シフラ その3

例えば典型的な例としてリストのラ・カンパネラの演奏に触れてみますと、シフラより「高速」で弾ける技術を持ったピアニストはたくさんいます。 まるで無意味な比較ですが、ラ・カンパネラの演奏時間を較べてみればシフラの演奏が最も早いわけではありません。
シフラの演奏で感じられるのは先に述べましたように、この曲のどこが難しいのですかと言っている様に感じさせる立ち振る舞いと姿勢と指先から流れ出る音楽にあるのです。 目を閉じてシフラの演奏するラ・カンパネラに耳を傾けている限り余裕綽々とした印象が特別感じられる演奏かと言えばそうでも無いのですが、舞台上のシフラを見ながら聴くと確かに余裕綽々とした、難解な曲の演奏を「楽しんでいる」ように窺える様が表出してくるのです。 弾き終えた後で聴衆に、微笑みかける姿は確かに何か余人には及ばない技巧でもって演奏したと胸を張っているような姿ではないのです。 うまく言葉では言えないのですが、まあ「小手調べの一曲に満足していただけましたか? それならこちらも嬉しいのですが。」と言っているようなそんな印象があるのです。
真面目なピアノ音楽の演奏家ではなくショウマンだと誤解され語られるのはこの様な舞台の姿にあるのかと思えます。 真面目な表情や姿勢で真面目な曲を弾くのではなく、真面目な曲も「聴きもの」に変容させる巧みさが見え隠れしている様にも捉えられます。 生来真面目な曲(リストのピアノ曲は決して不真面目ではありません。 効果を狙った曲と言うのなら、いささかの留保付きで同意しない訳ではありませんが、この点もここで語る余裕はありませんので後程とします)をある時は笑みを浮かべ、ある時はコケティッシュなしぐさをしたり、弾き終わって聴衆の方を向いたときに少し肩をすぼめておどけて見せたり、演奏時のしぐさを大げさにして聴衆の笑いを誘ったりと、それがシフラの一夜のピアノの夕べに立ち会った人々が目撃するシフラのピアノリサイタルにおける姿なのです。

私はシフラにフランツ・リストの似姿を見たのです。 冒頭に書き記しました様に誰も、当たり前ですが私もリストの演奏を聞いたわけではありませんし録音や映像を見聞き出来る訳ではありませんが、リストのピアノリサイタルはこの様な雰囲気だったのではないかと感じたのです。
ご婦人方を卒倒させると書かれた多くの文献をよりどころにして、現代のロック音楽のスーパースターを引き合いに出され比較して語られるリストですが、私は19世紀のピアノビルトゥオーゾの時代の演奏会場における「刺激」は現代のそれよりは今少し穏やかであったと思うのです(電気による音響増幅や音質制御、レーザー光線による派手な照明など当時は無かったのです。 又、機械仕掛けのにぎにぎしいバロックオペラの時代の演出は現代のロックコンサートと似たような狙いを持っていたのでしょうが、投入される手法や電子技術がもたらす舞台演出はたぶん比較にならないほど現代の方が先鋭化されていたのです)。
コケティッシュなしぐさや微笑みやおどけて見せる様は現代においては、極々普通の「エンターティナー」が提供してくれる娯楽ですが、人間業とは思えないピアノ演奏が披露された後にふと行うこの様なしぐさは当時の聴衆にとっては相当な「刺激」あるいは「喜び」であったと思われます。

リストのラ・カンパネラ:(https://ml.naxos.jp/work/7154298):ジョルジュ・シフラ(Pf)