではないだろうか。演奏会ではボストン響時代の70年代から取り上げていて、第1番と第6番を除く7曲を演奏、日本では新日フィルと第1番、第2番、第3番、第4番、第7番を演奏している。そういう意味では、マーラーでは全集を完成させ、ブルックナーもほとんどの曲を演奏している小澤は、両作曲家を多く振っている数少ない指揮者の一人に数えられても良いかも知れない。ベルリン・フィルとのライヴ録音ではその後、1988年6月に第7番、2009年1月に第1番が演奏されている。1990年には第4番「ロマンティック」も演奏されているが、残念なから放送はされていない。第2番は1999年にウィーン・フィルとも演奏しているし、ボストン響、新日フィルでも取り上げていることからも、ブルックナーの中では演奏頻度の高かった曲のように思われる。均整のとれた美しい響きはこの曲の魅力を存分に引き出しているし、スケール感も見事だ。第7番は外連味のない、すんなりと音楽に浸っていけるような自然体の演奏で、現地での評価は賛否あったようだが、会場ではブラボーの声も聞こえている。前半にはワーグナーの歌劇「タンホイザー」序曲とベルリン・デビューとなった吉野直子を迎えてのヘンデルのハープ協奏曲が演奏されているが、これがまた素晴らしい出来で、吉野直子というハーピストの優れた才能を目の当たりにすることとなった。第1番はベルリン・フィルの芳醇な響きが印象的で、小気味良いリズムと引き締まったオーケストラの力感も見事だ。これは小澤の最も成功したブルックナー演奏のひとつではないだろうか。付け加えておくと、1999年8月15日、カラヤン没後10周年記念コンサートでウィーン・フィルと演奏された交響曲第9番が素晴らしい演奏だった。バルトークも小澤の得意とする作曲家の一人だが、1986年11月に「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」、1988年5月にウォルフラム・クリストを独奏者に迎えての「ヴィオラ協奏曲」と「管弦楽のための協奏曲」が演奏されている。どれも聴きごたえ充分の名演ぞろいだが、特に「管弦楽のための協奏曲」は、まるで格闘技のよう。指揮者とオーケストラのぶつかり合いから引き出された音は実にブリリアントだ。この「オケコン」は1994年10月にも演奏されているが、この演奏会の前半に演奏されたのが、メンデルスゾーンの交響曲第1番だった。大変珍しいレパートリーで、この曲のライヴ音源自体少ないのだが、溌剌とした生命力に溢れた名演で、メンデルスゾーンが15歳の頃作曲した若書きの作品の魅力を充分に伝えている。1986年11月に演奏されたシューマンの交響曲第2番も印象に残る名演だった。何と言ってもリズムの良さが曲全体を引き締め、乗っている演奏とでも言おうか、心地良い気分にさせてくれるのだ。
ここで、協奏曲を取り上げてみたい。ブラームスのピアノ協奏曲第1番というと、1978年、ボストン響との初来日時にルドルフ・ゼルキンと共演した、火花が散るような白熱の名演奏を思い出すが、ベルリン・フィルとの演奏では、1986年11月にクリスティアン・ツィメルマン、1989年6月にアンドラーシュ・シフと共演したライヴ録音が残されている。面白いことに、この二つの演奏には、大きな違いがある。演奏時間だ。ツィメルマンが約52分、シフは約47分30秒とかなりの差がある。シフとの演奏がゼルキンの演奏時間と近いのだが、硬質で雄弁なゼルキンのピアノに比べ、シフのピアノはもっとしなやかで、そこに芯があって力強い。テンポの遅いツィメルマンのピアノは悠々たるスケール感を持った輝きに満ちている。三者三様、どれも素晴らしいが、小澤の指揮は、どの演奏でも一貫して基本的なスタンスを変えていない。常に緊張感の高い、引き締まった重厚な響きを全面に押し出していて、見事な指揮ぶりだ。
ここまで、前・後編に分けて小澤征爾氏のライヴ音源をご紹介してきたが、改めてこの指揮者の芸の深さを痛感する。ベルリン・フィルだけでもこれだけの名演奏を残してくれたことに感謝したい。幸い、今回登場したライヴ音源の一部が6枚組CDの正規盤として発売されるようだ。マーラーの「巨人」、チャイコフスキーの「冬の日の幻想」、アルゲリッチとのラヴェルも入っている。これは是非多くの方々に聴いてもらいたい。ただひとつ、拍手がカットされていないか、という心配事がある。ライヴ音源には必ず拍手は入れるべき、というのが私の持論である。いずれにしても、これまで日の目を見なかった小澤氏のライヴ音源が、正規盤として世に出ることを感謝しながら、終りとしたい。
【ご紹介した主なライヴ音源】
・バッハ(マーラー編曲):管弦楽組曲第2番、第3番から
・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調
内田光子/安永徹//カール・ハインツ・ツェラー
・ジーメンス:ヴィオラ協奏曲
ヴォルフラム・クリスト
・メシアン:異国の鳥たち
内田光子
1984年6月15日 フィルハーモニーホール
・ベルク:「抒情組曲」からの3つの楽章
・ツェムリンスキー:交響的歌曲
フランツ・グルントヘーバー
・ブラームス:交響曲第1番ハ短調
1984年6月19日 フィルハーモニーホール
・ハイドン:オラトリオ「天地創造」
キャスリーン・バトル
ベンジャミン・ラクソン
エーベルハルト・ビュヒナー
ベルリン聖ヘトヴィッヒ教会合唱団
1982年5月18日 フィルハーモニーホール
・ブルッフ:ヴアイオリン協奏曲第1番ト短調
ピエール・アモイヤル
・ブルックナー:交響曲第2番ハ短調
1985年11月12日 フィルハーモニーホール
・ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲
・ヘンデル:ハープ協奏曲変ロ長調
吉野直子
・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
1988年6月21日 フィルハーモニーホール
・ブルックナー:交響曲第1番ハ短調
2009年1月31日 フィルハーモニーホール
・ブラームス:交響曲第3ヘ長調
・バルトーク:管弦楽のための協奏曲
1988年5月28日 フィルハーモニーホール
・メンデルスゾーン:交響曲第1番ハ短調
・バルトーク:管弦楽のための協奏曲
1994年10月27日 フィルハーモニーホール
・ヒンデミット:組曲「いとも気高き幻想」
・シューマン:交響曲第2ハ長調
1986年11月29日 フィルハーモニーホール
・バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
・ブラームス:ピアノ協奏曲第1番ニ短調
クリスティアン・ツィメルマン
1986年11月26日 フィルハーモニーホール
・ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
・ベルク:3つの管弦楽曲
・ブラームス:ピアノ協奏曲第1番ニ短調
アンドラーシュ・シフ
1989年6月13日 フィルハーモニーホール