第12回「ヴィーン国立歌劇場」
ヴィーン国立歌劇場 天井シャンデリア
旅の果てにいつも訪れるのはこの歌劇場だ。ここではほとんど毎日何かしらの演目が上演されている。ヴィーンと言う街に留まれば夕闇の迫るころ毎晩この歌劇場に足を運んでしまう。たまにはコンツェルトハウスや楽友協会、フォルクスオーパにも足を運びはするが、何かに憑かれた様に国立歌劇場に引き寄せられる。噴水脇の入り口から入る上客になるか、もちろん正面入り口から入っても良いのだが、西側の入り口で立見席を取る為に並び天井桟敷の人になるか、いずれにせよいかなる魔力のなせる技によるのか毎晩のように通う事になってしまう。したがってヴィーンに留まっていても夜、音楽以外の事を楽しんだ事がない。たまには郊外のヴィーンの森やベートーヴェンゆかりの地ハイリゲンシュタット、グリンツィングにでも出掛け夕方からさわやかな風でも浴びながらホイリゲで郷土料理を肴に夜が更けるのを楽しみ一杯やってみたいものだと願っていてもそれは叶わぬ夢のままだ。そして多分これからも叶わぬ夢のままであり続けるかもしれない。そうだ、我が夢の街ヴィーンの毎晩はいつもこの国立歌劇場と共にある様なものだ。
今日、これほどの公演日数をこなす歌劇場が他にあるだろうか。昨夜はドニゼッティを聴き今夜はモーツァルトで明晩はヴァーグナー、明後日はヴィルディと演目が並ぶ歌劇場は欧州広しと言えどもヴィーン国立歌劇場だけなのではないだろうか。それは一つにはレパートリー制を取った公演を行っているからだがそのレパートリー制も歴史と伝統がなせる技であろうか。歴史と伝統なら他の歌劇場も負けない程持っているのだが、ヴィーン国立歌劇場は抜きん出ている様に感じる。他の歌劇場が多くの場合スタジオーネ制を取っているのに対してレパートリー制で上演する事が出来るのは宮廷歌劇場の時代から惜しみない公的資金が注ぎ込まれているからではないかとも考えられる。オペラの様な金食い虫を扱う歌劇場と言う組織は闊達な資金があって初めて順調に運営されるものだからだ。近年オペラハウスの運営で最も問題となっているのは国や地方自治体からの援助金の削減に端を発する慢性的な資金不足だ。音楽監督と劇場監督の衝突とか歌手やオーケストラと音楽監督との不和とかは、宮廷歌劇場音楽監督グスタフ・マーラーの時代やそれ以前からある生臭い人間関係の問題だが、そうした芸術上の理念を含む諸問題を差し置いて資金不足の問題は最も深刻な事態だと言う事はドイツの諸歌劇場を語った時も折に触れ扱って来た。ヴィーン国立歌劇場はそうした運営資金の面では恵まれた歌劇場であろう。国家財政の投入があるからこそこの歌劇場は毎晩幕を開けられ、我々はその恩恵に預かれると言う訳だ。そして毎晩何かに取りつかれた様に通う羽目に陥るのだ。天井桟敷の手すりにハンカチを巻きつけ自分の席を、いやいや場所を確保すると例え立見席で少々疲れても幸せな時間を過ごす事が出来るのだ。その為に人生を過つ人々が沢山居る。以前立見席でオペラが始まるのを友人と待っていると隣に陣取ったおそらくは英国人と思われる小柄な年のころは50は超えているだろうか、彼が向こう隣りの若者と話をしているのがこぼれ聞こえて来た。ブダペスト、プラハ、パリ、サンクトペテルブルク、メトロポリタン・・・彼は世界中の歌劇場に出掛け天井桟敷でオペラを聴き続けているのだそうだ。天井桟敷のイギリス人と言ったが、あまり風采の上がらない服装をしていても彼の話す英語は極めて分かりやすい正確な英語でありそこからクイーンズイングリッシュ、すなわち英国における正当な言葉をしゃべるトップクラスの階級の人間がだと分かる。そんな人間が何を間違ったのか天井桟敷で人生を過ごし続けていると言うのだ。げにオペラ程恐ろしい物は無いとつくづく感じる。
どこの歌劇場にも天井桟敷にはこうした手合い必ずいるが取り分けてもここヴィーン国立歌劇場は特に多い様な気がして仕方が無い。毎晩上演される回数の多さとその水準の高さ、出演する世界に名のしれた歌手達に魅力があるからだろうし、やはりヴィーン国立歌劇場は特別な歌劇場なのだと言う雰囲気が満ち溢れているからだろうか。人生を過つのに十分な魅力に満ち溢れているからだからだろうか。いや人生を破滅させるに十分な魔力と言うべきか。現実の話しとしては国家からの助成金のお陰で天井桟敷は他のいかなる歌劇場の天井桟敷と比べても驚く程安価であり、懐の軽い学生や若者達、学生でも若くもないが懐の軽い人達、座る席を確保出来なかった不運な人達、天井桟敷が居場所となっている人達がオペラを楽しむ事が出来るようになっている。勿論、異国の旅人も西側の立ち見席を求める人々の列に並び床に腰をおろして販売開始時間まで待てば天井桟敷の一員にして貰える。
国家の助成が文化芸術の維持存続と発展には欠く事の出来ないものである事は今さら言うまでもないが、ヴィーン国立歌劇場はこれまで旅して来た歌劇場の中でも最も恵まれた歌劇場ではないだろうか。本来の必要経費から考えれば料金はカテゴリーに関係無くもっと高価であるはずだし、立ち見席の料金設定は破格の安さだ。
その破格の低料金を誇る天井桟敷で、話では聞いていたが本当に、舞台のほとんどが見えない場所で床に座り込んで分厚い譜面を見ながら舞台には一瞥もくれない観客の姿を見た時には、何か場違いな来てはいけない世界に脚を踏み入れてしまったのではないかと不安になったものだ。人は自分には及びもつかない他者を見ると己を奮い立たせようとするか、委縮してしまうかのどちらかだ。意気地無しの私は後者だと告白しておこう。我が夢の街ヴィーンの国立歌劇場で私は人生とは何かを教えて貰ったのかもしれないと少し生真面目に思う。
その伝統の深さも又尋常では無く、関わりを持ってきた歌手や指揮者や作曲家や演出家や脚本家やその他もろもろの人々の名前を並べてみただけでもそら恐ろしくなる。それらの栄光ある人々の威光が今だに天井桟敷に居る人々にまで及んでいるのだろうか。クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、ワルター、ベーム、フルトヴェングラー、など名前を上げるのが億劫になるほど名を成した演奏家達を何百人と上げる事が出来る伝統の魔力が人生を過たせる力を持っているのだろうか。その様に考えると恐れにも似た気持ちを懐く。そんな恐れにも似た気持ちを懐かせるヴィーン国立歌劇場とはそもそも何者なのであろうかと思う様になる。
一言では言い表せない事は承知の上で、敢えて一言で言えばヴィーン国立歌劇場は不磨殿である。ベームの様に戦後復活の記念となる最初の出し物「フィデリオ」を降った様な音楽監督さえ失言をきっかけにあっと言う間に追い出される。マーラーの様な功労者さえ失脚させる街なのだ! 「毎日が祝祭であった。」とはヘルベルト・フォン・カラヤンがこのヴィーン国立歌劇場の音楽監督を務めていた時代の事を語った言葉だが、伝統的なアンサンブルに綺羅星の如きスター歌手達を出演させ毎晩どこかの音楽祭を開いている様に様変わりさせて以来この歌劇場は世界最高水準の歌手達が集う歌劇場になりはした。ただ、毎日を祝祭にしたカラヤンのやり方は破局し、あのカラヤンでさえもこの歌劇場から退かざるを得なかったのだ。いやいや一概にそれだけの為にカラヤンが失脚したわけではなくヒルベルトとの根深い軋轢があった事も確かだが、いずれにせよ、「帝王」カラヤンでさえこの不磨殿ではベルリンフィルの様にはいかなかったのだ。
ドニゼッティ:ロベルト・デヴリュー カーテンコールに応えるグルベローヴァ
伝統的なレパートリー制を取りながらスター歌手達が常に出演する歌劇場。ヴィーン国立歌劇場はそんな特別な歌劇場なのだと言えるのかもしれない。であるから尚の事この歌劇場には人生を過つ人達が集まるのかもしれない。そんな人々を集めて今宵もまた幕が開くと言う訳だ。毎晩、最高水準の歌手達を常に聴く事が出来る歌劇場として。
多少意地悪く言うなら、だからと言って毎晩毎晩感涙にむせぶ様な、感動のあまり人生が変わってしまう様な出し物が聞けると言う訳ではないのはいずこも同じである。黒く塗りつぶされた様な一夜のオペラの夕べもたまにはある。演出が気に入らない時もあるし歌手が期待外れだったり、オーケストラの歯車が噛み合わない事もあるのは致し方が無いであろうが、それでも弁護するなら椅子を蹴ってその場を立ち去りたい様な酷い出し物には幸いまだ出会ってはいない。水準の高さがなす技であろうか。あるいは私の鑑賞力が鈍く酷い出し物でもそれを感じないのだろうか?さて、とにもかくにもこの様なヴィーン国立歌劇場を語るには何から始めるのが良いのだろうか。
まずはその並はずれた、名のある歌劇場ならどこでも持っている栄誉ある伝統からヴィーン国立歌劇場を語り始めるのが良いだろうか。綺羅星のごとく並ぶ偉大な歌手達を或いは指揮者達を一人一人取り上げて歌劇場との良悪因縁を一くさりすれば、この歌劇場を大いに語った事になるだろうか。過去の偉人達を並べこれでもかと歴史をなぞることが必要だろうか。それともそうした歴史を語ることの他にヴィーン国立歌劇場について語る方法があるだろうか。新しい世代の歌手達を語ればよいのだろうか。今現在を語れば何か見えて来るだろうか。イアン・ホーレンダー総裁の在任した長期政権に付いて語れば良いのか。それも一つの方法であろう。だが、もう少し違った見方をしてみる事にしようと思う。
ヴィーンの街を語る時必ず語られるのは、かつての城壁を取り壊してリンクシュトラーセを作りこの環状道路沿いに中心となる施設を建てた街作りの歴史が語られるのだが、取り分けてもこの歌劇場の建物が真っ先に建てられ、さすがは音楽の都ヴィーンと言われる事だ。確かに歌劇場を真っ先に建てるなど、どこかの極東の文化後進国ではにわかに信じがたい事であろう。だが、都市の構造には均衡と言うものが存在しており、大きな目で見れば文化や芸術の施設をバランスよく配置するのは当然の都市計画である。物のとらえ方の格差による順番の後先はあろうが歌劇場はあるべくしてあるべく位置に座したまでだ。
だからヴィーン国立歌劇場を語る時には必然的にヴィーンと言う都市を、あるいは街を語る事にもなる。音楽の都ヴィーンについて。では少しばかりこのヴィーンと言う都市、あるいは街について考え語ってみる事としよう。そうすることがヴィーン国立歌劇場を語る事になると思える。他の歌劇場を語ってもやはりその歌劇場がある都市の事を語らずにはすまない様に、歌劇場が座する都市が如何様な街であるかは歌劇場の重量なアイディンティティであるのはいずこも同じだが、取り分けても我が夢の街ヴィーンの歌劇場はそれ抜きでは語れない。少し極端に言えばヴィーンと国立歌劇場は同義語ではないだろうか。ある面ではそうとしか思えない時がある。音楽の都なのだからヴィーンと国立歌劇場が同義語である事は当たり前の事だとおっしゃるだろうか。観光の宣伝文句の先頭を走る音楽の都と言う言葉を額面通りに受け取るならその様に理解する事は間違いではない。だがヴィーンは音楽が全てでは勿論ない。世界中のどの都市でも音楽で都市の機能が動いているなどと言う事はない。ヴィーンも他の全ての都市と同じ様に経済活動があり、政治活動があり、犯罪があり、人々の生活の営みがある。音楽の都とはヴィーンのほんの一面を過大に言い表した言葉にしか過ぎない。
しかし、それでもヴィーンは国立歌劇場と同義語なのだ。いや、同義語だと信じる人達が集う街であるのだ。少なくとも一部の人々にとっては、まさしくヴィーンと言う響きは国立歌劇場の事なのだ。
さて、ではヴィーンと言う都市を、街の事を考えて見る事にしよう。
開演を待つ。プログラムと対訳の字幕用ディスプレイ。
ヴィーン、この笑顔を浮かべるよそよそしき街。初めてヴィーンを訪れたのはずいぶん昔の事になってしまったが、それが今でも変わらぬヴィーンの印象だ。この街はモーツァルトに酷く冷たい街であった。冷たいと言うのが言い過ぎならよそよそしい街とでも言おうか。所詮はモーツァルトほどの音楽家でも異邦人でしかなかった様だ。それはベートーヴェンしかり、ブラームスしかり、ブラームスは大家として地位を築いたがヨハン・シュトラウス一家の人気に負けていたではないか、ブルックナーしかり、シューマン、ショパンしかりであり、ましてやグスタフ・マーラーにいたっては別の世界の人間と思っていたような節さえある。いやいや、マーラーがヴィーン国立歌劇場の音楽監督をやっていた時の人気たるや、その尊敬たるや大したものであったではないか、ヴィーンはマーラーを異邦人扱いなどしていないと言う人もいるだろう。ならば何故最後には石持て追う様な仕打ちをマーラーにしたのかと問いたい。
忌むべき存在であるユダヤ人であるマーラーを実は受け入れるふりをしたに過ぎず、ヴィーンは最初からマーラーに笑顔など向けていなかったのだ。ただ、その才能に熱狂しただけに過ぎない。そして無数に存在するマーラーに向けた中傷と戯画と嘲りの言葉。マーラーの過した10年の歳月はただただ敵との戦いであり、そのヴィーンの街が熱狂した才能が鼻に付く様になると冷たくあしらわれた。敵とは音楽評論家やマスコミやライバルなどでは無くヴィーンと言う街そのものであったのではないだろうか。音楽の都ヴィーンと言う街がマーラーの敵であり、モーツァルトにとってもそれは同じではなかったのか。ヴィーンはとどのつまり生前のモーツァルトを理解しなかったではないか。死して初めてまるで遥か昔からそうであった様な顔をして自分達の誇りと認めたではないか。そして今やモーツァルトはヴィーンになくてはならない観光資源のトップスリーになっているではないか。マーラーは国立歌劇場の黄金時代の立役者の扱いではないか。
この様に、さよう、この様にして死して初めてヴィーンの街は一員となる事を承諾してくれる。そう、そしてその象徴たるヴィーン国立歌劇場はその建物を設計したエドアルト・ファン・デア・ニュルとアウグスト・ジッカルト・フォン・ジッカルツブルクの二人の建築家まで死に誘ったのだ。いや、その耽美的な死を望んだのだ。この二人は1869年の歌劇場の柿落としに立ち会うことなく前年に死神に抱かれた。なんと言う街だろう。なんと言うオペラハウスだろう。この様なオペラハウスの話は他では聞かない。設計した二人の建築家にまでその死を要求したのだ。耽美的な死を望み死して初めてその懐に抱いたのだ!皇帝が歌劇場の背が低いと文句を言った事を気に病んで建築家が自殺したと言いう話はまさに「らしい」話である。その物語はヴィーンの街らしい物語で真意の程など誰も吟味すらしない。何かのおりに、誰かが死する事こそヴィーンの街の必然であり、ヴィンーンが求めてやまないものなのだと思わざるを得ない!そしてその死にざまは如何様なる死にざまであろうとも耽美的なのだ。ヴィーンにおいては歌劇場に関わるいかなる死も耽美的であり、耽美的でしかないのだ。イゾルデが歌う最後の歌の如くに耽美的なのだ!現実の死が舞台の上で演じられる死よりも尚、夢幻の如くに耽美的なのだ。
死に誘う街、死がまるで憧れの様に身近にある街。死が耽美的な街。死して初めてその懐に受け入れてくれる街!そんなふうに思えて私は恐れに似たものを覚えながらリンクシュトラーセの対岸から国立歌劇場の正面を眺める。ここにいる事は危険な事ではないか。ヴィーンは治安のよい街だ。しかしながら現実の治安ではなくもっと本質的なもの、本能の様なものがここに留まる事は酷く危険なのではないかと叫ぶのだ!心を過ぎるのだ。
それやこれやを思いながらヴィーンの空気を吸っているとそれでも尚、この街に留まっていたいと切望する何かが湧いてくる。旅の果てにいつも訪れるのはこの歌劇場だ。ヴィーン国立歌劇場だ。そのよそよそしさがけだるく心地よく感じる様になり、そのけだるさが身にすっかり染みついた頃にはヴィーンの街に身を沈め滅びてゆく己自身をまるで他人事の様に眺めている自分がそこに居る事に気が付く。この街は人生を穏やかに破滅させても一向に構わないと誘惑される魅力に、いや魔力に満ちている。だからヴィーン国立歌劇場の天井桟敷にはそうして人生を過った者どもが集い穏やかに人生を破滅させて行くのだ。
この街はいつもそうだ。かつてはカフェで安寧を享受しヨハン・シュトラウスのワルツに酔い明日はもう帝国そのものが無くなると言うのに享楽に身をゆだねる人々が溢れかえりまさに滅びゆく自らを他人事の様に眺めていたあの「懐かしい」時代があったように、今日も自分の事なのに他人事の様に滅びるに身を任せる人々がいる街なのだ。その様な雰囲気に満ち満ちている街なのだ。そしてその様なかつての帝都の雰囲気が今でも亡霊の様にそこかしこに漂い、笑顔の仮面をかぶりやって来てその仮面の陰からよそよそしさがさらりと顔をのぞかせる街だ。
ヴィーンは訪れる全ての人々に偽りの愛を示しながら理解などしようともせず、微笑みの消えぬ間に、冷たくあしらい破滅へと導き、その後さらに冷酷に突き放し死へと誘い、死して初めてまるで遥かな昔からそうであった様な顔をして死者を受け入れ、永遠の物とする都なのだ。訪れる全ての人々に偽りの愛を示し、その偽りの愛を迂闊にも受け入れた人々が死して初めて本当の愛情を持って受け入れられる運命をたどるのだ。私にはそうとしか感じられない街だ。それがヴィーンと言う街であり音楽の都と呼ばれる街の本当の姿ではないだろうか。どこの街もよそ者には冷たいものだと言うが都市とはそもそも異邦人が集合し形成された場所ではないか。だから何処の街でも異邦人には冷たいものだが、単に冷たいとかそう言う事ではなく、この我が夢の街ヴィーンは古から連綿として続く何か人の力では抗いがたい魔力に彩られた街であり、この街が示す冷たさとは何かに取りつかれた人々を死に誘いさえする冷たさなのだ。
この様な街ヴィーンが何故音楽の都と呼ばれるのだろうか。現在にあっても尚、国立歌劇場はこの都市の顔なのだろうか。観光ツアーに組み込まれるコース上にオペラ座が入っているのは当然のことでそうした事ではオペラ座は間違いなくヴィーンの顔でありさすがは音楽の都ウィーンとの面目躍如たるものがある。観光コースとして・・・。この都市を訪れる観光客の一体何パーセントが国立歌劇場の本来の客になりオペラを楽しむだろうか。観光コースの一部として訪れる客がいかに多かろうとも、ここでオペラを観劇しない限り本来の客ではありえない。音楽の都と言うお題目を味わう為に訪れる名所旧跡としての歌劇場も確かに一つの有りようではあろうがその様な訪れ方では死して初めて受け入れてくれる都市ヴィーンを感じることは出来まいし国立歌劇場の千分の一の雰囲気でさえも味わうことは出来まい。何故音楽の都と呼ばれるかは、せっかく来たのだから本場のオペラなる物を一度は見てみようと、手数料を上乗せされた高額の席に座り眠気をこらえあくびを噛みしめながら聞く一晩限りのお客になっても、もしかしたらなかなか分からない物かもしれない。天井桟敷に毎晩の様に陣取って穏やかに人生を破滅させて行く愚か者にでもならなければヴィーンが音楽の都と呼ばれる事の意味を理解することは難しいかもしれない。
明日、帝国が亡くなると言うのに踊り呆ける馬鹿にならなければヴィーンが音楽の都と呼ばれる事の意味を理解することは難しい。なぜならヴィーンは音楽によって我と我が身が滅びる様を知りながらその音楽に魅入られた人々の集う都市なのだから。音楽の都とはそういう意味なのだ。サリエリやモーツァルトを筆頭に今晩天井桟敷に陣取る者どもにいたるまで誰も彼もが明日など思いもせずに今日を過す。ただただ、音楽に魅入られて過し送る人生を選んだ愚か者どもがいる。死して初めて両手一杯の愛情を持って受け入れてくれる、そんな恐ろしい街に憧れさえ抱きこの街を訪れる。音楽に人生をゆだねて踊り狂う、そんな宴の街なのだ。ヴィーンとはその様な街なのだ。
ヴィーン国立歌劇場裏手。この角度から撮った写真が無いのはなぜだろう。つまらないからだろうか?絵にならないのか?
だから「世紀末」と言ういかにも退廃的な言葉の響きが相応しく聞こえてしまうのだ。何かが終わってしまい、それでも何も構う事はないと言うあの独特の厭世感。ヴィーンに居続けるとそうしたものが身に沁み込んで来るようだ。国立歌劇場に足を運ぶと言う事はそうしたものが身に沁み込んで来る事をむしろ積極的に受け入れる人生を選んだ事、あるいは滅びる事と同義語なのかもしれない。だから、このヴィーンと言う街は住みやすい都市の上位に何度も選ばれている。滅びゆく己自身をけだるく他人事の様に眺められる心地よさが、住みやすさと同義語の様に思えるからだと言葉を放てば、現実に都市計画だの環境だの公共施設だの行政サービスだのを持ち出されるのが落ちだが、ヴィーンの根源にあるものは滅びゆく者達が醸し出す心地よい終焉が永遠に何度も繰り返し続く事だと思えて仕方が無い!
最もヴィーンらしいオペラの一つ、すなわちあのR・シュトラウスの「薔薇の騎士」を国立歌劇場で観劇していると、マリア・テレジアの素晴らしきヴィーンの雰囲気を思う存分味わう事が出来る事もさることながら、滅びてゆく物への永遠のオマージュを感じて仕方がない。R・シュトラウスは永遠のオマージュの為に作曲したに違いない。あの旧き良き懐かしきヴィーン。二度と帰らぬあの時代の風景。それがたった今観劇している我と我が身に降り注ぎ、酔いしれ、怠惰な心情に共感し退廃的な物を自然に受け入れ、気がつけば自らが滅びかかっているのに思いいたる。それでも尚、それでも良いのだと恐ろしい考えが心に浮びその怠惰な思いに身を投げ出して安らぎさえ得ようとしているのに気が付く。
明日帝国が亡くなると言うのに踊り呆けていた人々となんら変わることなく、同じ道を歩むのだ。ヴィーン国立歌劇場はその様な歌劇場なのだ。ヴィーンと言う街の姿がそのまま歌劇場の姿になり得るのだ。音楽の都と言う言葉はつまりはその様な事を露わして言っている。そしてヴィーン国立歌劇場の事を語るにはヴィーンと言う街を語らなくてはと言うのはここから来ている。歌劇場がその街の顔だと言うのではない。歌劇場が街そのものを体現化している。そんな歌劇場はヴィーン以外に考えられない。ミラノスカラ座もそうした雰囲気に満ちていると事情通の人はいうかもしれないがスカラ座が体現しているのはミラノの街であるよりもミラノの人々そのものの様な気がする。
R・シュトラウスが言った。「マーラーが死にました。これで少しはウィ―ンの連中もマーラーが偉大な男だと思う様になるでしょう」と。なんと言う言葉、なんと言う皮肉、なんと言う慧眼。死して初めてまるで初めからそうであったかの様に受け入れる街ヴィーンをR・シュトラウスはこの一言で表して見せたのだ。自身の「薔薇の騎士」で皮肉なまでにヴィーンを描き出したその語り口と同じ様に。考えてみればR・シュトラウスはミュンヘン人なのだ。彼はまったく性格の違う都市を肌に感じて過して来たのでヴィーンの本質を、ヴィーンに生まれ育った人々より遥かに理解する事が出来たのだ。だからこそ薔薇の騎士はヴィーン的なるものを体現化出来たのだ。ヴィーンに居ながらヴィーン的なるものに徹底的に背を向け続けた、私にはそう思えるのだが、ベートーヴェンやブラームスの様に不器用に対処せず、さらりとヴィーンの姿を表現したのだ。
R・シュトラウスが「薔薇の騎士」で表現したヴィーンは遠い遥か彼方の昔話になってしまったが、今現在においてもヴィーンはR・シュトラウスが活躍していた時代と同様に摩訶不思議な街だ。例えば「ヴィーン人が」と「オーストリア人」が言う。「ヴィーン人は何時も文句を言う。不平不満を口にしない事はない。ヴィーン人はお節介だ。寒い日に帽子を被っていないと見ず知らずの老人に被る様に注意される」となる。最もそれは随分以前の話、昔のヴィーンなのだ。さしものヴィーンも急速に変わっている。かつて無かった様なあまりにも急速な変化を感じると昔のヴィーンはもしかしたらもう書物や誰かの語る物語の中にしかないかもしれない。ニーダーエースタライヒ州の中に位置しながらヴィーンは首都であっても州都では無い。ニーダーエースタライヒ州の州都はサンクトペルテンだ。以前はヴィーンが州都も兼ねていた時代があったそうだが、何事によらず権力の集中や一極化を好まぬ欧州人の気質の表れだろうか州都はサンクトペルテンになっている。再び例えを上げれば「ヴィーン人は」と、「オーストリア人」が言う。「やれ何時も批判ばかりしている。文句ばかり言っている。不平不満を口にする。お天気や風の吹き具い合い、便利に利用している駅や路線、挙句の果ては秋に散る木々の葉にさえ文句を言っている」と言うのだ。オーストリア人に言わせるとヴィーン人はオーストリア人ではないとなる。日本人は東京人を日本人では無いとは100%思わない。だからこうした感覚は我々にとっては不可解なものだ。ヴィーンと言う街はそうした不可解な考えが当然の事に様になされる街であると言う事でもある。EUにより欧州の統合を指向している大きな流れがありながら、一方では地域性を格別のものとして細分化にこだわる傾向が残っているのが欧州でもある。そうした考えの著しい表れがヴィーンに住まう人々の気質と言うものだろうか。そうした細分化を当然として受け止めているヴィーン人達の考えは今でもありし日の昔と同じ様に「ほっておいてくれ」と言う事になるのだろう。
この様な話はヴィーン人とオーストリア人の二種類の国民が居る様な気にさせる。さらに1990年代のある統計によるとオーストリア人の82%がオペラを見た事が無く、90%の人がオーケストラコンサートに行ったことが無いそうだ。音楽の都ヴィーンを首都に仰ぐオーストリア人が、そんなバカなと思う。それぞれの所属する社交場においてヴィーナワルツを踊るバルが普及している事もありJ・ショトラウスやランナ-の演奏をオーケストラで聴いたことが無い人々が居るなどとは思いもしなかった。むろん何処の国においても都市部と地方との格差が取りざたされる様にヴィーンにおいては82%がオペラを見た事がないと言う事は考えられない。ここにヴィーンとオーストリアの二国があるかのような思いがあまり間違った印象ではないと感じる要因がある。それにしても随分な数字である。音楽の都であってもこの統計は生きているのだろうか?もしヴィーンおいても82%の数字が現実味を持っているとしたら、観光都市としての音楽の都の看板が泣くではないか。オペラに魅入られた天井桟敷の人々の事を思うとこの数字はヴィーンにおいてはまったく違っているはずだと思いたくもなる。それともヴィーンに住む大多数の人々に取ってオペラは自分には関わりの無い物、あるいはオペラに纏わり付く階級主義の幻影にいまだに踊らされているのだろうか。あんな貴族連中が聴きに行く様な物は我々の感知するものではないと言うことだろうか。そんなアナクロニズムな考え方に囚われ無くとも若者達を中心にクラシック音楽など聴かなくなりつつある現象の端的な表れであるとでも解釈するのが妥当だろうか。
何時ものなじみのカフェで食事をし、コーヒーを飲みながら、街行く人々を眺め、カフェにたむろする人々を眺めて思うのだ。ここには普通のヨーロッパの他の都市と変わらぬビジネスマンや公務員や学生や主婦や、要するに普通の人々の生活や営みがあるし、この街が特別に変わっている訳でも無いはずだと思うのだ。かつてのカフェ文化の華やかなりし頃、カフェに住み付いたかの様に生きた人々がいたころと比べれば、カフェを訪れる人々のカフェとの関わりあいもずいぶん淡白になったであろうから、カフェにおいてもますますごく普通の雰囲気になって行ったと思うのだ。そんなカフェの窓辺から一方通行のリンクショトラーセを走りゆく車の流れを見、行きかう路面電車の赤い車体に揺られる乗客の姿を見てもこの街が何か特別な魔力に満ちているとか、抜き差しならぬ雰囲気を感じるとか言う様には感じない。全ての都会が誘惑に満ちており、悪への道が用意されており、成功を夢見、陰謀を張り巡らす人々がおり、そうしたあれやこれやが普通にヴィーンにもあるのだ。ここヴィーンも世界のどこにでもある都市と変わりはしないと思えるのだ。
しかし、ヴィーン国立歌劇場がある事がヴィーンをどこにでもある都市と決定的に異ならせているのだし、そこに集う人々も又、違うのだ。いや違う様に思えるのは思い込みのせいかもしれないが、それでも違うと感じるのだ。何度も言うが滅びゆく我が身を他人ごとの様に眺める人々が今もここに集うのだ。そして国立歌劇場はヴィーンの、音楽の都ヴィーンの顔でありヴィーンを具現化している。それゆえヴィーンは音楽の都なのだともう一度、いや何度でも言わせて頂く事にしよう。
だから、何度もそう言っていると、ふとヴィーンと呼ばれるオーストリアの首都であるこの街全体がもしかしたら劇場なのではないかと思えてくる。誰も彼もが滅びゆく我が身を演出し主役を張れる街!シュニッツラーもホフマンスタールも「ヴィーン劇場」の登場人物であったのではないだろうか。そこで上演される劇は上質な出し物だったのだろうか。いや、今でも上質な出し物であり続けているのだろうか。自らも上質な出し物の役者として上質な演技をしているだろうか?現実の街の中で滅びる為の登場人物を演じるなどとそんな考えはまるで病に侵され、患っている者が抱く思いの様な気がする。そう、マーラーも世話になったフロイトの名前が浮かぶ。
フロイトの様な医師が活躍した街、精神的な病の存在を露わにした人物が活躍出来た街が健全であったと思って良いのだろうか。精神の病が「流行り病」の如くに蔓延した街が上質な出し物を舞台に載せ続けているのだろうか。フロイトの研究や治療法は必要とされたからこそ発見され発展したのではないか。精神の病が上質な出し物であり、今でもそうであると言えるのだろうか。ヴィーンは世紀末の雰囲気を宿し今でも病に侵されているのではないだろうか。明日は帝国が無くなるのに踊り呆けた人々は病に取付かれていたのではないか。ウィーンの街そのものももしかしたら病を患って来たのではないだろうか。ある時は神聖ローマ帝国と言う病に、ハプスブルクと言う病に、シュトルムウントドランクと言う病に、時代と言う病に、そして音楽の都と言う病に。だから健全で明るく正しい生き方に相応しい街とはとても思えない。街並みに、通り沿いに、国立歌劇場に、ヴィーンの全てに「病」の発病を見てしまいそうだとそうした想いを懐く。普通の生活を選ぶならどこにでもある都市となんら変わる事がない街が、音楽に魅入られたとたんに全てが尋常ではない都市へと変わり「病」に侵されて残りの人生を棒に振るのだ。さて、人生を棒に振る為に今宵の演目に思いを馳せるとしよう。
夕闇が迫るころ、いや、ヴィーン芸術週間の頃ならまだまだ明るい中を、今宵のオペラを観劇しに出掛ける時間がやって来る。良い席が取れたり、あるいはヴァーグナーやヴェルディの長めの出し物の時は奮発して座る事にしているのだが、そうした時は少し改まった格好をして出掛けるし、天井桟敷に決めた日は気兼ねなく床に座れる様に気楽な格好で出掛ける。人生を過った者達と同様に自ら自身も観客と言うオペラハウスの風景の一部になる為に出掛ける。
J・S・バッハやベートーヴェンやシューマンやショパンやブラームスの鍵盤楽器の音楽を、管弦楽曲を、室内楽曲を敬愛して已まぬ身でありながらオペラハウスが己の居場所なのだと錯覚して生きる事に慣れてしまう事が不思議で仕方がない。たまにはコンツェルトハウスや楽友協会でピアノリサイタルや交響曲を聞きにも行くが、ヴィーンに留まる時は冒頭にも書き記した様にヴィーン国立歌劇場に行くことが多い。ヴィーンフィルハーモニカのコンサートが午前十一時から聞けるのはだからとても嬉しい。演奏する彼等自身が夜は国立歌劇場のオーケストラピットに入るのだから、マチネーにならざるを得ないのだが、一日の内にその様にオーケストラコンサートとオペラを楽しむ事が出来るのもヴィーンだからこそだろう。そしてそうした音楽を楽しみとし、我が心は永遠と結託し、儚い人生を国立歌劇場で過すのだ。その上等な席で、あるいは天井桟敷の手すりに寄りかかり、あるいは、ホワイエでワインでも嗜みながら、バルコニーからリンクシュトラーセの夜の風景を楽しみながら。永遠と結託して・・・なんと言う耽美的な言葉である事か・・・!
ホフマンスタールもクリムトもそうして耽美的な滅びの美学に己を重ね合わせ歌劇場で過したに違いない。ヴィーンと言う街は滅びの香りが漂う街なのだ。狂乱の場や死にも等しい哀しみや死そのものが国立歌劇場やフォルクスオーパの舞台上で演じられるだけではなくその舞台がそのままにヴィーンと言う街に降りて来る様に錯覚する。現実は歌劇場の舞台の上やオーケストラピットに立ち上り、街は現実と言う名の幻想やお芝居や夢で満たされている。交響曲や管弦楽曲や弦楽四重奏曲やピアノ独奏曲やあらゆる種類の協奏曲を嗜むのとは全く違う物がそこに現れる。オペラとは単に音楽を、歌を楽しむ芸術などではないと悟った、いや魅入られた人々にとってのオペラとは真実を舞台の上に見る為に通い観劇する価値がある、人生最大の関心事なのではないかと思いたくなる。そしてその事を強く思わせるのが、この歌劇場なのだ。すなわちヴィーン国立歌劇場なのだ。ミラノでもバイエルンでもザクセンでもパリでも無くかつてのハプスブルク帝国の帝都ヴィーンにあるこの歌劇場なのだ。合掌。
時代の空気が熱く今も宿るそんな雰囲気を色濃く湛えているからでもあろうか。マリア・テレジアの時代からマーラーの時代、そして現代にいたるその時代時代の空気が全てこの歌劇場には今も凝縮されて残っている様な雰囲気に気押される。何もホワイエの天井近くに並べられたスポンティーニだのドニゼッティだのマイヤーベーアだのの名板を見上げて伝統を感じるからではない。空間に明らかに何者かの香りがするのだ。ミラノ・スカラ座が階段の壁に並べる過去のポスターに多少なりとも魂の連なりを具現化したのとは違い何かそこかしこに、具体的に示されることのけしてない伝統の空気が漂うのだ。
そんな雰囲気も、そう敢えて言うならヴィーンの亡霊達が集う様なそんな雰囲気もまた、あまたある人々を誘い真実がどこにあるのかを見誤らせるこの歌劇場の威力の、いや魅力の、魔力の一つなのだ。ドイツのイタリアのフランスの歌劇場のいずれもが伝統の雰囲気をそこに入ったのと同時に感じる事では変わらないが、ヴィーン国立歌劇場はそれ以上のもの、滅びゆく何ものかをも同時に感じるのだ。何度も言うが滅びゆく我が身でさえもまるで他人事のように感じるあの空恐ろしく、しかし、懐かしい感慨に浸るのだ。
ヴィーン国立歌劇場だけだ。その席に腰をおろし、あるいは天井桟敷の手すりに持たれてしまえばもう二度と娑婆には戻れないと言う恐れと同時に一種の誇りの様な物、うまく表現出来ないが優越感に似たものを感じる歌劇場はヴィーン国立歌劇場だけだ。おそらく私は自意識過剰で感情過多で、世紀末的雰囲気に侵された中毒患者で愚か者なのだろう。その時もしかしたら滅びゆく我が身を振り返ってさえいないのかもしれない。ただ儚き夢に踊り、舞台の上で繰り広げられるオペラの演目に魂を奪われ、意に染まぬ舞台に毒付き、麻薬で侵された中毒症患者の様に破滅してしまうのかもしれない。その様になっても意に介さないのかもしれない。愚かであると軽蔑されようと麻薬の様に本当の不道徳な破滅者ではないのだからそれも良しと考え様ではないか。例えその先にあるのもが死して初めてヴィーンに受け入れられると言う恐ろしく、悲しいけれどこれ以上ない栄誉であり喜びであるかもしれない出来事が待っていようとも良しとしようではないか。
オペラとはそれ程の物なのか?それ程の物なのだ!遠き異国の旅人はその様に思い、自己陶酔し天井桟敷で身を乗り出し、己自身が何か特別な何者かである様に勘違いしてその場に留まるのだ。誠に「道を踏み外した者」として。しかも天井桟敷に陣取ればわずか数ユーロと言う食事一回分にも満たない金額で持って己の人生が破滅する様を、終焉を迎える様を見て味わえるのだ。そんな歌劇場などここヴィーンだけではないか。わずか数ユーロで人生と魂を歌劇場に売り渡す事が出来る恐るべき歌劇場がヴィーン国立歌劇場なのだと納得し、それを愛するのだ。よりによって愛するのだ。愛を感じる歌劇場など他の歌劇場ではあり得ない。親近感を持つとかバイエルンの様に親密さを感じる歌劇場は他にあるが、愛など感じる歌劇場はヴィーンしか思い浮かばない。その愛は勿論、一方的なものとなり見果てぬ夢となり我が身を滅ぼすことでしか、死してしか、成しえないものなのだ。それにも関わらず、分かっているにも関わらず、ヴィーン国立歌劇場に永遠の忠誠を誓うのだ。我が人生はが終わるその時に至っても・・・。
後ろを振り返り見上げる。まるで我が身を他人のごとく見上げる様に・・・。
旅の果てに何時も訪れるのがこの歌劇場であるのはまったく特別な事ではなく、ただここにいる事こそが、音楽と、オペラと、人生と、何もかもがありそれが手に入ると感じさせてくれる、あるいは錯覚させてくれる、夢を見させてくれる、歌劇場であるからに他ならない。この歌劇場の天井桟敷で過す幾人もの人々の人生が終わる様を見せつけられ、己も又、ここで人生が終わるのを他人事の様に受け入れ、他人事の様に己を眺め、光より早く過ぎて行く人生の儚さを思う。そして最後には、そう最後には静かに、静かに滅び崩れ去って行く自らの人生を味わうのだ。その味わいは悲しげでホロ苦く涙にくれる様な味わいでありながら、甘美で果てしなく怠惰で、魂を揺さぶりながらも密やかなのだろう。
敢えて言うならば、幾千とあるオペラの終りの情景、例えばトラヴィアータの最後の場面の様な、世の儚さを思わせる傑作の数々のオペラ作品を差し置いて、一曲の曲に例えるならそれはオペラの一曲ではなく、偉大なオペラ指揮者でありながら一曲もオペラを作曲しなかったグスタフ・マーラーの交響曲第9番の最終楽章の終りのごとくに、人生も密やかに、厳しく、残酷に、永遠であるふりをしながら終わりを告げる。
旅の果てに訪れるのはこの歌劇場だ。ヴィーン国立歌劇場だ。何故ならこの歌劇場こそが終わりゆく人生に最も近い歌劇場だからだ。死が何時も身近にあるがごとくに滅びゆく人生の最も近くにある歌劇場なのだ。新しい世紀を迎えてからでさえ世紀末の香り漂う歌劇場なのだ。なんと言っても音楽の都、死して初めてヴィーンに魅入られた人々と我をも受け入れる都の歌劇場なのだ。ほんのまたたきの様に通り過ぎてゆく観光客やオペラに関わりを持たない市民達、音楽こそが人生と言う過激な愚か者を除いた平常な音楽ファンは幸いな事にその様な危うい人生がある事を知らない。彷徨い歩く人々のいる事はヴィーンの、いやもちろんヴィーンばかりではないが、けしてあかしてはならない秘密に違いない。
あらゆるオペラハウスを放浪して最後にたどり着く、そうした放浪者、彷徨える者達にとってこの歌劇場は放浪の終わる果てにある歌劇場なのだ。だからオペラに取り憑かれた者どもにとってこの歌劇場は特別な歌劇場なのだ。旅の果てに何時も訪れるのはこの歌劇場だ。ヴィーン国立歌劇場だ!繰り返す旅の果てに何時も訪れるのはこの歌劇場なのだ。如何に批判しようとも心の中からその存在を追い払おうとしても出来ないヴィーンにあるこの歌劇場、ヴィーン国立歌劇場なのだ!
そして私は歌劇場への旅を繰り返し、やがて旅を繰り返す事が出来なくなった時は最後にこの歌劇場にたどり着いて旅の終わりを迎えるのだろうか。放浪の旅の果てに、けして取り返す事の出来ない時間を封じ込める為にここに来るのだろうか。そして永遠にここに座するのだろうか。座してしまうのだろうか。死してその時に初めて愛情を両手一杯に迎えてくれるこの都に、ヴィーンに、ヴィーンの歌劇場に、ヴィーン国立歌劇場に。この歌劇場に永遠に座する人生を選ぶだろうか。座する人生こそが我が人生と悟るだろうか。たぶん、そうするのだろう。永遠に、永遠に、永遠に。