第11回「パリ・オペラ座」

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オペラ座ガルニエ宮天井シャンデリア

パリ・オペラ座(ガルニエとバスティーユ)

花の都パリは実は花よりも革命の都である。フランス革命はもとより多様な革命がこの都で行われて来た。芸術に話を限っても印象派による絵画の革新的運動もベルリオーズやドビュッシー、ラヴェルの新しい音楽の潮流もこの都から生まれた。だからパリは革命の都だと言うと直ちに納得して貰えそうな気がする。だがパリが革命を起こした訳ではない。革命はパリに住む人々の間から生まれて来たのだ。人々が革命を起こしたなどと当たり前の事を言っているのだが、パリは人々の間に革命を生み出す不思議な魅力に満ちた都なのだろうか。革命を起こす一人一人は個人なのにパリが革命を起こしたかの様に語られるとパリとはどんな都であるのかとついつい考えてしまう。そして当然そこに座する歌劇場に思いが及ぶ。パリの歌劇場を思う時パリはオペラを聞きにわざわざ訪れる都なのだろうかと考える。パリは他の都市より遥かに多くの魅力あるオペラ以外の多様なものが用意されており、ただオペラの為にのみ訪れる都ではない様な気がして気持ちが一歩引いてしまう。

パリは欧州の都市と言うとほとんどの人達がまず最初に指を折る都市ではないだろうか。パリはその名前だけで既にして我々の心を捕えて離さない魅力に満ちている。何も歌劇場の魔力だの威力だのを上げてオペラ座の話などしなくても済んでしまう様な気がする。ルーブル美術館やオルセー美術館所蔵の諸作品を語ればそれが歌劇場の事を語っている事になるのではないかと、ミラノスカラ座やバイエルン国立歌劇場を記述した時の論法で言えばそうなってしまうではないか。スカラ座を語る時とは違ったものではあるが語ることが難儀な歌劇場である事は同じだと怖気づいてしまう。だがパリにはなんと二つのオペラ座がありそこを訪れなければ結局は欧州のオペラハウスを語るには何か不足している様な気分にさせられるだろう。だから慣れない仏語の会話帳をポケットに忍ばせてパリのオペラ座を訪れる旅に出る事にした。

ちなみにパリ・オペラ座と言う名称は建物にではなく組織に対する名称だと聞いている。

1.権力の殿堂

パリはフランスの宮廷文化が花咲いた頃は革新より伝統が渦巻いていたのではないだろうか。いやいや、最初はさしたる伝統も無かったかもしれない。華やかな宮廷文化も他国からの借り物であった時代もあるからだ。ここで宮廷文化の歴史を紐解いてあれこれ語るなどしないが、諸外国から貪欲に文化を吸収しつつあったパリは多くの文化人に取って活躍すべき場所となった訳だ。人々はパリを目指した。あの自己中心的プライドの塊の様なリヒャルト・ヴァーグナーでさえ、タンホイザーのパリ版などと言うものを用意せざるを得なかったのだ。それはもう一人の同じ年に生まれたジョゼッペ・ヴェルディも同じだった。パリで一旗揚げる事こそが成功の証であった。当時のパリは19世紀ロマン派のるつぼの様相を呈していた。ショパンもリストもアルカンもフランクもパリで活躍する事を目指した。

そんなパリの有様をローベルト・シューマンは批判的な意味を込めて述べている。シューマンは彼が主宰する音楽新報で「名声がここでは無限の重みを持っていてだから人々は殺到する」と当時のパリを表した。名を上げ功を成す為にパリに人々が殺到した時代の空気がパリにはあった。いや、事によるとそれは今でも変わらないかもしれない。同時代人のシューマンはそれを強く感じた訳だ。

ガルニエ宮はその時既に音楽の中心としてパリの街を睥睨していた。その豪華絢爛さは劇場の装飾を越えて王宮の様を呈している。だから設計者の名を取りガルニエ「宮」と呼ばれる訳だ。ここパリに座するオペラ座は娯楽や芸術の為にある前に権勢を指し示す為にあるかのようだ。確かに文化の規範となるオペラ座ではあるが、権力と結びついたそれは国威を見せる場であり、自らが権威の衣装を着てパリに君臨する事に等しい事であった。グランドオペラなるフランス語による上演と王族や貴族や人々の好みを反映した華麗なバレエシーンの挿入は、イタリアやドイツのオペラとは違った方向に発展し、グランドオペラとそれを上演するオペラ座をフランス風な文化の権威たらしめてしまった。しかもさらに力を注いだのが誰あろうナポレオンであったと言う事を聞くに及んで、尚さらに権力の殿堂とでも言ったものを感じさせる歌劇場だ。

もちろん他の歌劇場もそうした要素は大いにあるがオペラ座がことさらそれを感じさせるのは、直接、オペラの上演とは関わりのない部分に過大な投資をしているからの様な気がする。装飾や調度品、照明、床の絨毯に至るまで、歌劇場においてはオペラを楽しむ為の導入部であり雰囲気を高める為の小道具であるとは何度か述べたが、あくまでもそれらは脇役のはずだ。ガルニエ宮では脇役が度を越していると感じるのは私だけだろうか?これくらいないと雰囲気が出ないと思うのだろうか。フランスは、パリはこのくらいの物を得てやっと豪華絢爛だと納得するのだろうか。建築家ガルニエがことさら豪華絢爛な趣味趣向を持っていて周りを巻き込んでオペラ座を設計したのだろうか。やはりフランスと言う大国が大国である事を示す為にはこのくらいの事をするのは普通なのだろうか。歴代の王や、ナポレオンまでもが力を注いだ歴史を持つ歌劇場ともなればガルニエが歌劇場を建設するにあたりこのくらいの事をするのが普通だったのだろうか。きっとそうであったのだろう。さすがは花の都パリのオペラ座だと恐れ入ってしまうばかりだ。

だから私には他の歌劇場の様に怨念だの霊だの魔力だの何やら説明不可能なものをパリ・オペラ座には感じない。ここには長大な権力とその具体化された姿があるばかりだ。説明不可能な何かと言ったら「オペラ座の怪人」が本当にいるのかどうかを探すだけだ。少なくともそれを感じさせるある意味では不気味な雰囲気が特に階下に感じたりするが、それは歌劇場の魔力とは違う感覚なのだ。説明の難しい意味不明な何者かが居る感覚ではないのだ。権力の殿堂とはこうしたものなのだろう。

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ガルニエ宮の正面

現在あるガルニエ宮は当時の最新鋭の建設機械を持って造り上げたと聞いている。そもそもガルニエ宮の立つ辺りはいまでこそパリの中心の様相を呈しているが、もともとは湿地帯、沼地だったと言う。産業革命がもたらした機械、蒸気ポンプの力を借り沼地から水を汲み上げ整地する近代的な工法を駆使して造られた歌劇場だそうだ。沼地故に基礎が複雑になりガルニエ宮の地下部分はまるで迷路の様に実際見えたそうだ。だからガストン・ルルーはあまりにも有名な小説「オペラ座の怪人」でその迷路を思わせる基礎部分に怪人が棲んでいると想像を膨らませたのだ。もうおわかりだろう。パリのオペラ座はそこに棲んでいる怪人が支配しているのだ。これで万事めでたく語ることの難儀なパリ・オペラ座を語りつくすことが出来たから万事めでたしと・・・冗談はこの程度にしておこう。

私の様にその華麗な劇場内の雰囲気に権力の影を感じるいささかへそ曲がりな旅人と違って、素直にオペラ座の内装に豪華絢爛さとフランスの宮廷文化、ナポレオンの権勢を見ることの出来る人々は、オペラ座にため息をつき素晴らしさに圧倒され楽しむ事が出来るのだろうけれど、権力と権勢と財力がなければこんな見事なオペラ座を造る事は出来ないのだから、そんな風にいささかへそ曲がりに思う事をお許し頂きたい。

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ただ、幕間に歓談するホールであるにも関わらずなんという装飾!

2.バレエのオペラ座

ところでどこのオペラハウスでもオペラの上演と同じ様な重要性を持ってバレエに力をいれている。オペラの日程の間には必ずバレエ公演が用意されている。パリにおいてはバスチーユでオペラ公演を、ガルニエでバレエ公演を行う様に一時は分離しようとさえした。この企ては多くの批判を浴びて撤回されている。異国の旅人はその通りだと思う。演目が限定されようとも素晴らしいガルニエ宮でオペラが楽しめないなどと言う理不尽が許されるなどいい迷惑だ。反対に大がかりな装置を必要とするバレエ演目は近代的なバスチーユで上演した方が遥かに合理的で理にかなっている。

この歌劇場への旅で今までバレエに付いてあまり触れなかったが、それはバレエが二の次三の次だからではなくパリ・オペラ座を語る時にバレエに付いて触れるのが何か一番相応しいと思えたからだ。それほどまでに、パリはバレエが事によると肝心のオペラ以上に重要な街だからだ、と言うよりはパリにおいてはオペラとバレエは切っても切り離せないセットなのだ。それは5歳の時に舞台に立ったと言うルイ14世自らが、さらにパリ全体がバレエにひとかどならぬ感心を示した歴史からもうかがえる。

それ故にヴェルディやワーグナーさえもバレエシーンを挿入したパリ公演の為の版を用意した。フランス独特の、いや、パリ独特のグランドオペラなるものはこうした、パリ独自の要求や趣味嗜好から生まれたと言えようか。革命の街パリは荒々しい断頭台への行進ばかりで革命を起こした訳ではなく、内在する要求から革命を、そう言うのが大袈裟なら革新を、改革を生み出し独自のオペラシーンを生み出したと言える。

バレエはそもそもカトリーヌ・ド・メディチがパリにもたらしたダンスが基になっている。それは宮廷バレエとして発展しルイ14世の時代に大いに花開いた。パリはいかにもバレエの本場である顔をしているし実際現在はその通りであろうが、基はやはり音楽と同様「先進国」イタリアからもたらされたものなのだ。勿論それを独自に発展させたのはフランスの功績であったのだからパリがバレエの本場である事は確かだし、今日のバレエシーンの一翼をフランスが担っているのはそうした歴史の積み重ねのおかげだ。バレエに力を入れた事はオペラ座座付きのバレエ団の為に1713年にバレエ学校が設立された事からもわかる。現在の国立音楽・舞踏学校の前身だ。パリ・コンセルヴァトワールと言った方が通りが良いかもしれない。歌劇場への旅で歌劇場に付いて度々歴史と伝統の成せる業と評したが、パリではバレエに関して抜きんでた歴史と伝統を持ち合わせているのだ。1713年なら近年見なおされて来たヴィヴァルディがオペラを作曲していた時代ではないか。いや、お恥ずかしい話、詳しくは内容を知らないヴィヴァルディ初のオペラ「オットー大帝」が、お恥ずかしいが正確な題名が記憶に無く何とかのオットー大帝と言う題名だったと記憶しているが、初演された年ではないだろうか。何ともバレエ学校の歴史にも感心するばかりだ。

踊りによって意味を表現するバレエは何とも厄介なところがある。そのパントマイムによる動作には数々の約束事があり、オペラの合間の挿入的な出し物の一つにも意味があるそうだ。振付師がダンサーに舞わせる動作に秘密が隠されている。ある時バレエの華麗なシーンが演じられた時にどっと観客が沸いた場面があったのに遭遇したが、残念な事にバレエに疎かった私にはなぜ観客が沸いたのか理解出来なかった。こうして観客がどっと沸いたりすると振付師はしてやったりとほくそ笑むのだろう。なるほどオペラそのものだけではなくバレエシーンにも楽しみはあるものだ。バレエをオペラに組み込みたくなるのが、いやバレエとオペラは同義語だと思うパリの観客達の気持ちも分かる様な気がする。

それにしてもふと思うのだが、素晴らしいバレエを堪能しながら、その人間業の限界を越えるような見事な踊りに感動しながら、こうした芸術が酷く儚い物だと寂しくなる。オペラ歌手もそうだが彼ら達の活躍出来る寿命は短い。歳を重ねると人間誰しもそうだが加齢から来る衰えはどうする事も出来ない。他の楽器奏者が活躍出来る期間からみたら不当だと抗議したくなるくらい歌手もダンサーも短命だ。肉体を酷使するバレエダンサーや肉体が楽器の歌手に取ってそれは宿命だと納得するしかないのだろう。不覚にも素晴らしいバレエの踊りを観ながら、この当たり前の事に気がつかされるのは恥ずかしい限りだが、歌劇場への旅を繰り返しているといつの間にか、まるで全ては永遠であるかの様な錯覚におちいる。数々の災難を乗り越えて百年、二百年と立ち続ける歌劇場の姿が、そんな錯覚を呼び起こすのだろうか。全ては不変であるはずがないと承知しているつもりなのだが、迂闊にもオペラハウスにあるものは全てが、事によると己自身さえも不変だと何時の間にか思っている己を見つけて慌ててしまう。

ともかくこうした肉体を酷使するバレエダンサーや歌手は気が付けばいつの間にか舞台から降りている事が多い。1960年代に活躍した高名な歌手がつい最近天寿をまっとうしてなくなったと言う話を聞くとまだ存命だったのかと、失礼な話だが、気が付く。パリのオペラ座で私は、魔力だとかオペラの秘密だとは感じないと記したが、その代わり人の宿命を感じさせられる。限りなく豪華でそれだけで夢の世界に遊ぶ思いのするガルニエ宮の中で、よりによって人生の悲哀を、宿命を感じるなどとは。おそらくは華やかなパリの街並みが、華やかなオペラ座が却ってその様な悲しい感情を呼び起こすのだろう。華やかであればある程、陰に控える寂寥感は増幅する。見事なバレエダンスを観劇するとなおさらにその見事な踊りが永遠の物ではない事を思い知らされていたたまれなくなる。人は一瞬の感動や喜びの後になんと言う悲しみを背負わなくてならないのかと恨みごとの一つも言いたくなる。永遠であるものなど一つもないのにオペラの出し物の中に永遠を探してしまっている己自身を悲しく思う。

舞台を目指して幾千のプリマの卵達がバレエ学校に殺到する。オペラ座の舞台の頂点に立ちたいのだと日々精進を重ねる。人は一瞬で過ぎて行く何かに、これも又一瞬にしか過ぎない人生を掛ける。観劇する我々も又、一瞬にしか過ぎない歌劇場への旅で誰かが人生を掛けた舞台を見る。オペラ座はバレエを持ってそんな残酷な物語を教えてくれた。オペラの本番でではなく挿入句の様なバレエで持って人生とは儚いものだと語りかけてくれた。教えてくれた事を感謝すべきなのだろうか。感謝すべきだろう。オペラ座は私にこれも大切な事だと教えてくれたと頭を垂れるべきかもしれない。だから人は取り返す事の出来ない時間を取り戻しでもしようとする様にオペラにのめり込むのだろうか。華やかなバレエダンスの果てに寂寥感が心に忍び寄る。パリの人々は、ルイ14世は、グランドオペラなるものをでっち上げてきた人々はこの寂寥感が湧かなかったのだろうか。おそらくは湧かなかったのだろう。けして批判したり、こき下ろしているつもりはない。むしろ能天気にバレエを楽しむ事が出来た人々を羨ましいと思うばかりだ。異国の旅人はオペラ座の光が強烈であればある程より深く濃く現れる陰に心が行ってしまうだけだ。バレエが華やかであればある程と先ほど言った事を繰り返すだけだ。オペラ座がバレエのメッカであるからこそ、その様に思いを致すのだ。華やかなパリで人生の哀しみに思い致すのだ。

3.バスチーユの陰謀

権力の殿堂は近代的な姿と設備を持ってバスチーユ広場にもたらされた。新しい歌劇場は現在においても尚、権力の殿堂と呼んで良いのだろうか。今や文化の象徴たるオペラハウスは何らかの権力の表出であるのだろうか。それとも文化の香り豊かな都市の顔として権力をではなく教養を指し示して見せるのだろうか。こうした新しい物に対してある種の疑いをいだくのは悪い癖なのかもしれないが、何故新しいオペラハウスが必要なのかはここでは問わないし触れない。それぞれの都市の、オペラ運営団体の、行政の、関係者の思惑が複雑に絡み合っていて語るだけで紙面が尽きてしまうからだ。近代的なオペラハウスの建設は舞台運営の為の最新設備を投入出来るのだから、けして悪いと言う訳ではない。意味もなくあちこちに「ホール」なる劇場を建てた我が国における箱物行政のお粗末さを横に置けば劇場の近代化や場合によっては新設も必要であろう。舞台転換装置の最新鋭化とか近代的な空調設備、最新の照明機器、劇場内をコンピューター制御し、効率化と安全性の確保を目指すのは悪い事である訳がない。

革命時に有名となった牢獄の有った広場に「新」オペラ座は近代的なガラスに覆われた輝きを放って建っている。バスチーユの前に立ち記念塔の下をひっきりなしに通る自動車の、何処の都会にもある当たり前の風景を見ながら、新しい歌劇場を何故こんな落ち着かない場所に建てたのだろうと疑問がわく。それは、ヴィーンの歌劇場もリンク沿いに面したそうぞうしい場所にありはするが、新しい計画ならもう少し考えようもあったのではと異国の旅人は思うのだ。

それにしてもこの「新」オペラ座の前に立つと嫌でもチョン・ミュン・フンの辞任劇に思いを馳せざるを得ない。詳しい話は別にするとして、何よりもここもまた矮小化された権力の殿堂である事を思い知る。事は芸術家対行政官僚と言う単純な対立の構図を思い浮かべれば済む事でもあるまいが、政治のご都合主義があったのは否めない。新しいオペラ座も権力闘争の場となり汚れてしまったと近代的な新オペラ座の姿を見ながらため息の一つも付きたくなると言うものだ。もっとも事が起こるのに劇場の建物が新しかろうが古かろうがあまり関わりのある事ではないとも言える。我が国の真新しい「国立歌劇場」のあれもこれも同じ様に行政のご都合主義と権力の綱引きの温床である事は変わらないからだ。

皮肉な事にバスチーユとは「要塞」と言う意味だ。皮肉な事にと言った。「要塞」とは何の要塞であろうか。行政官僚たちのあるいは現在の権力者達の利権の要塞であろうか。バスチーユを選んだのは「要塞」と言う名称に吸い寄せられたからではないかとあらぬ疑いをいだく。まったくオペラ座の、いや全てのオペラハウスの話をすればこんな皮肉の一つも言いたくなる様な嫌らしい話が耳に入って来て胸に鉛でも入れられた様な気分の悪さがこみ上げて来る。異国の旅人は少しばかり懐疑的で斜に構えた歪んだものの見方しか出来なくなってしまったのかもしれないと反省はしてみるが何ともやりきれない。見通しの良い心温まる物語をオペラハウスに求めるのは世間知らずの子供のやることだろうか。

その通り子供のやる事だと言われそうだ。夢幻の世界に遊ぶオペラの舞台から一歩下がると現実だけがそこにあるのだが気が付かないかと言われている様だ。この様な考えが強く浮かぶのはやはり他の歌劇場に感じるある意味では人の力を超越した魔力だの伝統だのの何かをパリのオペラ座には感じず権力の殿堂と言う姿をそこに見ているからだろうか。それともガルニエ宮があるのにバスチーユを建てた事に何か納得できぬ思いをいだくからだろうか。

そのガルニエ宮とバスチーユだが、まったくの個人的な感想にしか過ぎないけれど、ワーグナーの様な、他ならぬベルリオーズの様なあるいはヴェルディの一部の作品の様な壮大な要素を持ったオペラはバスチーユで掛けた方が良いかもしれないがモーツァルトはガルニエでやって貰いたいし、ヴェルディの椿姫もガルニエこそ相応しいと思うが如何?だろう。

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バスチーユの場内。近代的なオペラハウスだ。

私個人の気に入る、入らないは別に、今日パリのオペラシーンはバスチーユが中心となるのは当然かもしれない。本当はパリの歌劇場を語るならシャトレ座やシャンゼリゼ劇場、オペラコミック、リリック座の事も語らないとならないかもしれない。ベルリオーズの「トロイアの人々」やビゼーの「カルメン」やグノーの「ファススト」、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」そして他ならぬストラヴィンスキーの主要な諸作品を初演した劇場の話もしないとパリのオペラハウスを語った事にならないかもしれない。だが、やはり現在においてはバスチーユこそパリのオペラシーンの中心となる。

ところで上に並べた錚々たる作品群がなぜガルニエ宮で初演されなかったのかふと気になった。名の通った作品でオペラ座において初演の栄誉に属した作品はマスネの「タイス」くらいであろうか。ここに権力と権威の鎧に覆われたオペラ座の姿を見るのはいささか意識過剰だろうか。どの様な事情があったのかは個々の作品や時代背景を検証しなくてはならないだろうが、どのみちオペラ座でこれらの作品が初演されなかったのはそれなりの権力と権威がらみのあれこれがあったに違いないと・・・どうやら異国の旅人はガルニエ宮の豪華絢爛たる姿に圧倒されて、正常にものを見る事が出来なくなっている様だ。

話をバスチーユに戻そう。開演まえの場内放送でフランス語、英語の案内とともに日本語の案内が流れたのには、それは録音された物だが、驚いてしまった。我同胞はまんべんなく遠き欧州のオペラハウスに生息している事の証であり頼もしくもあり、心配でもあった。一部の有名なオペラのプログラムに日本語解説が載せてあるヴィーン国立歌劇場でもそんなサービスは無いし、場内放送などもとより無い。さすがは移民を積極的に受け入れたフランスの歌劇場だ。極東の島国の聴衆に市民権を与えてくれていると喜ばしく思えば良いのかもしれない。明治以来百数十年の歳月をかけて、最も欧州らしい芸術であるオペラの観客として我同胞がパリ・オペラ座の多くの席を占める上客と認識されたのだからすごい事かもしれない。パリはかのように、自由平等博愛のもとに門戸を開いたと善意に解釈すれば良いのだろうか。

4.オペラ座と自由平等博愛

フランスをことさらパリを形容する言葉は国旗にもその意味が込められた自由平等博愛の3つの精神を表すフランス革命を象徴する言葉だ。これは素晴らしい言葉であり現代においても尚、大切な事柄を端的に表している。だが、所詮、自由平等博愛と言ってもそれは同胞の間の内なる合言葉にしか過ぎず、同胞とは有り体に言えば白人のフランス人の事だ。さすがに多くの移民を受け入れ、移民無しでは社会が立たち行かなくなった現在ではそうした考えは影を潜めているが、根本的には異質なものは排除しようとするのは我々にも多々見受けられる考えだ。博愛とは自分達の許容の範囲内での博愛だ!オペラ座はそんなこの世のうさとは何の関わりもないのだろうか。イスラムの教えを尊ぶ女性達のスカーフを禁止する法案が事もあろうにパリで実施されると聞いて目が点になった。自由平等博愛ではないのか。フランスンの国旗の三色は自由平等博愛を表しているのではないか。何やら私達の預かり知らぬところでとんでもない誤謬が発生しているのではないかと思いさえした。だからオペラ座も二つにしてしまったのではないかと的外れな考えが浮かんだ。ガルニエ宮でバレエを行うと言う事は、ルイ王朝が熱心に取り組み進めたまさにフランスの芸術となり得たバレエを本来のオペラ座に、本来のと言うのが適切かどうかは別として、帰属しグランドオペラなどと誇って見ても所詮はイタリアやドイツから来たオペラなるものは新しいバスチーユに追いやろうと言う魂胆が見える様な気がする。先に述べた様にさらにオペラ座でフランス生まれの重要な作品が初演されなかった事実が重なり権力と自由平等博愛が相いれない事柄である事を再認識する。そこにはフランス至上主義の、平等などと言葉を費やしても本当に平等などある訳がないと言う、本音のところではイスラムを否定する心根が見える様な気がする。うがち過ぎの見方だと一笑に伏せる事が出来るだろうか。移民排除はもはやフランスだけの事柄では無く、今まで旅して来た歌劇場のある都市でも日常的な考えの一部になりつつある。おぞましい第三帝国の時代を我々は再び繰り返す事になりはしないかと不安でならない。パリは今その危険が最も大きな街ではないかと思える。有名な話だが英語が分かるにも関わらずフランス語で話かけないと返事もしないフランス人と良く言われるが、他者を、よそ者を、自分達にすり寄ろうとする人間以外を排除しようとする精神が見え隠れする様な気がして気分が悪い。

オペラ座の話をしているつもりだったのにあらぬ方向に話が行ってしまった。ガルニエ宮でもバスチーユでもフランスの精神を表す自由平等博愛の雰囲気は何も感じられなかったし、オペラハウスの預かり知らぬ自由平等博愛をオペラ座に求めても意味の無いことであろう。第一求める事は筋違いである事に他なるまい。オペラ座とは革命以前から存在する組織であり考え方でありオペラハウスと言う建物であるからだ。古い因習と前時代的な階級社会の構造を引きずったものである事は変えようがない事実だからだ。そこにフランス革命の精神を探そうとする方がどうかしていると言う事だ。

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5.知られざるパリの姿

フランス革命の事はあまりにも有名で私などより遥かに理解している方々が多いだろうし、パリの事を良く知っている同胞は沢山いるに違いないが、現在のパリに住んでいる人達でさえ、知らないガルニエ宮が立ったころのパリがある。欧州有数の港町パリ、その港町にあるオペラ座である。意外に思われるだろうか。19世紀セーヌ河は運送の船で溢れかえり活況を呈していた。ヨットに乗りパリから大西洋までの旅を書いた本を読んだ覚えがある。船はかつて運輸交通の要でありその運河網はパリなど都市のかなり内陸部まで入り込んでいたのだ。私達は現在を基準に過去を見る。当たり前の思考だが、過去を学ぼうとしないとそのまま誤った見方をしたままになる。19世紀を思う時に単純に地下鉄やバスがないだけ不便だと思うだけではないだろうか。しかし、かつては水上交通が運輸交通の要だった時代があったのだ。遥かな昔では無くショパンが彼自慢の馬車に乗ってパリの街を行き来していたころもそうだったのだ。水上交通の盛んな時代にオペラ座、ガルニエ宮は建ったのだ。有数の港町パリを想像する事が出来るだろうか。今では流れゆくセーヌ河にその面影を見るしかないのだが、セーヌ河にその面影はない。観光船がゆったりと通るのをオルセー美術館の窓から眺めながら往時を偲ぶ以外にないのだ。何もオルセー美術館の窓から眺める必然性はないのだが、そう言ってみたかっただけだ。

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そんな往時を偲ぶ縁が無くなっても、過去を尊ぶ気持ちはパリに感じられる。パリは経済や商業の要請を敢然と無視して都市の美観を守ろうとする。パリの遺産地域は新規の建物を許さずリフトの設置さえ許さない。うっかりそうした地域のホテルに泊まると当時の雰囲気たっぷりの情緒豊かな部屋で過せる代わりに上階の部屋などに宿泊しようものならかなりの運動が出来てさぞかし健康になるに違いない。先に花の都パリは実は花より革命の街だと述べた。多くの前衛的な芸術が生まれた近代的で革新的な街であるにも関わらず遺産地域から感じられる様に随分と保守的な面が幅を利かせる街でもある。街並み等の文化財を残そうとの考えから保護をする訳だが、「過去を尊ぶ気持ち」と上に記したがそれ以上に変えたくないものは変えないと言ういささか執着心の強い頑なな面が顔を出している様に思える。それは保守的であるとは言えない別の要素から来ている様に思われる。そう、他者を受け入れない、至上主義的な思いから来ている様な気がする。それこそ花の都パリの本性だと言うわけだ。パリとはどうも他者を否とし自己を是とする都市の様だ。豪華絢爛たるガルニエ宮の方のオペラ座の席に座り他のあまたある歌劇場の様にその雰囲気を素直に受け入れ楽しむ事が出来ないのはその豪華さが却ってパリの本性を表しているからと感じてしまうからの様な気がする。

さてパリの悪口を言うのはこの辺にしておこう。水上交通が盛んであった時代を心に刻みながらオペラ座通りを歩き通り沿いのレストランに入り道行く人々を見てオペラが始まるまでの時間を過ごすと道行く人々がオペラとは何の関わりも無い人々が大多数だと言う事に気が付く。他の歌劇場だって目抜き通りを行く人々の大多数はオペラには何の関わりもない人々なのだろうけれども、パリが華やかであればある程オペラに関わる人々とそうでない人々の対比が鮮明になる様に思える。19世紀のパリは作曲家達を、ヴィルトゥーオーゾ達を、芸術家達を誘蛾灯の様に引き付けたが市民階級の遊興の世界でそう論じられても目抜き通りを行き交う大多数の人々がオペラとは関わりが無いのと同じほどに預かり知らぬ世界の事であったろう。オペラとは広く世間の人々にとっては何であるのかと言う根本的な答えの出ない問題に心が行ってしまいそうになる。それでも他ならぬヴァーグナーが、ヴェルディが、ロッシーニが目指したパリがあったのだ。

6.オペラ作曲家のパリ

パリで成功したロッシーニは早々と引退し悠々自適のグルメ生活を送った。あまりにもグルメ過ぎて自身で高級レストランまで経営した。グルメなどと言う食の贅沢に溺れた手合いは長生きなど出来ないのが相場と決まっているがロッシーニは76歳まで長生きした。最後のオペラ「ウィリアム・テル」が37歳の時の作品だからそれから39年間死ぬまでオペラなど関わらぬ人生を送った訳だ。何とも羨ましい、いや腹の立つ人生を送ったものだ。人を軽蔑しコケにする事の得意なヴァーグナーがロッシーニを羨ましがったそうだがそれはそうだろう。大多数の人々が素直に羨ましがるはずだ。ベッリーニを敬愛していたがオペラ作曲家ではないショパンはさぞかし苛立った事だろう。成功は意味の希薄なロッシーニなどに約束されていたからだ。「希薄な、などに」などと言うとロッシーニファンとオペラに造詣の深い人達は眉をひそめるだろうか。ロッシーニのオペラは素晴らしい作品だと認めるのにやぶさかではないと言い訳しておこう。

ロッシーニにそんな贅沢な生涯を送らせることの出来た街パリ。当時はやはりパリで成功すると言う事は欧州の他の都市で成功するよりも遥かに重要な事だったのだ。成功が約束されれば事によるとロッシーニの様な気楽で自由気儘な、本人は気楽だったかどうか分からないが、生活を送る事が出来たかもしれないのがパリだった。時代が下ってストラヴィンスキーなどが関わったデアギレフ率いるロシアバレエ団などもパリでの成功が後世まで語り継がれる基になっている訳だ。

ヴェルディも又、パリに住んだ。だが彼はパリに埋もれ様とはしなかった。リコルディへの手紙でパリに永住するのかと言う疑問にとんでもない!と書き送っている。事実ヴェルディは農夫となって、農場経営者だが、イタリアに戻って来た。パリに居たのは例のストレンポーニがらみの事であったがそれ以上にヴェルディはパリの大都会にある胡散臭さを感じてしまったのかもしれない。ヴァーグナーもパリに落ち着きはしなかった。彼は自身が一番で無い都市にその身を置きたくなど無かったのだ。そうは言っても優れた作曲家や演奏家が集まった当時のパリ・オペラ座は事もあろうにヴィーンやミラノを差し置いて欧州一の歌劇場だったと言えるかもしれない。

ところで何度も書くのは気が引けるが、そのオペラ座がフランスの作曲家達の重要な作品を初演していないと言う事実には何とも違和感を覚える。オペラ座には苔むした権威主義がこびりついているからだろうか。権威と権力の殿堂と最初に述べたが、やはりそうなのだろうか。多分そうなのだろう。オペラ座は古い因習と利権のこびりついた象徴の様な物に思えたのだろう。作曲家、と敢えて記すが、作曲家ピエール・ブーレーズはだから「オペラ座を爆破しろ!」と過激な言葉を口にした。勿論,芸術上の、音楽上の意味から伝統や因習や権威や権力を否定する為の発言であり、本当に爆破しろと言った訳ではない。「オペラ座を爆破せよ!」との発言でブーレーズが当局に取り調べを受けたとの冗談の様な話は横においておくことにしよう。ドビュッシーは敢えて「ペレアスとメリザンド」の初演をオペラ座でやらなかった様だ。オペラ座を避けた訳だ。ブーレーズの様な過激な発言はしなかったが既に当時ドビュッシーも又、オペラ座にブーレーズと同じ印象を懐いていたのだろうと推測される。

いずれにしろオペラ座を批判したブーレーズも又、逆説的にパリで活躍する事が自身を築き上げる基礎であったわけだ。その様に才能ある作曲家達が、ピアニスト達が磁石に引き寄せられる様に集まった街パリ。そのパリにはオペラ座やサル・プレイエルやシャンゼリゼ劇場などの音楽に関わりのあるものよりも、途方もない数と質の音楽以外の芸術作品があるのを思い出しながらふと我に返って見る。それは他の欧州の名だたる都市以上の物量と質量を維持しているのだ。

7.御多分に漏れず美術館にてオペラ座を思う

オルセー美術館に少しふれたが、マルモッタン美術館にせよオランジェリー美術館にしろ、他ならぬルーブルにしろ圧倒的な質と量の芸術作品がパリにはあるのだ。その様に多くの偉大な芸術作品で溢れていると、何がオペラ座に影響を与えたのか分からなくなる。ルーブルにはダヴィンチの作品が溢れており、溢れているなどとはいささか大げさな言い方だが、何がオペラ座に影響力を発揮したのか皆目見当がつかない。むしろ、ミラノとかバイエルンの様に他の芸術作品がオペラ座に特に影響を及ぼしたなどとは思えない。オペラ座は勝手に自己完結してしまっている様に思えるのだ。その中でそうではないと思われるのはかろうじて戦後になって施されたシャガールの天井画だけであろうと思われる。

パリ・オペラ座は何者の影響も受けずにそこにあり自己完結した歌劇場なのだ。毎日ルーブル美術館に足を運びルーブル全部を見てやろうと無謀な試みに挑戦したがさすがに挫折してしまった。ルーブルに入り浸っていると、これは私だけだと思うが、オペラ座の事はきれいさっぱり忘れている。そもそもなぜパリにいるのかと問われた時、ルーブルを観に来たのだとその場では言ってしまうだろう。美術史博物館にいる時なぜヴィーンにいるのかと問われれば堂々とヴィーン国立歌劇場に来たのだと言うだろう。だがルーブルではそう言う気持ちになれない。パリはオペラなどより遥かに心引かれる多くの物を用意してくれているだと言っても良いだろうか。都市の規模が大きいから一つ一つの事柄が小さく見えてしまうのだろうか。小さく?豪華絢爛たるオペラ座は私に取って関心の最上位ではなかったのか。そのはずだ、夕方になり幕が開く時間が迫るとオペラ座に行く事に心浮き立たせるのだからその為にパリにいるのは間違いが無いはずだ。そうした事を思うと少なくとも私自身の中でオペラ座は他の芸術作品からは切り離されたものなのだと気が付き納得する事になる。

厄介な事にガルニエ宮とバスチーユではその感覚が微妙に違う。バスチーユへ出掛ける夕べはそれこそ初台に出掛けるのと大差ない気分で地下鉄に乗れるし、つながりが見いだせないにも関わらずパリの街を彩る芸術作品とのそこはかとない関連を感じない訳ではないのだが、ガルニエ宮に出掛ける時は妙に構えている己がいる。オペラ座に行く為にパリに来たのだとガルニエ宮に向かって歩いている時は思う。昼、他の関心事にかまけている時はきれいさっぱり忘れていると言うのに。

豪華絢爛たると何回も書いていると豪華絢爛さが薄らいでしまいそうだが、歌劇場らしい装飾ではなく、贅を尽くした王宮の様な内部の装飾に異国の旅人は圧倒されてしまいどうも批判的にオペラ座を見てしまいがちになる。バスチーユだってオペラ座なのだが、こちらの姿形は近代的なものであり誤解を恐れずに言うのならミュンヘンのガスタイクやNHKホールやベルリンドイツオペラと大差なく感じる。公平に見れば今日オペラの上演回数は圧倒的にバスチーユの方が主力であるだろうに、私にとってはパリ・オペラ座とはガルニエ宮の事なのだと本音を言っておこう。

とどのつまり、私はパリに対していささか偏見を持っているのだろう。批判的にどころかいささか否定的に言ってしまっているだろう。他の街ではあるべくして有る歌劇場の存在が、歌劇場はその街にあるべきものであるとの思いがパリでは感じない。パリには歌劇場などなくても一向にさし障りがある訳ではないとの思いが浮かぶ。これは何処から来る考えなのだろうか。やはりパリはわざわざオペラの観劇の為に訪れるような街では無いのだろうか。彼の時代、ロッシーニから続き、19世紀にヴェルディやヴァーグナーがパリで活躍した時代は確かに音楽が大きな位置を占めていた。もはやそんな時代は遥かなる過去の話であって、今日、パリにおいてはあまたある芸術の一つのジャンルでしかないのだろうか。オペラは時代遅れな出し物にしか過ぎないと言われると、その通りだと言ってしまいそうになる事が恐い。ブーレーズの思惑通りに前近代的なオペラ座を否定したくなってしまい危うい。

パリ・オペラ座への旅をして思った事は訪れる前とは随分違った印象を持って事だ。ガルニエ宮に行けばこれぞオペラハウスの最良にして最高の雰囲気と贅沢を味わっていると感激するだろうと思っていた。ところが豪華絢爛たる、そして贅沢な事に二つもオペラ座が用意されているにも関わらず感激は無かった。いや出し物は素晴らしく心行くまで楽しめたがパリ・オペラ座についに来たのだと言う心の高まりはあまり抱けなかった。随分とオペラ座への道は遠くにある様な気がした。パリに取ってオペラとは何なのかと問いたい気持ちにさせられる。オペラ座に取ってのオペラとは何なのかと問いたくなる。

答えは伝統だろうか。ブーレーズが爆破しようとしたのはオペラ座の建物では無く、伝統や因習や官僚主義などもろもろの事だが、ブーレーズが爆破しようとした物が実はオペラそのものなのだと言うことだろうか。おそらくそうなのだろう。

パリの街を歩き回りルーブルを始めとするお勧めの名所旧跡をいくら訪ねても、パリはオペラ座について何も語ってはくれない。オペラ座はパリの本質とは離れたものだろう。革命と革新と保守と伝統と理念としての自由平等博愛がある街パリはかつてのバレエが重要な位置を占め発展し、グランドオペラが闊歩した様な時代では無くなったのだ。パリ・オペラ座はただただ、演目を楽しむ為に訪れ、回りに目を向ける事は慎んだ方がより楽しめる歌劇場なのだ。慣れないフランス語の会話帳をそっと持って出掛けるたりするからそんな印象が多くを占めてしまうのだろうか。ガルニエ宮の豪華絢爛たる装飾に何も考えずに感動してさえいれば幸福であったろうにそれが出来なかった異国の旅人にはいささか荷の重い旅となってしまった様な気がする。それにしてもパリ・オペラ座は訪ねなくてはならない歌劇場だ。矛盾してしまいそうだがここを訪れて見なければ欧州におけるオペラの位置と言うものはなかなか分からないだろう。今でもパリ・オペラ座は欧州のオペラの中心にあるのかもしれない。遥かなる昔、19世紀のあの旧き時代の様に。