「第2回」・音楽とオーデイオ
音楽とオーデイオとは古くからこのテーマに沿ったあまたの書き物を愛好家ならば目にしたことがあると思料する。小生も懲りずにこのテーマで一発ぶちかまさせて戴こうと思う。
自分の気に入った自分なりの名曲をHigh Fidelity(HiFi)で聞きたいと思うのは自然な成り行きだと思われる。ステレオなるものを体験したことがきっかけで、何とかして自分の好きな音楽を身近で好きな時に好きなだけ聴きたいオーデイオへの入り口はこんなところだろうか。HiFiで臨場感豊かに音楽を再現してくれる装置がほしい。こうなるとステレオ雑誌をむさぼり読み、装置のグレード アップに血の道を開け泥沼へと入っていくわけで故長岡鉄男などの言うことが神の声のように聞え、やれスピーカーのウーハを自作しろとか4チャンネルにすると異次元の世界だなど、フォステクスのマトリックス型で充分効果があるなど、今は懐かしい。
クラシック音楽の場合だったら、世界的指揮者とオーケストラによる大編成の管弦楽、または、古今東西の名ソリストによるピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタの名盤を同一曲を異なる演奏者で聴き比べしたい。純粋な心の小生はFMファンやステレオサウンド誌に啓蒙され、高みを求めて借金の山も築いていく羽目になる訳。オーデイオ愛好家なら共感を得られ、身にしみておると思われ詳細は言わない。しかし、本当に散財して得た高級高評価な名器といわれるオーデイオシステムでなければ感動に打ち震えるような音楽体験は得られないだろうか。小生のような団塊世代の走りの男は映画館、パチンコ店の軽音楽にでも音楽に対するなにがしかの興味と満足感が得られ、これはこれで音楽全般を受け入れる素地はできたようだ。長じて、クラシック音楽についてはポータブルレコードプレーヤーから鳴り響くアルトール・トスカニーニ,NBC交響楽団演奏のベートーベン交響曲全集などはHifiに関係なくゾクゾクと来たものでそれこそレコードの溝が粉を吹くまで聴いたものだ。
サラリーマンとなってオーデイオの泥沼にハマって行くほどに音楽の音楽性を求めるよりウェイトがオーデイオ機器のほうに移っていき、新しい装置導入時期こそ「いやーイイネ!」などいう時期もあるが、言いたいのは感動の名演奏はかならずしも高級装置でなくても体験できると言うことだ。海賊版のモノラルレコード、1955年12月7日、ミラノスカラザにおけるLive、ベルリーニ「ノルマ」マリア・カラス,J・シミオナート,M・デルモナコ,他 指揮・アントニオ・ヴォットー、スカラ座管による演奏はレコードによるオペラ体験のきっかけであり、凄さに打ち震え、滂沱した。カラス、シミオナート、デルモナコの歌唱は拙い感性の小生にとって忘我と熱狂の迫真の演奏であり将に魂の表出であった.この舞台に命を掛けているとしか思えない,[Tomorrow never die]の意気込み,棲ざましい物を感じた。安価な装置でも演奏の素晴らしさは伝わってくることを実感した時だった。このレコードはこの時以来針を降ろす勇気がない。あの時の感動は本当だったのだろうか、もし、一時の気の迷いであったならどうしよう、そんな自信のなさもあり、恐怖心から聞けずに入る。貴重な時が得られたと信じてやはり生涯の思い出の演奏として小生の心に残る一曲である。Liveによる演奏とはまた別の、記録によって再現されたものであるが、音楽愛好者の心を満足させてくれるものはステレオ装置の高低だけではないと思い知るところとなった。話は逸れるが、イタリアのチェトラ盤で出ているマリア・カラスの「アンナ・ボレーナ」のLive演奏にReal timeで観ることができた聴衆ほどねたましい奴らはいないと思う。あの憂いに満ちた切れ長の大きな瞳に涙をためながら歌うカラスの姿をみることができた剥く付けき野郎どもに死を、、、、、と言いたい。
畢竟、音楽は聞き手によって名演奏にも凡庸な演奏にもなると思うが聞き手の音楽に対する素養もある程度必要で感性を磨く努力も欠かせない、もって生まれた素地はあるにしても。