“ウィーンフィルのニューイヤーコンサート”生中継秘話

~天才指揮者クライバーの名演を世界初ステレオ&ハイビジョン中継~

日 時:2018年01月20日(土) 午後2時~午後4時30分
場 所:竜ヶ崎ショッピングセンター・リブラ 2階 「旧映画館」
講 師:竹森道夫氏(元NHK音楽プロデューサー)

 今年最初の特別企画はNHK音楽プロデューサー、NHK交響楽団演奏企画部長として ご活躍された竹森道夫氏による新春特別講演会を開催しました。
1989年NHKがニューイヤーコンサートをハイビジョン生中継するに当たり、 当時の衛星回線の容量が細く映像と音声を同一回線で送ることが出来なかった為、 苦肉の策で映像は大西洋廻り、デジタルステレオ音声は インド洋廻りの衛星回線2回線で送ることになった。 ところが距離の違いで映像が遅れて着くので「カチンコを叩いた」映像と音を ウィーンから送り、東京に届いた映像にデジタルディレイで音を遅らせて合わせる という離れ業を成し遂げられた。 この手法でハイビジョンの素晴らしい映像とデジタルステレオ音声が日本の家庭に 生で届けることができたそうだ。 更にテレビ音声用にミキシングされた音よりラジオ音声用に ミキシングされた音の方が格段に良かったことから 音声はラジオ用のものを流用できるよう交渉されたエピソードも披露された。 この様に限られた条件の中でハイレベルの生中継を完遂すべくNHK音楽プロデューサーとして 辣腕を発揮されたのが竹森道夫氏です。

<第一部:ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートの歴史>

1938年、ナチス・ドイツのオーストリア併合による市民の不満をためないよう シュトラウスのワルツやポルカのコンサートを企画し、1939年から始めたのは 元ウィーンフィル首席指揮者のクレメンス・クラウスでした。 ウィーンフィルのニューイヤーコンサートは来年で80回を迎える究極の素晴らしい ルーティンワークで、12月30日大統領や軍関係者を招いた公開練習、 12月31日ジルベスターコンサート、1月1日ニューイヤーコンサートと同じプログラムが 3日間繰り返される。 来年の指揮者はクリスティアン・ティーレマンだがチケットはいい席だと 62万円以上するらしい(立見は5千円)。 しかし、当初は楽団員がチケットを売り歩き楽団員の年金資金に当てていたそうである。

(1) ヨハン・シュトラウス2世ワルツ「春の声」
クラウスが最後に指揮した1954年ライブで(クラウスはこの年5月メキシコで没)
1955年からはコンサートマスターのヴィリー・ボスコフスキーが引き受け 1979年まで四半世紀指揮を務めた (シュトラウス2世に倣ってヴァイオリンを弾きながら弓を振りつつ指揮)。 1959年から各国に中継され始めたころより人気が高まり現在では90カ国以上に放送されて 4億人以上が視聴しているとされる。

(2) ヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス「ピッチカート・ポルカ」 ボスコフスキー指揮 1979年ライブ
ウインナワルツ演奏は彼らにとって何時も演奏しているので我々から見ると 気楽に演奏しているように見えるが実に難しい様でかなりリハーサルする必要があるようだ。 ボスコフスキーの後、ウィーンフィルと緊密な音楽関係にあったロリン・マゼールが7年間指揮した後、 ヘルベルト・フォン・カラヤン登壇となった。 カラヤンも徹底的なリハーサルを行った模様です。

(3) ヨハン・シュトラウス2世ワルツ「春の声」 カラヤン指揮、キャスリーン・バトル(ソプラノ)1987年ライブ
カラヤンの発案なのかオーケストラ伴奏付きの歌曲版を選びバトルの歌唱で より一層華やかになりました。 因みに、ニューイヤーコンサートでゲストが招かれたのはこの1度だけだそうで さすが「帝王カラヤン」ですね。

(4) ヨーゼフ・シュトラウス ポルカ「Ohne Sorgen!(大丈夫だよ!) カラヤン指揮 1987年ライブ
Ohne Sorgen!では途中、楽団員の「アッハッハ!」という笑い声が入る演出があるが 他の指揮者の場合は楽団員に任せて適当にさせるがカラヤンの時は譜面通りよく揃っていた。 きっと緻密なリハーサルが反映されているからだろう。
1989年にいよいよカルロス・クライバーがニューイヤーコンサートに登壇する訳だが 楽団員が非常に神経を尖らせていた。 「テレーズ事件」それは1982年12月に定期演奏会でクライバーがべートーヴェンの 交響曲第4番2楽章の冒頭の第二ヴァイオリン部分を、クライバーは 「そこはマリー、マリーじゃない!テレーズ、テレーズとリズムに注意して弾いてくれ!!」 と叫んだが楽員は「テレーズって??」とそれを理解せず何度演奏してもクライバーは納得せず 「これはテレーズじゃない」こんなことも分からないのかと演奏会をキャンセルして ミュンヘンに帰ってしまった逸話です。 同様のドタキャンをニューイヤーコンサートでやられたらと恐れてピリピリしていた様です。 因みに、テレーズはべートーヴェンが恋い焦がれたピアノの教え子テレーズ・フォン・ グィチャルディで最初は妹のマリーと婚約するまでになったが 心変わりして姉のテレーズを恋するようになったらしい。 べートーヴェンが恋い慕うテレーズを慮ってリズムを刻めとクライバーは楽員に伝えたくて この比喩を使ったらしい(そんなの分かるわけない、というのが楽員の本音)。 楽団員にも作曲に関係した深い教養を求めるクライバーなのである。

(5) べートーヴェン交響曲4番2楽章(冒頭部分)で「テレーズ」を確認。
ペルシャ行進曲は2分程度の曲だがクライバーは2日間、朝晩計20分ずつ4回の 入念なリハーサルを行っていたそうである。 ボスコフスキーとクライバーを比較するとクライバーの緻密な音創りが伝わってくる。

(6) ペルシャ行進曲 ボスコフスキー指揮 1959年
(7) ペルシャ行進曲 クライバー指揮 19992年ライブ
リハーサルと本番に居合わせた竹森氏によるとクライバーはリハーサル時、 本当に正確緻密に指揮をするが本番ではオーケストラを解放して優雅に振るようである。 本番しか見れない我々は適当に振ってる様にしか見えないのに素晴らしい演奏を 聴かせてくれる訳を知った思いである。

<第二部:<クライバー秘話とニューイヤーコンサート>

クライバーは指揮する上で偉大な指揮者で父のエーリッヒ・クライバーが残した スコアの書き込みを参考にしていたらしく父の残したスコアの曲しか 指揮しなかったとの噂がある。 しかし、父エーリッヒとカルロスでは音楽の目指す方向がかなり違うので そんなことはないようである。 エーリッヒは「指揮者クライバーは一人でいい」とカルロスが指揮者の道に進むのを反対していた。 そのためか父が住んでいたウィーンには生涯住まずミュンヘンで暮らした。 ウィーンでクライバーと言えばエーリッヒを指す雰囲気も嫌だったのかもしれない。
テレーズ事件以来1989年にウィーンに戻って来たクライバーをウィーンフィルは 緊張感を持って迎えた様だ。

以下、1989年の緊張感溢れるニューイヤーコンサートから
(8) オペレッタ「こうもり」序曲 ヨハン・シュトラウス2世
(9) ワルツ「芸術家の生活」ヨハン・シュトラウス2世
(10) ポルカ「小さな水車」ヨーゼフ・シュトラウス
(11) ワルツ「春の声」ヨハン・シュトラウス2世
ワルツやポルカはオーケストラにとって意外に重労働、特に第二ヴァイオリンとビオラ それにトロンボーンはリズムを長時間刻むのでとても大変であることを分かってほしい。

<カルロスとバッタリ出会う>

竹森氏は1992年のニューイヤーコンサート収録準備の為、朝7時半頃から演奏会場の 楽友協会大ホール調整室でハイビジョン機材のウオーミングアップをしていたところ 暗闇の舞台でベストを着た「おっさん」が譜面台や椅子を動かしているので 何をしているのかと舞台に上がってみるとなんとクライバー本人だった。 お互い驚いたが日本からハイビジョン収録する為に準備しているところだと言うと カルロスは「ウィーンに新しくできた日本料理屋を知ってるか、あそこは寿司がうまい」とか、 秋に日本に行く予定なので「俺は笹団子が大好きだから忘れないでくれ」とかの 会話があったようである。 指揮者が譜面台や奏者の椅子の配置を事前チェックするなど聞いたことがないが クライバーの繊細な性格を反映した行動なのかも知れない。
カルロスは3日間で約11時間のリハーサルをみっちりやる人だったが楽員から 不満の声は聞かれなかった。 因みに、ロリン・マゼールやズービン・メータなどによるリハーサルは1日目はなし、 2日目は午前中だけという運びだった。

以下、1992年ニューイヤーコンサートライブから
(12) ポルカ・マズルカ「町といなか」ヨハン・シュトラウス2世
(13) ワルツ「美しく青きドナウ」ヨハン・シュトラウス2世
(14) ラデッキー行進曲 ヨハン・シュトラウス1世
当日は満席で最後のラデッキー行進曲では会場の皆様が 本場のニューイヤーコンサートと同様手拍子を打って楽しまれ 大盛況の内に新春特別講演会は終了しました。(fumi)

当日配布されたプログラム