第7回「幕間2(休憩)歌劇場の舞台裏」
歌劇場の闇について書きましたので今度は歌劇場の舞台裏について書くことにしました。舞台裏と言っても私が舞台裏について思っている雑事を少し書くだけです。舞台裏の秘密を期待した方にはごめんなさい。
若いころは素晴らしい演奏家と話がしたくて随分と機会があるたびに図々しいく顔を出したものです。著名な音楽家達と話す機会を得たのは幸せな事でした。音楽に首まで浸かっていたお陰でオーケストラの招聘や市民オペラのお手伝いをしたりする機会にも恵まれました。ある時某オーケストラと某ピアニストを招聘し某ピアノ協奏曲をやって貰うコンサートを開きました。そのコンサートの翌日親しくして頂いてる音楽ファンの方とお会いして昨日のコンサートの話になりました。あのピアノ演奏はどう感じましたかと聞かれ良かったですよと答えたところその方は私に軽蔑の眼差しを向けて、あの演奏が良かったと本気で言っているのか、だとしたら今までのあなたはなんだったのか!と厳しく断罪されてしまいました。招聘に一枚かんでいるから良く言う気持ちは分かるけれど目が、いや耳が曇ってしまったら自分を否定する事になりませんかと手厳しい言葉を頂きました。確かに大した演奏ではなかったと反省しました。自分たちでわざわざ来て貰ったソリストを悪しざまには言えないし、主宰者は口が裂けても批判は御法度だとは思いますが、その為に己の信条を曲げて発言しなくてはならない事の欺瞞に随分と悩みました。そしてその時から演奏家とお近づきになりたいと言う気持ちがなくなり、どんなに機会があってもせいぜいサインを貰うくらいがいいと思う様になりました。演奏家とお付き合いをさせて頂くより遠く離れている方がよほど音楽を楽しめるとの思いに至ったのです。世には演奏家と親しく出来るのを喜びと感じたり誇りにしたり自慢したりしたがる人が多いですが、そうしたものから距離をおきただ聴こえて来る音楽に耳を傾ける事にしました。そうした考え方をしてみると舞台裏のあれやこれやには感心を持たなくて済む様になりました。
歌劇場の舞台裏には表の夢幻の世界からは伺い知る事の出来ない煩雑な人間社会の縮図があります。主役の歌手から脇役の合唱団員まで、指揮者から一番後ろのオーケストラ団員まで、演出家から小道具係まで乱暴な言い方をすれば彼らは肉体労働者でさえあるのです。身体を張って一夜のオペラの夕べを築き上げているのです。ディスクワークとはまったく違った現場が仕事場なのです。当然身体を張っている故にかなりの軋轢が溜まります。たまには休みたいのに毎晩駆り出されるピットのオーケストラ団員とか、体調が悪くても舞台に乗らなくてはならない合唱団員とか、運営面で意見が対立していても指揮台に立たなくてはならない指揮者とか、舞台係から拒否された演出を強行しようとする演出家とか、ともかく何処にでもあるゴタゴタは歌劇場でも当たり前にあります。こうしたものは裏話としてオペラファンを楽しませてくれますし、この様な話は楽しい物です。私も舞台裏に関心を持たなくて済むようになどといかにも達観した様な事を言っていますが、舞台裏の噂話は嫌いでは無いのです。いやいや言っている事が矛盾しているとのお叱りは覚悟しております。例えばなぜあの時に歌手の態度や歌唱に違和感を感じたのかとか、指揮者の不可解な態度の理由が分ったりとけして舞台裏の話が無駄であるとは言えない訳です。裏話によって納得がいく事が沢山ありますが、あえて積極的に舞台裏の事情通になりたいとは思いません。オペラは舞台上の出来事こそが全てだと思いますし、思いたいのです。確かに今言いました様になぜと疑問に思ったことが舞台裏の事情を知る事によって解き明かされる事もあるわけですからまったく裏話を聞きたくないなどと純粋に思っている訳ではありません。某オーケストラが代役の指揮者で演奏した時不可解な解釈が見られた。実は本来指揮する予定の指揮者がリハーサルを仕上げており代役指揮者はぶっつけ本番だった。だからあんな不可解な演奏になったのかと事情が分かり納得出来るのですから裏話も悪くは無いのです。だけれどもそうして裏話で理由は納得出来ても、不可解な演奏は消える分けでもなく結局は演奏された音楽が全てとなる訳です。ですから余計な情報としての舞台裏は知らない方が良いと思う事があります。
少し違うかもしれませんが、現代は情報が溢れ情報過多に過ぎる時代ではないでしょうか。情報を利用しているつもりで実は情報に振り回されているだけの人々が多い様な気がします。オペラハウスをめぐる事象でも情報過多に陥っていると言ったら言い過ぎでしょうか。そうすると裏事情はどのくらいまで知るのが適切なのか、どの程度が情報過多では無いのかと言った話になるかもしれません。率直に困ったと言うしかありません。これには答えが出せないと思います。
でも答えを出す必要はないと思います。舞台上での感動がいかほどであったのかが問題なのであって舞台裏を覗き見る様な事をしても感動出来る訳では無いからです。いえ、間違った事を言いました。タイトルロールを歌う某歌手は実は不治の病なのだがそれを押して出演した。さすがは名の知れた大歌手だとなれば感動は倍にもなるのは事実です。情報過多として批判出来るものではありません。ですが、では不治の病でなかったら感動しないのか、感動が薄まるのか、その程度の歌しか歌っていないのかと思うのです。そんな裏の事など知らなくてもその歌が素晴らしければ私達は素直に感動で来るのではないでしょうか。素直な、大げさに言えば純粋な気持ちで聴かなければ歌手に対しても失礼だと思います。不治の病をおして歌ってくれたから感動したなどと言ってもその歌手は嬉しく無いでしょう。やはり何のフィルター通さない耳で聴いて感動してくれなくては歌手も悲しいと思います。誰も同情から感動してくれてありがとうなどとはけして思わないはずです。
この様に、情報は両刃の剣です。従って舞台裏の事情を知る事も両刃の剣と言う訳です。知らなかったから良かった、知っていて良かったはその時に状態にもよります。いずれにしろ舞台裏の事情を知ることにより正当な評価をする事が出来なくなる可能性はかなりのものになります。評価などと偉そうに言うのではなく、率直に感動したり、楽しんだり出来なくなります。情報は正しいければ良いと言う訳でもないのです。歌劇場の席に座りオペラを楽しむなら何者にも束縛されない、舞台裏の事情にも左右されないそんな心で聴きたいと思います。
舞台裏の話は不謹慎ですが面白いのは事実ですけれど、オペラを楽しむ事とは違う次元のものだと思うのです。であるなら舞台裏からも演奏家からも離れた立ち位置でオペラを楽しむ事が一番幸せだと思います。某オーケストラのコンサートマスターと親しいのだと自慢したいのならそれはそれで本人は幸せでしょうからとやかく言う必要はないと思いますが。