「東条碩夫が体験した昭和・平成、クラシック音楽界のエポックメーキング」
日時:2019年4月20日(土) 午後2時〜午後4時45分
場所:竜ヶ崎ショッピングセンター・リブラ2階「旧映画館」
講師:東条碩夫氏(音楽評論家)
(当日配布したプログラムはこちら)
今年度最初の特別企画は元FM東京音楽プロデューサー/ディレクターで現在も音楽評論家としてご活躍されている東条碩夫氏をお招きし特別講演会を開催しました。 FM東京での「TDKオリジナルコンサート」プロデューサーとして辣腕を発揮された時の収録現場での様々な隠れたエピソードをご紹介いただき、音楽愛とユーモア溢れる講演に会場は大いに湧きました。(fumi)
① クルト・ザンデルリンク指揮シュターツカペレ・ドレスデン初来日公演
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲
(1973年10月18日・東京厚生年金会館大ホール)
※いぶし銀の魅力・ドレスデン国立歌劇場管弦楽団初日の1曲目
オーケストラの収録をする時は公演前に普通どんなに短くても30分程度はリハーサルをするものである。 収録現場はこの時に電光石化にマイクのバランスを調整することになる。 ところがザンデルリンク氏は頭の10秒程度音出しをして帰ってしまいリハーサルは一切なしとなってしまった。 結果として事前調整なしのブッツケ本番となってしまった。 ただ「東京厚生年金会館大ホール」はFM東京収録隊としても慣れた現場であったので結果的になんとかなった。 収録方法はノイマン69マイクによるワンポイントシステムでの録音を基本に他のマイクも使って補強する録音方法で録っていた。
当時は東ドイツの時代でオーケトラの性格が今とは全然違い「いぶし銀の音色」がまだ残っていた時代の音でもある。 このマイスタージンガーは1973年10月31日の東京文化会館でのアンコールでも演奏された。 この収録時に大事件が勃発した。 第一バイオリンの横に立てておいたノイマン49マイクのスタンドが折れてマイクが床に落っこちたのである。 更に悪いことに落ちたのがコンサートマスターの目の前だった。 もしバイオリンに当たっていたら大変なことになっていたと肝を冷やした。 ところが、もう音源として使えないとプレイバックを聞いてみると幸いなことに丁度シンバルが最強音を出すところで、マイクが落ちる音はシンバルの轟音に消されて分からなくなっていた。 後で真っ青になってコンサートマスターのところへ謝りに行くとニコニコと笑い「そうですか? そんなことありましたか? 私は気付かなかったよ」と流石に大オーケストラのコンサートマスターだと関心したものである。 これには布石があり、別の日にジークフリート・クルツが指揮した「新世界」の第2楽章でオーボエがめちゃくちゃにトチってしまった。 これでは使えないなと思っていたらオーケストラのオーボエ奏者と木管奏者達5〜6人がやって来て「どうしようか」「明日その部分だけ再度演奏するから繋ぎ合せてもらえないか」と、ところが「明日は会場が違うからアコースティックが違うので無理だろう」と、彼らが困惑している時にこちらから「リハーサル中の録音テープがあるからうまく繋がるか試す」と提案、結果としてうまく繋がり放送に使うことができた様である。 とても感謝された。 この様な事があったのでマイクの墜落事件など許してくれたのかも知れない。 放送にはこんなとんでもないことが起こるが常に最善を尽くす姿勢があれば切り抜けられる。
1960〜70年代はレコードでしか知らなかった大物演奏家がどんどん来日したのでどんどん収録しTDKオリジナルコンサートで放送した。 マウリツィオ・ポリーニ、シュターツカペレ・ドレスデン、イツァーク・パールマン、ジェームズ・ゴールウエイ、フィリップ・ジョーンズ・ブラスアンサンブル、モーリス・アンドレなどである。
② フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブル初来日公演
ジュナン「ヴェニスの謝肉祭」(1974年11月15日・東京文化会館大ホール)
「ルツェルンの古い歌」(1976年10月21日・東京文化会館大ホール)
※ユーモアあふれるアンコール曲
当時ブラスファンにはおなじみのこの楽団も一般にはまだ知られていない状況だった。 このグループはイギリスだがやたら上手い、アンコールは英国紳士の馬鹿騒ぎで実にユーモアたっぷりだ。 ステージ上で踊ったり暴れたり観客は大笑いの連続、有名なチューバ奏者ジョン・フォレッチャーが大カデンツァを吹きまくったりの抱腹絶倒のアンコール演奏だった。 テクニックが完璧であるからこそ成り立つステージなのだろう。 このアンコールを招聘元がカセット・テープでエアチェックして全国のマネージャーに配ったところ2箇所公演が決まったそうである。
③モーリス・アンドレ(トランペット)初来日公演
タルティーニ:「協奏曲」第3楽章(原曲はヴァイオリン協奏曲)
テレマン:「協奏ソナタ」第3楽章
(1973年4月13日・東京文化会館大ホール)
※超絶技巧でファンの度肝を抜いたアンコール曲
モーリス・アンドレは当時レコードではかなり有名なフランスの超絶技巧トランペット奏者であった。 このアンコール演奏は1973年放送後一度も表に出ていない。 つまり今日は46年振りに日の目を見た今日の機会となる。 この演奏は収録してから1週間後に放送した(NHKだと1ヶ月掛かるのが普通だそうだ)。 その時に最終公演の予告を放送に入れてみたところ公演チケットの売り上げが急上昇したそうである。 レコードと違うのは最後の音をオクターブ上げて大見得を切って盛り上げている。 こういう演奏はレコードでは聴けない生演奏の面白さである。 管楽器は実に陽気である。 その点、弦楽器は暗いと言えるかも知れない。
④ ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団初来日 リハーサル風景
(1970年5月・大阪国際フェスティバルホール)
※巨匠セルの最初で最後の来日 完全無欠の音づくりのリハーサル
1970年大阪万国博覧会の時は多くの演奏家が来日した。 カラヤン/ベルリンフィル、セル/クリーブランド管弦楽団、バーンスタイン/ニューヨークフィル、シモノフ/ボリショイオペラ、マゼール/ベルリン・ドイツ・オペラ、他多数。 指揮者デュトアの初来日公演もこの時であった。 今まで聴いて来たオーケストラの中で並外れてバランスが良くて見事に仕上げられた演奏を聴かせたのがセル/クリーブランド管弦楽団であった。 そのリハーサル風景をCBSソニーと一緒に録った。 その頃までセル/クリーブランド管弦楽団は日本ではあまり人気がなくワルターやバーンスタインの方が人気があった。 当時CBSソニーは「セル/クリーブランド管弦楽団が世界の超一流であることは今や世界の常識である」と盛んにPRしてレコード売り上げを伸ばした。 当時日本ではセル/クリーブランド管弦楽団の演奏はレコードで聴いていると非常に冷たい印象があり、あまり人気がなかった。 しかし生演奏を聴いてみると実に整然としているけれど暖かさを感じさせる素晴らしい演奏であった。 この時、レコードだけでは当てにならないとつくづく感じたものだった。
当時のエピソードとして丁度カラヤン/ベルリンフィルも来日していて大阪フェスティバルホールでリハーサルをしていた。 その時、セルが用事で大阪フェスティバルホールに来ており「カラヤンがリハーサルやってるなら見学したい」とセル、関係者は「カラヤンはリハーサルに人を入れない主義」だから止めた。しかし「構わないだろう」とセル、そんななか楽団員がセルが来ていると騒ぎだしカラヤンも気付いて振り向くと「おー、マエストロ」とカラヤンが言えば「おー、ヘルベルト」とセルが言った。 帝王カラヤンをファーストネームで呼ぶとはさすが大指揮者の貫禄と関心したものだった。 もっともセルはカラヤンより11歳年上である事情もある。
聴いていただいた「英雄」のリハーサルが実に念入りに緻密に行われているのか納得いただけたかと思う。 雑誌の記事ではクリーブランド管弦楽団の楽員に「今、何をやってもいいとしたら何をやりたい」と言ったら「セルをブン殴りたい」と言ったとか。 他には「我々の演奏はリハーサルも本番も同じである。 本番はたまたまお客が入っているだけである」とか。 それぐらい普段から厳しいリハーサルが繰り返されていたのだろう。 この時セルは72歳だったが東京公演の最後は「英雄」であった。 特に第2楽章の「葬送」が気迫に溢れていた。 また来てくれるといいなと思っていたら2ヶ月後に天に召されてしまった。 癌だったとの話がある。 そんなことは微塵も見せずインタヴューもいろいろしたが冗談が大好きな面白い老人であった。 スタッフにも気を使いコーヒーも皆んなにご馳走してくれた。 厳しいだけの指揮者ではなく人柄もいい指揮者であったとの印象が強く残る。
⑤ ヴァーツラフ・ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
スメタナ:交響詩「わが祖国」より「モルダウ」
(1974年6月30日・東京文化会館)
※チェコのオーケストラ日本初の「わが祖国」全曲演奏
それまでチェコのオーケストラが「わが祖国」全曲演奏を日本でやったことがなかった。 ヴァーツラフ・ノイマンの強い希望で「わが祖国」全曲としたが招聘元がこの企画を方々に持って行ったものの「わが祖国」など知らないと断られたようでFM東京に話が来た。 音楽ファンはよく知っている曲なので絶対やるべきとの判断でFM東京「TDKオリジナルコンサート」の無料公開録音を行った(それまでマゼール/ベルリン放送交響楽団、カールミュンヒンガー/シュトゥットガルト室内管弦楽団などで毎年無料公開録音を行っていた)。 ハガキ応募総数11万5千以上で、これは2年ぐらい後に行った「さだまさしの公開録音」まで破られなかった。 公開録音当日は満席かと思いきや東京文化会館の5階はガラ空きだった。 これは代理店さんが回収率を席数しか配らなかった為だった。 つまり回収率を100%と見込んだのだ。 ところが実際は回収率が80%だったのである。 これには痛い前例がありマゼール/ベルリン放送交響楽団の公開録音時は回収率80%と見込んで20%増しでチケットを配ったところ95%のお客さんが来て一部入れなかったことから大騒ぎとなった。 そこで今回は回収率100%としたら80%の回収率になってしまったのである。 それにしても実に勿体無かった。 38cm/2トラのオープンテープからカセットにダビングしたものを経てCD-Rを焼いたもので聴いていただく。
⑥ 小澤征爾指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
武満徹:「カトレーン」より
(1975年9月1日・東京厚生年金会館、同8日・東京文化会館)
※FM東京「TDKオリジナルコンサート」放送200回記念委嘱作品
FM東京・昭和50年度文化庁芸術祭大賞受賞
FM東京の「TDKオリジナルコンサート」は当時、民間放送のクラシック番組としては評判が良く人気だった。 やる方も張り切っていた。 収録してわりと早めに放送していたことと1時間番組だったことが聴きやすさのポイントだったのかも知れない。 評判が良かったので「芸術祭参加」をやってみようと考え1974年に手掛けたのが武満徹に作曲を依頼して芸術祭参加番組をやる企画だった。 当時のFM東京でなければできない番組、絶対NHKがやらない番組は何かと考えると「小澤征爾」を起用することだとの考えに至った(小澤-N響事件は1962年に小澤とN響が大喧嘩をしてその後長年に渡って共演がなかった)。 小澤-武満‘75でやる事になった。 武満さんは当時アメリカのアンサンブル・タッシと仕事を進めていたがそれとドッキングするのでよければと了解すると言うので交渉成立となった。 ところが武満-小澤/新日本フィルに加えてアンサンブル・タッシ(ピータ・ゼルキン(Pf)、アイダ・カバフィアン(Vn)、フレッド・シェリー(VC)、リチャード・ストルツマン(Cl)という当時前衛的演奏のトップを行く新進気鋭4人組)が加わるとなればギャラがとんでもないことになると後で気付いた。 色々な面で資金調達には大変な思いをした。 結果的に「芸術祭大賞受賞」を取れたので事なきを得たのであるが、取れてなかったら番組から外されていたかも知れない、若気の至りである。 武満さんも軽井沢の山荘で作曲に苦労され上がって来たのが公開録音の10日前だった。 FM東京も公開録音の準備を僅か40日で成し遂げた。 この様な経緯の中1975年10月3日に目出度く放送することができた。 武満さんはこの曲を書いた時「出来るだけテンポを遅く演奏してくれ」と。 武満さんはスコアに「飛行機が失速する寸前の様な早さに」と最初書こうと思ったが不謹慎なのでやめたそうである。 ところが不思議な事に小澤さんが演奏する毎に早くなって行った。 2年後に録音されたドイツ・グラモフォンでの小澤/ボストン響での演奏では初演と比べて4分も早くなっていた。 小澤さんに「テンポがずいぶん違う」と指摘したら「そんなもんかな〜」と自分では気付いていなかった。 ピーター・ゼルキン(Pf)に聞くと「それは面白い」と本人が面白がっていた。 アイダ・カバフィアン(Vn)に話すと「全然我々は意識していなかった、そんなものなのね」と。 武満さんは「あれはあれでいいんじゃないの」と。 今日は放送以来44年振りに皆さんに聴いていただいた事になる。
小澤征爾さんが日本フィルの指揮者だった時に日本フィルが分裂する事件があった。 その後7〜8年はFM東京とばかり仕事をする運びとなった。 そのおかげで⑥の「カトレーン」をやれたところがある。
新日本フィルは日本フィルが分裂してできたオーケストラ。 一つのオーケストラが消えるという大事件だった。 発端は日本フィルの組合が強かった事にある。 色々あって1972年の6月30日をもって財団法人が解散となった。 そして日本フィル最後の1972年6月の定期演奏会がたまたまマーラーの「復活」であった(定期演奏会で「復活」を演奏することは1年前から決まっていた)。 ご存知の様に最終楽章の歌詞は「お前たちは蘇るのだ、蘇るために一度死ぬのだ」、その歌詞を自らに言い聞かせるかの様に日本フィルも火を噴くような演奏だった。 この演奏ではシカゴ響から首席のトランペット奏者が来ていて煌め鳴り響く音で全体をリードし、小澤さんも狂ったように振った演奏であった。 この様なもの凄い「復活」演奏はそうあるものではない。 録音は若林駿介スタイルでホールの響を余り入れないナチュラルな音で録られている。
⑦ 小澤征爾指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
マーラー:交響曲第2番「復活」第1楽章&第5楽章より
(1972年6月16日 東京文化会館)
※分裂直前の旧・日本フィル最後の定期公演、渾身の演奏
小澤/日フィルと文化放送・フジテレビとの契約が1972年3月で切れる事になったことから、その後はFM東京が契約し4、5、6月の定期演奏会を収録し放送した。 分裂後の1972年9月に新日本フィルには小澤さんを中心に首席奏者達(フルート:峯岸壮一、オーボエの鈴木清三)のほとんどが移籍しその後はFM東京で番組「新日フィルアワー」を放送した。 これは1978年まで続き評判が良かった。 当時、小澤さんの演奏がほぼ毎週聴ける番組はこれしかなかった。
⑧ ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」第4楽章
(1977年11月16日・普門館)
※カラヤンの「運命」の中でも最大の豪演
この時のカラヤンはまだ元気な時の最後だったのではないか。 この時も転んで腰を痛めていた。 楽屋では歩けないぐらいの痛みでもステージではしっかりした足取りでカッコ良く歩く姿が印象的だった。
最後にカラヤンの珍練習風景に居合わせた事を紹介しておきたい。 カラヤン/ベルリンフィルで「皇帝」をリハーサルしていた時、ピアニストのアレクシス・ワイセンベルクがなかなか舞台に出てこない。 仕方なく冒頭から演奏を開始して、ピアノが始まるところまで来てもまだ出てこない。 仕方ないのでバイオリンの連中がピアノの旋律をアドリブで演奏し始めてしまった。 そこでカラヤン何を思ったのかピアノに向かいピアノのパートを弾きはじめたのである。 そのテクニックは? 団員も大笑い。 そんな中、ワイセンベルクが現れて指揮台に登り指揮を始めた。 カラヤンは大笑いしながらワイセンベルクを指揮台から引きずり下ろしピアノに向かわせた。 居合わせた皆んなは大爆笑。 カラヤンもこの様にお茶目なところがあるのだ。
<東条碩夫が体験した昭和と平成のオペラ&コンサート・ハイライト10(国内)>
- イタリア・オペラ 1961年 デル・モナコ&テバルディ 「アンドレア・シェニエ」
※東京文化会館の一番後ろの席で聴いたがそれは凄いものだった。 オーケストラを飛び越えて真っ直ぐに音が飛んで来る。 その後のドミンゴよりももっと凄い音が直線的に飛んでくる体験をした。 その代わり音が何時ひっくり返るかも知れない不安定なところもあった。 しかしあの声を聴いているともう演出も何もいらない、手を広げてテバルディと二重唱を歌っているだけで会場は湧くのである。 - ベルリン・ドイツオペラ 1963年 ベーム指揮 「フィデリオ」
※何が画期的だったかというと日本で演劇的なオペラの舞台を紹介された初めての公演だった。 カール・ゼルナーが支配人だった時代でそれまでのイタリアオペラの様な演出とは違い演技が重要視された。 オペラが歌や演奏に加えて演劇的要素も大切であることを示してくれたのがベルリン・ドイツオペラの功績。 カール・ベームも来たし凄かった。 - バイロイト音楽祭 1967年 「トリスタンとイゾルデ」
※バイロイト音楽祭の引越し公演、オーケストラはN響が務め初来日のピエール・ブーレーズが指揮した。 ビルギット・ニルソン(イゾルデ)、ヴォルフガング・ヴィントガッセン(トリスタン)、ハンス・ホッター(マルケ王)など錚々たる全盛期の歌手の布陣であった。 他に「ワルキューレ」が上演された。 - ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団 1970年5月
- バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル 1970年9月 マーラー「9番」
- 小澤征爾指揮日本フィル 1972年6月16日 マーラー「復活」
- クライバー指揮バイエルン州立管弦楽団 1986年5月 ベートーヴェン「7番」
- ロイヤル・オペラ 1987年10~11月 コリン・デイヴィス指揮「ピーター・グライムズ」
- サイトウ・キネン・フェスティバル 1992年9月 小澤征爾指揮「エディプス王」
- キーロフ・オペラ 1993年11月 ゲルギエフ指揮「炎の天使」
****************************************************************************************************************************************************
講師略歴:東条碩夫(とうじょう ひろお)
音楽評論家。 1939年、東京生まれ。 早稲田大学卒業。元・エフエム東京、音楽プロデューサー。 年間に聴くコンサート回数230以上。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」訪問者300万超。 モーストリー・クラシック誌に「東条碩夫の音楽巡礼記」連載。 共著に「朝比奈隆ベートーヴェンを語る」「伝説のクラシック・ライヴ」他。