シフラ その4
ですから私は素直にリストの生の演奏会もシフラと同じ様なしぐさがありシフラのピアノリサイタルの様な雰囲気が漂っていたのだと感じたのです。 リストのリサイタルに出かけたらきっとこんな演奏会だったのだろうと推測します。 こうしてみるとシフラを「リストの再来」と形容するのは間違いではないと言って良いと思うのです。
だけれどもその様な雰囲気のリサイタルでは誤解が生じるのです。 娯楽としてのピアノリサイタル、興奮や刺激を求めてのピアノリサイタル、ピアニストが提供する超絶技巧の妙技を聞きに行くか、あるいは聞かさせられるピアノリサイタルは「真面目な」ピアノ音楽を聴きに来る現代の聴衆にとってはいささか毛色の違った演奏会なのです。 いえ、もちろん現代の聴衆も超絶技巧は好きで聴きたいと思い、刺激や興奮を喜んで受け入れるのは何もリストの時代だけの事ではありません。 そうではありませんが、まず、第一義的には音楽的な感動を求めて(精神性と言うのでしょうか)いるのが現代の聴衆ですから(そう断定して良いかは別の機会に譲ります)そこに誤解が生じるのは致し方がないのかもしれません。
シフラのピアノリサイタルは過度のサービス精神がもたらす、娯楽であり、超絶技巧を楽しむ場であり、お堅い精神的と称される音楽などを押し付けられたくないと思っている聴衆が出かけるピアニストの演奏会なのだと思われているならそれは、シフラ本人にとっても聴衆である我々にとっても不幸なことだと言わざるを得ません。 一方方向の思い込みや偏見がどれほど何か大切なものを損ない、優れた演奏を聞き損ねてしまうのかを考えれば大変悲しい事です。
誤解を受け続けていたリストの音楽も最近はようやく正しい評価がなされる様になりつつあり、アラウやレオンスカヤの章でも触れましたように、ソナタロ短調はベートーヴェンのソナタを継ぐものだと評価できます。既に故人であるシフラがリストを得意としていたことが、ある意味ではシフラの不幸だったのだと思うのです。 シフラが生きて活躍した20世紀の時代は(1921年~1994年)リストの楽曲が真面目な音楽として(つまり芸術性豊かで精神的な感動をもたらす音楽)認知されていなかったからです。 「不真面目な」音楽を奏でる輩は、評価するに値しないと「お堅い」天上界の(皮肉たっぷりに言っているつもりですが)お偉い方々はのたまったのです。 シフラはおそらくそうしたことも見越したうえで、自身の編曲物やショーピース的で派手な小品を楽しそうにジェスチャーたっぷりに弾き飛ばしてヤンヤヤンヤの拍手喝さいを浴びて見せたのです。 「お偉い方々」もシフラの優れた技巧とそれでもなお余りある音楽性を無視することは流石に出来なったのでしょう。
シフラにとっては決して誉め言葉だけではなかった、むしろ否定的な論評の言葉としての「リスト弾き」と言われながら、それでも偉大なピアニストの一人として遇せられたのですから。
今一度少し違った言い方で言いますが、ショパン弾き、リスト弾き、ベートーヴェン弾き、モーツァルト弾きなどの固定化された門切り型の形容詞、代名詞はピアニスト個々の得意な作曲家を表す上では悪くありませんが、ピアニスト自身だけでなく聴衆の視野も狭くする厄介な言葉ですから用心深く接しなくてはならないと思うのです。
(つづく)
リスト ピアノ・ソナタ ロ短調 S178/R21:(https://ml.naxos.jp/work/1521928):ジョルジュ・シフラ(Pf)