「歴史に翻弄されたメンデルスゾーンの真髄」

~ユダヤ人だったために不当に評価された過去と再評価~

日時:2018年12月8日(土) 午後2時〜午後4時45分
場所:竜ヶ崎ショッピングセンター・リブラ2階「旧映画館」
講師:竹森 道夫 氏(元NHK音楽プロデューサー)

今年最後の特別企画はNHK音楽プロデューサー、NHK交響楽団演奏企画部長としてご活躍された竹森道夫氏をお招きし「メンデルスゾーンの真髄」と題して、特別講演会(&CDコンサート)を開催しました。

メンデルスゾーン(1809~1847)の音楽は一般的に優美で軽いと思われている傾向がある。 しかし生誕200年を迎えた10年ほど前から再評価され、750もの作品が再確認され、大作曲家としての全貌が明らかになってきました。 竹森氏にはNHK在職中の現地取材経験談を交えて、「歴史に翻弄されたメンデルスゾーンの真髄」について、ユダヤ人だったために不当に評価された過去と再評価について数々の名曲を織り込みながら熱く語っていただきました。 様々なエピソードを盛り込んだフェリックス・メンデルスゾーンの真の姿を伝える竹森氏の講演はイメージを刷新する内容で大盛況でした。(fumi)

メンデルスゾーンは作曲家、指揮者としても凄かったが企画力にも優れた業績を残している。 当時バッハのマタイ受難曲はライプツィヒ聖トマス教会でも部分的に、たまにしか演奏されていなかったものを師であるツェルターの反対を押し切ってバッハ没後初めて100年ぶりに復活上演した。 それにはベルリン・ジングアカデミーの合唱団、ライプツィヒの合唱団に対し2年間も徹底的に指導したらしい。 また当時は使われなくなっていたバッハ時代の古楽管楽器をメンデルスゾーン時代の楽器編成で使えるようにしてマタイ受難曲を演奏したようだ。 この「マタイ受難曲」公開演奏は大成功で5回も再演されたそうである。 これを期に忘れかけられていたバッハが再評価され蘇った。

もう一つのライプツィヒでのメンデルスゾーンの功績としてゲバントハウス・オーケストラの運営基盤確立がある。 カペルマイスター(楽長、この時26歳)としてメンバーを揃え、給料を払い、年金制度を作り奏者の待遇を改善して演奏に集中させることで技術を向上させた。 現在では各オーケストラで定番となっている「定期演奏会」を始めたのはメンデルスゾーンである。 当時の演奏会は当日朝にスコアが配られ練習して夜に本番というのが定番であった。 ある意味奏者はルーティンで演奏をしていたといえる。 モーツァルトやベートーヴェンの時代はそうであった。 しかしメンデルスゾーンはコンサートの前に徹底的にリハーサルを行った。 ライプツィヒはもちろんロンドンのシンフォニーソサエティーでも同じく徹底的にリハーサルを行った。 奏者もメンデルスゾーンなら何時間でもリハーサルしたいと納得していたとか。 N響や都響での仕事をした経験からいうと奏者が指揮者に対してそのような感情を持つのは奇跡のように思う。 7年間のN響時代でそのようなことを聞いたのはアンドレ・プレヴィンとスベトラーノフなど数えるほどしかいない。 誇り高き奏者達がこのように振る舞うのはメンデルスゾーンが音楽的なことは勿論、人間的な魅力も高かったからなのだろうと思う。

1970年代からずっとメンデルスゾーンには「借り」があると思ってきて罪悪感があった。 NHK在職の1970年代終わり頃に上司から「名曲アルバム」の取材で冬のヨーロッパにカメラマンと行ってこいと命令された。ところが冬のヨーロッパは天候が悪く、雨は降るし1日の中で2時間くらいしか明るくならないので難儀した。 撮影カメラは現在のような軽いVTRではなく当然フィルム、200kgの機材をカメラマンとコーディネータの3人で運びながら18箇所回った。 その中でハンブルグでの撮影があった。 メンデルスゾーンはハンブルグに生まれた。 特別市であるハンブルグには観光局がありそこでメンデルスゾーンを調べた。 ところが生家や少年時代を過ごした場所、ましてや銅像など一切なにも情報がなかった。 当時唯一見つけたのがこの60ページほどの本のみであった。

英語版グローヴ音楽大辞典でも1980年代に始めて10数行載せたのみ。 ドイツで出版されている有名なMGG(Die Musik in Geschichte und Gegenwart)音楽専門辞典にも一切書いていない。 後で分かったのはメンデルスゾーンがユダヤ人だったからナチスが徹底的に資料を焼却したり銅像を壊したりさせたらしい。 ハンブルグにあった生家も取り壊したらしい。 我々は今思えば「現地に行けばなんとかなる」と軽く考え教会や観光局を訪ねたがそのため情報は得られなかったのである。 プロイセン、北ドイツの人々は「ナチ」の話はしたくないとの思いがとても強い。 ハンブルグは湖もあって美しい街なので生家ではないかと思われる場所を撮影した。 しかし11月のハンブルクは晴れる日などまずなくて手を伸ばせば雲に手が届くような天候が続く。 ブラームスの交響曲第3番3楽章のようにトボトボと歩きながらなんの確証もない映像を撮って帰国、「名曲アルバム」の字幕をどう入れるか苦慮したのはいうまでもない。 「名曲アルバム」では18曲分取材するという計画であったが不測の事態も考慮して予備も含めて候補曲は23曲分用意していた。 しかし天候が悪くなかなか思うようにはならなかった。

1990年代になってからメンデルスゾーンの情報が現地でも入手し難い理由が分かって来た。 グローヴ音楽大辞典を発刊しているグローヴ卿(英国の大貴族)は「貧乏で病気持ちでなければ偉大な芸術家になれない」と理不尽なことを書いている。 メンデルスゾーンはユダヤ人で、金持ちで、特段病気もしていない、なので評価されなかったのかも知れない。 メンデルスゾーンがなぜ金持ちだったか。 それはユダヤ人に許された職業がカトリック教会により「金融業、行商、仕立て屋」(11世紀頃からローマより発令)に限定され、移動の自由もなく住む場所も限定されていた。 そんな中ではあるがメンデルスゾーン家は裕福であったらしい。 祖父は工場経営者にして哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン、父は金融業で大成功した銀行家アブラハム・メンデルスゾーンだから金銭面では恵まれた家庭であったと想像する。

「名曲アルバム」はどんな曲でも5分に収めなくてはならない。ベートーヴェンのエグモントを放送用に5分にしてしまった(事実N響からも怒られた)こともある。 そのような条件の中、選曲した曲の中で15歳の時に作曲したクラリネットソナタが演奏時間が5分弱で省略することなく「名曲アルバム」に使えた。 先ずそれを聴いていただく。 15歳の少年が作った美しい曲だがなにか救いがなさすぎるような気がするが。

① クラリネットソナタ変ホ長調 第2楽章 andante ヘンデ・デ・クラーフ(Cl)/ダニエル・ワイエンベルク(Pf)

メンデルスゾーンが10歳の時にヴァルトブルグでユダヤ人排斥運動が起こる。 ユダヤ人が殺されてもなにも言えない雰囲気があった。 仲の良かった姉のファニー(ピアニストで作曲家)とバルト海海岸に遊びに行った祭になんと集団で石を投げられたこともあったようだ。 メンデルスゾーンの祖父モーゼス・メンデルスゾーンは工場経営者で哲学者でヘブライ語、ラテン語、ギリシャ後、ドイツ語もできる人であった。 ユダヤ教の聖書をドイツ語に翻訳し、キリスト教が信じる神様とユダヤ教が信じる神様は同じ神様だと子供達にも教育したようだ。 メンデルスゾーンが生きた時代はユダヤ人の音楽家は殆どいなかったと思われるがその後、19世紀末からマーラーやシェーンベルクなどユダヤ人音楽家が数多く出て来ている。 その先鞭を付けたのがメンデルスゾーンともいえる。

30歳の時に作曲された曲にピアノ三重奏曲がある。 プロの音楽家には軽く思われがちな曲なのだがゲルハルト・ボッセさん(指揮者、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団コンサートマスター)は東ドイツから亡命に近い形で日本に来て日本のオケを指揮したりされていた。 そんな中、霧島音楽祭での公開レッスンで優秀な生徒達にこのピアノ三重奏曲を指導された。そしたら第1楽章だけでも1日2時間のレッスンが4日かかっても終わらない厳しい指導だった。 ボッセさん曰く「各楽章は弱拍から始まる。 これは問いかけなんだよ。 迷いなんだよ。 どっち行くか分からない。 そういう感情を表現しなければならない。」と。 そのところをとても上手く表現されている演奏を次に聴いていただく。 これは金持ちの音楽ではないと感じてもらえると思う。

② ピアノ 三重奏曲第1番ニ短調 Op.49 全楽章 ボロディン ・トリオ(ロスチスラフ・ドゥヴィンスキー(Vn)/ユーリ・トゥルノフスキー(Vc)/ルーバ・エドリーナ(Pf)
ドゥヴィンスキー(Vn)は元ボロディン弦楽四重奏団の1st Vn、奥さんのエドリーナ(Pf)はショスタコーヴィッチのピアノ五重奏の初演をした人、夫婦で亡命した。

ナチによる迫害時代ウィーンの人達はメンデルスゾーンの音楽をなんとか残そうとして楽譜をウラル山脈とかポーランドとかへ命がけで楽譜を運んだ。 メンデルスゾーンについてはワーグナーが「音楽におけるユダヤ性」という論文を書いた(1850年、メンデルスゾーン没後3年に当たる)。 グランド・オペラで名声を博したジャコモ・マイヤベーアもメンデルスゾーンを非難した。 これらの論評をヒットラーは利用し第二次世界大戦前に楽譜とか銅像を焼却、破壊した歴史がある。 しかしここ10年ほどにポーランド等へ難を逃れた楽譜が最近400曲程度復活されて来た。

メンデルスゾーンは数多く旅をしていてイギリスには7回も行っている。 イギリス王室にも呼ばれている。 ロンドンは金融の街なのでユダヤ人に対しそんなに拒否反応はなかったのかも知れない。 彼は絵が上手くこの写真のない時代に多くのスケッチを残し、姉のファニーへも数多く送っている。 次に紹介する曲はスコットランドのフィンガルの洞窟(ヘブリディーズ諸島)に立ち寄り曲想を膨らませたのであろう。 ワーグナーも「見事な音の絵画である」と評価している曲である。

③ 序曲「フィンガルの洞窟(1830年版)」Op.26 リカルド・シャイー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、2006年のライブ録音

カペルマイスターのシャイーは「メンデルスゾーンの演奏様式をみんな間違えている。彼の音楽はロマン派ではない。Sturm und Drang であるべき、疾風怒涛に演奏すべき」と。 シャイーの演奏は優美とは無縁の高ぶる感情を前面に出した演奏となっている。

シャイーはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の19代目(メンデルスゾーンから数えて16代目)のカペルマイスターだが、次に聴いていただくブルーノ・ワルターは12代目でフルトヴェングラーの次になる。 ワルター(本来の姓はシュレジンガーでユダヤ人に多い姓)はユダヤ人で1933年にナチスより演奏活動の禁止を命じられカペルマイスターを辞任しオーストリア、スイス、フランスを経てアメリカに亡命した。 亡命先のアメリカでユダヤ人のミルシュタイン(Vn)と演奏したのが次のヴァイオリン協奏曲ホ短調である。 火の出るような凄い演奏で「メンデルスゾーンの真髄」を体現しているのではないか。 優美とは無縁の演奏である。

④ ヴァイオリン協奏曲ホ短調 Op.64 ナタン・ミルシュタイン(Vn)/ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団(1945年3月7日戦時中のライブ)

因みに、ニューヨーク・フィルはウィーン・フィルと同じ年にできた歴史あるオーケストラだがアメリカのオーケストラなので入場料と寄付だけで運営している。 退職金もない。 団員は週契約が基本である。 複数年契約できるのはコンサート・マスターとか首席奏者だけ。 そのため退職金を集める「団員退職基金コンサート」が行われている。 入手したプログラムからマーラー(1910年3月27日)、フルトヴェングラー(1927年3月1日)、ワルター(1945年3月7日、④はその時のライブ)それにダニー・ケイ(1981年9月23日)もこれに協力していることが分かる。
聴いていただいた④は昭和20年3月7日のライブ公演であり世界大戦中だ。 4月30日にヒットラーと愛人エバ・ブラウンが自殺し、5月2日にベルリンが陥落する。 そのヨーロッパから這う這うの体で逃げてきたワルターとミルシュタイン、そして世界で一番ユダヤ人の人口が多いアメリカ。 ナチスドイツが消滅することを願うこの日の演奏会は「異様な雰囲気があった」とこのライブ録音から伺える。 やはり音楽は作曲家と演奏家と聴衆が一体となり作って行くものなのではないか。

昭和20年3月11日は東京大空襲の悲劇があった日だが翌日3月12日は日比谷公会堂でN響定期演奏会が予定されていた。 はたして焼け野原のなかでお客さんは来るのだろうか。 演奏家も来れるのであろうか。 楽器トラックはもちろん動けない。 そんな中、コントラバスやティンパニは大八車で運ばれてきた。 このような中でも聴衆は超満員だったそうである。 その時の様子を指揮をした山田一雄さんから聞いた事ことがある。「始まり出したら客席からすすり泣きの声が聞こえた。 舞台から客席まで涙に溢れていた。 最後まで熱気立っていた。」と。 音楽が人の心を救ってくれたのかどうかは分からないが我々が音楽に懸ける何かを感じさせてくれると思わずにはいられない。

1829年メンデルスゾーンが20歳の時にバッハのマタイ受難曲をベルリン・ジングアカデミーのホールで復活上演した。 これに関する逸話として14歳の時に母方の祖母からバッハのマタイ受難曲の写譜をクリスマスプレゼントされ、それ以来彼は勉強し続けていたそうである。 それが再演に繋がった。

ワルターはメンデルスゾーンから数えて6代目のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターである。 伝統とは凄いもので嘗てヘルベルト・ブロムシュテット(18代目カペルマイスター)のマネージャーから明け方に「ブロムシュテットさんがゲヴァントハウス管弦楽団の次期カペルマイスターに選ばれた」と嬉々として電話をくれたことがある。 ライプツィヒのドイツ人にとってゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターはとても象徴的なものなのだろう。

次にメンデルスゾーンの宗教曲を紹介したい。 彼は「エリヤ」「パウロ」「キリスト」の3部作のオラトリオを書こうとしたが「キリスト」は未完に終わっている。 サヴァリッシュさんは「エリア」の上演に特に熱心だったがプロデューサーとしてはソリストを招聘し、合唱団を用意するなどお金が掛かり過ぎて大変だった。 それでも2回ほどN響で上演した。 因みに、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団コンサート・マスターのカール・ズスケさんとは大変仲良くさせてもらいN響の定期演奏会にコンサート・マスターとして10回ぐらい来てもらったことがある。 ある時、サヴァリッシュ指揮の演奏会でズスケさん曰く「サヴァリッシュの言う通りには絶対に弾かない」と言う。 しかし、サヴァリッシュさんはズスケさんを嫌ったりしない。むしろ満足している様子。 これをみてヨーロッパの音楽の作り方は「言われた通り演奏するのではなくプライドある奏者が何かを返せばそれを受け止めるのが偉大なマエストロだ」とする文化があるのだと感じた。 サヴァリッシュによる凄まじい「エリア」お聴きください。

⑤オラトリオ「エリア」Op.70 第一部から ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮イプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団/ライプツィヒ放送合唱団他

メンデルスゾーンは旅行が多かった。 イギリスには7回、イタリアには1年間ぐらい。 メンデルスゾーンの家にはゲーテがよく来ていたらしい。 そんなこともあってゲーテの詩に多く曲を書いている。 ゲーテもイタリア紀行を書いているのでそれに彼は刺激され旅をしたのかもしれない。 メンデルスゾーンの旅行にはヘクトル・ベルリーオーズが一緒について行ったらしい。 メンデルスゾーンは「ベルリオーズは愛すべき人間ではあるがあのように破壊的な音楽はいかがなものか」と書き残している。 当時の船や馬車を使った旅は大変でモーツァルトが早世したのも若い頃から旅を続けたせいかも知れない。

1947年5月の英国滞在中、常に心の支えであった姉のピアニストで作曲家でもあったファニー・メンデルスゾーンが亡くなった知らせを聞いて「ファーニーへのレクイエム」として弦楽四重奏曲第6番へ短調が作曲された。 これが彼の38歳での絶筆となり、ファニーの後を追うように11月4日に亡くなった。 悲痛な曲で「メンデルスゾーンよ、安らかに」という思いがする。 本講演の最後にメンデルスゾーンの魂の叫びを聴いてほしい。

⑥ 弦楽四重奏曲第6番へ短調 Op.80 メロス四重奏団

講演会で配布したプログラムはこちら

竹森道夫氏と龍ヶ崎ゲバントハウスのメンバー